天国への階段

じゅん

幸せな午後の日だまりに不安は訪れる

 あまり男らしい話ではない。でも実に奇妙な出来事だった。後から思い返してみれば、それは僕と世界に関する哀しい変遷の最初の一片だったと思う。すべてはそこから始まり、そこに還っていくのだ。絶妙に交差するメビウスの輪のように、時間と空間は限りなく膨張し、そして限りなく収縮していく。


 いつだって事件は、非常にちっぽけで個人的な事象からはじまる。9月の第三土曜日の暖かな午後、僕は一人で近所の公園を歩いていた。何も考えずに、砂地の周りに等間隔で配置されている樹木を眺めていた。季節はすっかり秋らしくなり、茶色がかった枝の間から赤や黄色に染められた美しい紅葉がこぼれ落ち、そよ風に支えられて空中に舞っていた。僕はその一つがゆっくりと地面に落ちていく様子を安らかに見送っていた。幸福な時間がひとまとまりに集約されたかのような風景だった。ベンチには若い夫婦が静かに語り合っており、眼の端には乳母車を押しながらゆっくりと歩くお婆ちゃんの姿が見えた。左に広がる緑の芝生の上で子どもたちが追いかけっこをしていた。


 誰もが皆、現在を楽しんでいるように見えた。ベンチに腰掛ける若い夫婦はこれからの未来を語り合い、乳母車を押す小さなお婆ちゃんはこれからの余生をかみしめるように歩き、子どもたちは追いつくために、あるいは逃げ切るために勢いよく走り続けていた。雲間から差し込む淡い日の光が、穏やかに僕たちの未来を祝福しているように思えた。


 希望という言葉がこんなにも似合う情景はなかった。知的で静かな時間が幾重にも連なって僕の周りを満たし、渦巻いていた。踏みしめる大地の振動、微かに生命を刻む心臓の揺らぎ、一瞬一瞬を記憶に留めるように外界を覗く瞳のまばたき…。今まさに僕は生きている。目に見えるすべての幸福を祈り、与えられた時間にそっと口づけをするように生きている。僕は全身で生命の感覚を味わっていた。それは無意識に何気なく過ぎていく事象を少しでも留めておこうとする、淡い希望の瞬間だった。


 緩やかな白い道のそばに、二人掛けのベンチが誰かを待っているかのようにそっと置かれていた。僕はそこに腰掛けて、緑の丘を力いっぱい走り回っている子どもたちを眺めていた。彼らは一心不乱に目に見えるすべてを感じようと努めていた。自分と外界を把握し、少しでも調和させようとしているように見えた。


 僕は肌に触れる風の匂いを深く吸って、ゆっくりと吐き出した。体の中にあるリズムを整え、自分を取り囲む風景に馴染ませようとした。しかし、その儀式めいた行動のどこかに重大な違和感を感じた。その違和感は、子どものころ魚の骨が喉に刺さったときに感じたどうにもならない痛みと不快に似ていた。痛みの場所はわかるのに、それを自分自身で取り除くことも、和らげることもできない。ただそこに存在することしかわからないのだ。


 僕自身の中から湧き出てきた違和感は、徐々に身体全体を侵食し、闇の中に一人でたたずんでいるような気分を植え付けた。あれほど幸せを噛みしめていた風景は淡い灰色に染まり、まるで遠く離れた国のおとぎ話のようなリアリティの無さを露呈していた。僕は二、三回頭を振って咳払いをし、もう一度なだらかな丘の斜面と走り回る子どもたちの笑顔を見た。そこに自意識との共通点を探り出すために、現実とつなぐためのとっかかりを見つけるために、集中して目に映る一つ一つを確かめようとしていた。


 でも、すべては徒労に終わった。僕とそれらの風景との距離は限りなく遠かった。水を求めて砂漠をさまよう旅人がオアシスの蜃気楼を見るように、僕の心は穏やかな9月の午後の情景を綺麗に統一された幻想だと捉えているようだった。緑の芝生に咲くたんぽぽも、ベンチで語り合う若い夫婦の姿も、今では灰色に褪せてしまっていた。


 一体、何がおかしいというのだろう?どこに間違いがあるというのだ?僕の精神は静かな湖面のように澄み渡っていたし、身体はすみずみに至るまで生命力がみなぎっていた。僕には尊敬する親がいて、愛する彼女がいて、信頼できる友達がいた。とてつもなくかっこいい訳では無いが人並みの見た目は持っていたし、運動神経もよく、学校の成績もそれなりによかった。僕は自分の人生に一度として不満を持ったことはなかった。むしろ、生まれてきたこの自分の存在に対して、細部に至るまで感謝してもし尽くせないほどの尊さを感じていた。


 しかし、その痛みにも似た違和感は紛れもなく僕の内側にいた。それは鉛のような重たさで僕の胃の底を圧迫し、全身の神経を波立たせ、指の先を痺れさせた。僕は何度も何度も首を振って正気を取り戻そうとした。人間は消極的に生きようと思えば、いくらでも生きることができる。しかし、僕は少なくとも現実を肯定して生きたかった。それが正しくあるべき姿だと信じていた。一体、どこの誰が穏やかな午後の光に照らされた暖かなベンチの上でこんな思いをしなくてはならないのか?僕にはこの世界を幸福だと信じる権利があるはずだった。しかし、そんな信念を振りかざすほど、その違和感は僕の肉体に深く突き刺さり、心を強く震わせた。


 ポタッポタッと水滴が落ちる音がした。最初僕は雨が降ってきたのかと思い空を見上げたが、空には一面の青い背景の隅に白い雲がのんきに浮かんでいるばかりで、文句のつけようのない晴れ間が広がっていた。しばらくズボンについた水滴の黒いしみをぼんやりと眺めているうちに、僕は自分が涙を流していることを知った。僕の瞳からこぼれ落ちた大粒の涙は柔らかい頬を伝って、ズボンの布に吸い込まれそこに黒い染みを作っていた。腕で顔をぬぐって涙を拭き取ろうとしたが、涙はあとからあとから止めどもなく流れてきて、シャツやズボンを黒々と濡らした。


 何が起きているのか、全くわからなかった。顔を覆って涙を受け止めようとしても、涙は指の隙間を通り抜けて落ちていった。自分の置かれている状況を把握しようと努めたが、身体の衝動を客観的に説明することは不可能だった。原因もわからなければ、解決策も思い浮かばなかった。決して脱出できない牢獄の中で意味もなく蠢く囚人のように、訳もわからないまま身体の振動に耐えていた。背中が震え、嗚咽が漏れ、心臓がけたたましく鳴り響いた。軽い頭痛がし、小さな吐き気を催した。


 しかしそんな不安と動揺の荒々しい嵐の渦中にいながら、僕はその底に奇妙な安らぎを感じていた。僕の不安の根源には幼い頃に聞いた子守唄のような懐かしさがあった。不安と安らぎという、二つの屈折した相容れない感情が身体の中でひしめき合っているのがわかった。涙を止めようとしばらく顔を抑えていたが、やがて諦めて顔を上げ涙が流れるままに任せていた。 


 僕は公園のベンチに座って虚空を見つめる一人の青年を想像した。彼は風景から遮断され、取り残された一人の孤独な存在だった。それはひどく不安定で、危うげだった。少しでも他人に触れられれば壊れてしまうほど脆弱だった。どれだけ頭がよかろうが、どれだけ人に愛されようが、どんなに足が速くて背が高かろうが、一つの肉体の中に監禁されている存在。僕はどうにもできない自身の根源的な運命を嘆いて泣いているのだろうか…?


 いやそれだけではない。僕は何か大切なもののために涙を流していた。それは決して認識することのできない闇に隠された「何か」だった。僕の手から離れ、懐かしい場所に帰っていったものたち。それはもう二度と取り戻すことのできない失われた存在だった。僕の意識の外で何者かによって奪われ、その事実を覆い隠され、消えていった哀れな存在。


 明らかにこの世界は仕組まれていた。現実は何者かによって注意深く周到に加工され、意図的に作り変えられていた。他人に説明できるような具体的な根拠は何一つとしてなかったが、ただその予感だけがあった。


 腹の底から湧き上がってくるような怒りが、不意に身体を襲った。痙攣のような揺れを感じながら、僕はどうしようもない衝動に自らを委ねていた。それは唐突な無力感だった。この世界を形作る、姿の見えない他人の工作に対して、何の抵抗も対抗策も打ち出せない僕自身に対する怒りだった。止めどもなく流れる涙、吐き出される嗚咽、行き場のない感情、全てが混沌とした一つの集合体となって僕の中で渦巻いていた。


 必要なのは、時間。ただ、時間のみだ。


 心の中でそうつぶやいた。たとえここで朽ちることになったとしても、僕はそれまでの存在に過ぎなかったというだけのことだ。誰にも理解されない、一人だけの苦痛を抱きしめて、僕は身体中の水分がなくなり、涙が止まるまでベンチに座っていた。身体の震えも、時間が経つにつれて少しずつ落ち着いていった。


 気がつくと太陽は落ちきり、夜空の暗闇を黄色く縁取るような三日月が東の空に輝いていた。僕は新しく生まれ変わったような気持ちで、ベンチから立ち上がった。もう何も考えていなかったし、どんな感情も湧き上がってこなかった。ただ無心で、自分の帰るべき場所に歩みを向けていた。


 まるで誰もいないかのように街は静かにたたずんでいた。冷酷な目で僕の心を透かして見ているかのようだった。月は僕の影を長く伸ばし、ただ黙って見下ろしていた。家まで帰る最中、誰ともすれ違わなかった。孤独をうちに秘めて歩く一人の青年を、月は煌々と照らし出していた。


 以上が、僕が体験した奇妙な出来事のすべてである。繰り返すが、これはほんの個人的で些細な体験だ。しかし、それは確かにすべてのはじまりであり、すべての終息地点だったのだ。僕は赤子のように何も知らずに、ただ個人的な出来事としてあまりにも狭いスケールで自分の変容を受け止めていた。そういう意味では僕は幸福だった。しかし、僕の背後で世界はゆっくりとした足取りでその有り様を変えていたのだ。

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天国への階段 じゅん @kiboutomirai

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