第23話 ラストチャンス

 俺が「マンションのエントランス前に来ました」と電話したとき、緋雨先輩は声をつまらせて呆然とした様子だった。

 ややあってスマホの向こうから、こちらの正気度を測るような声が返ってくる。


「……夜よ?」


「そうですね。雨も降ってます」


「な……なんで……」


「なんでって先輩が呼んだんでしょ。うちに来てって」


「ば、馬鹿! あれは……あれは酔ってて……」


 そんなことだろうと思っていたがよかった。俺は苦笑いする。

 チャットにはすぐ「どうしました」と打ち込んだが、それに対して先輩の返事はなかったのだ。「くしゅん」くしゃみをひとつする。


「なんであんなの真に受けて……待って、いまくしゃみした? 濡れてるの?」


 はあ、と肯定する。アパートを飛び出しはしたが秋の夜の雨は強く、タクシーを捕まえる前にかなり濡れてしまった。タクシーの運転手には嫌な顔をされたものだ。

 ややあって、「……いま、迎えに出るから」そう声がした。




 緋雨先輩は白いバスローブ姿になっていた。


「ごめんなさい……どうかしてた。終わってるね、私」


 俺を部屋に招き入れ、タオルでこちらの頭をぐしゃぐしゃと拭きながら、先輩が沈んだ声で謝る。ワインひと瓶を空けて朦朧としていたのだという。

 雨音を聞いているうちに寂しさが急にこみあげ、誰かにそばにいてほしくなって、俺に向けてあの言葉を打ち込んだのだと。

 そのあと酔いつぶれて、さっき起きたばかりだという。


「まあ、肌寒い季節の雨って気が滅入りますもんね」


 俺が答えると、先輩は拭く手を止めて俺の目をじっと見つめてきた。


「……十郎くん、なんで来たの? 酔っぱらいのメンヘラ行為だったのに」


「先輩にわがまま言われるなんて初めてですからね。駆けつけなきゃって思っただけです」


 一瞬、泣きそうに先輩の顔が歪んだ。

 緋雨先輩はうつむき、それから、


「……服の中まで濡れてる」


「ああ……大丈夫ですよ。このくらい」


「駄目。風邪引く前に脱いで、シャワー浴びて」




 ――大丈夫かなあ、先輩。


 温かいシャワーが冷えた肌に血の気を戻らせていく。

 ピンクのバスルームランプの下、人心地つきながら考えるのは、やはり先輩のことだった。


 部屋にあげられたとき、しどけないバスローブ姿にどきどきするよりも先に、俺は懸念を覚えていた。

 前来たときより林立する瓶や缶が増えていた気がする。先輩とアルコールの縁は切れていないどころか結びつきを強めたようだった。


 ――酒はほどほどにしましょうとやっぱ諭すべきだよな……説教じみたことしたくないけど……


 そう腹を決めたとき、バスルームの向こうに気配がした。

 肩越しに振り返ると、扉のすりガラスの向こうに先輩の影が見える。俺のぶんの着替えかなにかを持ってきてくれたのかもしれない。


 ……などと思っていると、その影がするりとバスローブを脱いだ。

 そしてきぃっと扉が開いた。

 てきめんに跳ねる心臓。

 慌てて俺は前を向き直す。


 ぴとりと、柔らかい素肌が背中に寄り添ってきた。体の前に手を回されて抱きしめられる。柔くすべらかな裸身が押し当てられ、接触した部分に感覚が集中する。


「ちょ……っと、先輩……」


 舌の付け根がしびれているかのようで、声がうまく声にならない。

 それに対して、水音にまぎれて静かな声が、


「セックスしよう、十郎くん」


 ささやかれて、肩口にくちづけられた。

 かっと血が熱を帯びる。

 たぎる血、めぐる血、どくどくと鳴る血。

 腰のあたりで、炎のように淫情が渦巻く。見るまでもなく、自分の器官が反応してぐぐっと持ち上がっているのがわかる。


 とっさに、シャワーの水温調節器に手を伸ばして冷水に切り替えていた。

 頭から浴びる冷たさに「うひぃ」とうめきが出る。冷水に驚いたか、先輩の腕も俺から離れた。

 すぐに水を止めて俺は向き直った。


 目を見開いた先輩の肩をつかみ、体を離す。なるべく顔から下を見ないようにしながら問いただした。


「……どうしたんです、急に」


 誘いをかけてきたにしては、先輩の顔色はすぐれなかった。

 目には光がなく、捨て鉢な雰囲気。

 唇がかすかに開いて、理由をつむいだ。


「十郎くんとの約束……私は、守らず逃げたから」


「………………」


「今夜、来てくれたし……埋め合わせになるなら、このくらいはと思って」


 高校のときの約束。

 ふたりとも作家になったなら、キスより先に進もうと。

 書けなくなった者同士、俺たちは見つめ合った。水滴にゆらめく桃色の明かりの下、かつて恋した相手と裸で向き合っている。それなのに、もうまったくその気にならなかった。

 約束を交わしたときの甘く浮き立つ心地は微塵もない。

 苦く、哀しく、寒々しい。


「こういう形で……先輩と、したくはないです」


 だから、そう言うしかなかった。

 受け入れてしまえば、終わったときにお互い死にたいほどみじめになると思ったから。いまもじゅうぶんにみじめな気分だけれど、ずっとずっとみじめになるから。


 先輩は泣いた。

 ぽろぽろと涙をこぼし、バスルームを出てふらつきながら部屋に戻っていった。

 俺が体をざっと拭き、バスタオルを腰に巻いて追いかけると、先輩はベッドの上で毛布にくるまってうずくまっていた。


「書ける自分に戻りたい。

 そう思って、こころの病院に通って薬飲んでる。カウンセリングだってした」


 しゃくりあげながらの吐露。


「でも駄目だったの。アイデアまでは出せるけど、プロットに仕立てるあたりから気分が悪くなり始めて、本文を書こうとしたら吐き気とめまいがしちゃう。

 虚しくて、アイデアをノートにとることもしなくなった。本も読まなくなった」


 毛布を頭からかぶり、その中から先輩はつっかえつつ言う。


「この十月からは大学も休学しちゃってる。パパとママが一人暮らしさせてくれるのをいいことに、仕送りのお金でお酒を飲んで、ずっとぼーっとして動画見て、オナニーして……今の私は日がな一日そんな感じ。

 こんなの終わってるわよね。死にたいなが口癖になっちゃった。

 気がついたらスマホで君を呼んでた……でも間違いだった」


 声もかけられなくて、俺は立ち尽くして聞いている。


「ひかりの中に帰りたい。作家になる夢を十郎くんと追っていた高校のころに戻りたい。君といっしょに歩いていられたころに。

 でも……たぶんもう、永遠に無理だから。私はもう何も作れない。

 だから十郎くんとは、もう会わない」


「先輩……そんなこと言わないでください」


「私……私が去年、君と再会してから時々会っていたのは、君が私とおなじ『書けないひと』になったから。君がおなじところに堕ちてきたと思ったから。ひどい人間。醜い人間だと思ってくれていい。

 でも……君は私とは違った。

 君は小説を離れても『創れるひと』だった。

 絵を描いていけばいい。菅木さんといっしょに行けばいい。あのひとといっしょに、新しいひかりの中を歩いていけばいい。

 帰って、そしてもう来ないで。お願いだから……」


 毛布の中から先輩の手が出て、部屋の壁際のデスクを指差す。


「タクシー代、机の上に置いたから。

 ……高校の時からのアイデアノートも置いたから。

 持っていって。あのころを思い出すものは、もう見たくない……」


 ふたりで思いついたアイデアを記していったノート。

 それも捨てると、先輩はいう。





 俺は武蔵小杉の自分の部屋に帰ってきていた。

 精神的に疲れ切って、身を投げ出すように布団の上に転がり、そのまま朝を迎えていた。

 一晩寝ても、気力が回復した気がしない。


「どうすりゃよかったんだよ……」


 あのとき何も、先輩にかけられる言葉はなかった。

 抱かなかった時点で、たぶんもうどんな言葉も先輩には届かなかったのだ。抱けば解決したとも思えなかったが。

 オイスター先生との賭けの刻限が明後日に迫っている。だが何もする気が起きない。どうせ勝てない、もうどうにでもなれだ。

 俺はスマホを開いてぼーっと眺めた。


 編集者の陳さんから、メールが届いていた。


>有馬先生。お世話になっております。

>お約束どおり、単なるスランプではなく作家をやめざるをえなくなった人たちについて聞き取りを行いました。


「もう遅いよ……」


 先輩のためになにかできることはないか、陳さんにたずねて調べてもらっていたのだ。いまとなってはすべて無駄に終わった。それでも目はなんとなく文字を追う。


>ほとんどの人はそのまま去っています。ただ一部は――


 その瞬間、チャットアプリの着信通知が入った。

 てりぃ先生。


『いますぐチュイッターを見ろ!!! オイスター先生のアカウントだ!!!』


 エクスクラメーションマーク(!のこと)をいくつも連ねてただならぬ気色。

 ? と首をかしげ、俺は言われたとおりにチュイッターを立ち上げ――


「…………えっ。

 おいおい……マジか」


 いや、これは。

 乾いた笑いが出そうになる。

 笑っちゃ悪いな。笑っちゃ悪いが、笑うわこんなん。

 笑うしかないような状況の変化だ。


 そして、今度は電話の着信が入った。

 オイスター先生から。

 スマホを耳に当てた瞬間、悲鳴とも絶叫ともつかない大音量が流れ出してきた。


「うわーーーーーーん十郎! ぼくのアカウント凍ったーーーー!!!」


 今しがた見たオイスター先生のアカウントホーム画面を俺は思い返す。



『 このアカウントは凍結されています 』



「おまえ、エロエロな絵をアップしまくってたもんなぁ最近」


 そう……チュイッターは絵描きにとって便利なツールだが、こういうリスクがつきまとう。

 運営によってセンシティブと見なされたアカウントがある日一方的に凍結されるのだ。

 B.B.Bが裏目に出た形。


「ふざけんな! 十八禁レベルのはひとつもなかったじゃん! ほんとふざけんなチュイッター運営――!!! ぼくのフォロワー数七十万のアカウント返せ!」


「まあ、異議申し立て? しろよ。凍結解除されることもあるらしいじゃないか」


「それはもちろんする、絶対に解除してもらうに決まってるじゃん! 法に訴えてでも取り戻してやるからなチュイッター社!」


「まあでもすぐには解除されるわけじゃないだろうけど……」


 ――あ。


 ぱちりとなにかが頭の奥で弾ける。

 脳細胞で電気信号が火花のように散りはじめる。


 ぱちり。ぱちん。

 ぱちぱちと鳴る。脳髄が。

 起こった複数の出来事が結びついていく。

 陳さんから来たメールの文面を思い浮かべる。

 緋雨先輩の部屋から持ってきたアイデアノートを目で確かめる。

 ピースがはまった。


「オイスター先生……いや、菅木」


 俺は声をかける。親友そして打倒すべき相手に。


「おまえのことさ、嫌いじゃないよ。むしろ好きだよ」


「ふぇ!? い、いきなりこんなときに何いってんの!」


「でもさ、これが俺にとって最後のチャンスのようだからさ。

 だから――おまえの不幸につけこんでも悪く思うなよ」


 一年あったこの賭けの、本当に本当の最後のチャンス。

 俺がこいつに、勝つ機会。

 この賭けの勝敗はしょせん俺とこいつのあいだの主観的なものだ。俺が勝ったと言い張れる状況があればそれでいい。


「賭けの刻限はおまえの誕生日の翌日。あさってだ。

 その日までに・・・・・俺のチュイッター・・・・・・・・アカウントの・・・・・・フォロワー数が・・・・・・・おまえより多ければ・・・・・・・・・俺の勝ちな・・・・・


「はい?

 ………………ちょっと待てぇ十郎!?!?」


 オイスター先生の叫びを断つように通話を切る。


 俺、有馬十郎のアカウントのフォロワー数、現在6826人。

 オイスター先生のフォロワー数、現在0人。


 残り二日。

 

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