4 ユーリス・オズマリオン

 研究棟とは、リリ先生と最初に見たドームのうち、とくに小さいと感じた無数のドーム群のことのようだった。

 梣と部屋名が書かれたプレートを見上げ、七々子は先を行くユーリスに倣って水棲馬すいせいばから降りて部屋の中に入る。

 校内の移動はこのように、水族の助けを借りるらしい。


 透明なドームの外では、美しい女の人魚がユーリスを誘惑しようと身をくねらせている。

 ユーリスが先端が三日月のように湾曲した杖をひと振りすると、途端にドームに影の暗幕が張られた。

 一段と増した闇のなかで、骨火の炎がより一層激しく燃えさかる。

 室内はがらんとしていて、円卓の上に黒く変色した年代物の銀の天秤といくつかの魔術に関する文献が積み重なっているほかはほとんど物がない。

 有り体に言って殺風景だ。


 ユーリスは円卓の天板に浅く腰掛けた。こちらを向いてはいるのだが、目線が交錯することはない。

 ここまで来る間も、彼はなにか一言でも声を掛けてくることはなかった。七々子も不愛想な方なので人のことは言えないが、彼の言う“案内”とは随分と寒々しいものを指すようだ。

 もっとも、彼に七々子を“案内”する気は端からなかったのだろうが。

 だが、相手がそのような態度に出たからといって、こちらもいたずらにユーリスの敵愾心を煽ったところで仕方がない。

 監視をするにも表面上は友好的なほうがずっとやりやすいはずだ。

 意を決して、七々子は一歩前に進み出た。


「自己紹介が遅れたけど、椿木七々子よ。出身は帀目。あなたと同じ隊になれてうれしいわ」


 ぎこちなく微笑んで、右手を差しだす。初対面の人間——それも魔術師にこれほど友好的に接したのは久しぶりだった。


 ユーリスは意外にも七々子の手を取った。掌がすっぽりと包み込まれる。

 瞳子はお姫様、と言っていたが、七々子の掌などよりよほど大きい、青く血管の浮いた手だった。もうほとんど大人の男と遜色がない。

 次の瞬間、七々子は強い力で引き寄せられ、なにか硬いものに鼻っ柱をぶつけた。柑橘系のツンとした線の細い香水の香りが弾ける。

 七々子は顔を顰め、鼻を押さえながら目線を上げた。どうやらユーリスの胸にしたたかに顔をぶつけたらしい。


「なんのつもり——」


 七々子は声を上げかけ、まだ自分の手が解放されていないことに気がついた。


「なんのつもりだって? それはこっちの台詞だな、空骸くうがいの犬め」

「な——」


 七々子はそれきり絶句した。


 空骸。


 魔力をもたない非魔術師を魂のない空っぽな遺骸にたとえた、差別用語だ。

 今では純血の魔術師などほとんど存在しないにもかかわらず、由緒ある魔術師——とくに解放派のなかにはこうして非魔術師や混血の魔術師を蔑む輩も多くいた。


 自分のことを言われるのはいい。でも、新や日鞠のことをそんなふうに言われるのは赦せなかった。

 握りしめたもう片方の拳のなかで、爪が薄く皮膚を抉る。その痛みでなんとか怒りを押し殺した。


 ここに来るまでは、同級生を監視することに良心の呵責もあった。

 もし、新や日鞠のような優しい人間を追いつめるようなことになったら、どうしようと。

 だが、そんな心配は杞憂だったらしい。ユーリスのような純血の生粋の魔術師が、善良であるはずなどなかった。後ろめたさを感じていたのが途端に馬鹿馬鹿しくなる。


 七々子は彼を罵倒する代わりに、迷いなく作り物の笑みを貼りつけた。


「ここは学び舎よ。魔術師にも色々な立場があるけれど、せめてここでは学友として過ごせない?」


 自分で言っていても薄ら寒さを覚える言葉だ。言われたユーリスはなおのことそう感じたようで、表情の酷薄さに拍車が掛かった。


「きみの言うところの学友というのは、随分と物騒な関係を指すらしい」


 七々子がスパイ目的で学校に潜り込んできたことなど、彼ももとより承知のようだ。

 この分では、七々子の生まれや能力、ここに来た経緯はかなりの精度で調べ上げられていると見たほうがよさそうだ。


「物騒だなんて。せっかく同じ隊になったんだから、協力し合いたいだけよ」


 ユーリスは乾いた笑いをこぼした。


「僕よりもよほど、猫かぶりがお得意のようだ」


 ユーリスは円卓に座ったまま身を乗り出して、七々子の耳元で囁く。

 ユーリスの肩を押し返そうとするが、びくともしない。魔術を使われたところでこのように正面を切っていては勝ち目がないだろうが、純粋な力に訴えられてもどうにもならない。

 知らず肌が粟立ち、指先が微かにふるえた。思わず夜魚の名が舌先まで出かける。

 だが、七々子がそうするよりも早くユーリスは忌々しげに手を放した。

 ちいさく長く息をついて、少し乱暴にみずからの金糸のような髪を掻き上げる。


「……ヴァルフィアの石板の件で僕を疑っているなら、お門違いだ。僕が非魔術師を滅ぼしたがっているとでも?」


 先ほど空骸などと吐き捨てたのと同じ口で心底から軽蔑したように言われても、虚しいだけだ。

 七々子は失笑して、思わず喧嘩を買ってしまう。


「あなたがたとえ過激主義者でないにしても、第六時の塔の手に落ちたら同じことよ。あなたは魔術遺産の封印を解きえる、古代魔法の承継者。自分の力がどう作用するのか、もう少し理解すべきだわ」


 もし第六時の塔がユーリスを手に入れて、石板に封じられた大魔術が発動すれば、そのとき犠牲になるのは新や日鞠かもしれない。そう思うと、目の前が真っ暗になる。

 七々子は決して博愛主義などではなく、むしろ魔術師非魔術師にかかわらず、人間がそれほど好きではない。

 だが、ふたりを喪うことだけはどうしても耐えがたかった。


「——ツバキ。きみは僕の恋人にでもなったつもりなのか?」

「は?」


 思わぬ切り返しに、必要以上に剣呑な声が出てしまう。


「今日初めて出逢ったきみのほうが、僕のことをよくよく知っているとでも?」


 よく回る舌だ。次から次へと飛び出す皮肉に返す言葉も見つからないが、だからといって彼を見過ごすわけにはいかない。


 第六時の塔の百鬼も、非凡な魔術師だった。

 それこそ、ユーリス・オズマリオンと並ぶほどに。将来の帀目を背負って立つ強大な魔術師だと持て囃されていた。

 その彼が、四年前に帀目で民間人を虐殺した。

 あの事件を機に、解放派と規制派の間で態度を決めかねていた七々子は一転、規制派に転じた。


「私は魔術師の責任の話をしているのよ。ヴァルフィアの石板が取り戻されるまでは、あなたは厳重に保護されるべきだわ」


 大いなる力には、大いなる責任が伴う。

 非魔術師は決して守られるだけのか弱いだけの存在ではない。だが、魔術師がひとたび無秩序に力を振るえば彼らはひとたまりもない。

 だから七々子は非魔術師をそのような災厄から守るのが魔術師としてのおのれの役目だと考えるようになった。

 それゆえ七々子は、ローグハイン行きを受け入れたのだ。


「きみが僕に対して、過干渉で妄信的な保護者役を演じたいことはよく分かった」


 ユーリスは肩を竦めてそう言ってから、七々子の喉元に杖を突きつけた。

 宝石じみたエメラルドグリーンの眸に翳がかかる。


「規制派はやれ非魔術師の権利だの、やれ魔術師の責任だのと御託を垂れるが、そのくせ僕らにも同じ権利があることは決して認めない。反吐が出る」


 ユーリスはぞっとするような声音で宣言した。

 七々子の周囲に影水が沁みだすのを見てとったのか、彼は早々に杖を引っ込める。

 七々子と事を構える気まではないらしい。


「ザネハイト先生も無体なことを仰る。そんな相手と、どうそぐえって?」


 ユーリスはそう吐き捨てると、部屋を出て行った。

 もうひとりの梣隊の隊員のことも実践魔術演習に関する情報も、なにひとつ教えてくれないまま。同じ隊になったからには最低限の会話はできると見込んでいたが、楽観が過ぎたようだ。

 この分では、彼が第六時の塔に協力する可能性があるという懸念も、あながち間違いでもないかもしれない。

 そうとなればなにがなんでもその尻尾を掴んで、その身柄を早いところ機構に引き渡さなければ。

 七々子は心に決めると、ユーリスの消えたドームの外を睨みつけた。

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