第三章 魔法学校での日々
1 境界生物学
翌朝、七々子は朝陽の射さない部屋で目を覚ました。
海の底には、朝も夜もない。ただ一面の闇が広がっているだけだ。これ以上ないくらいに安全というのがこの魔法学校の謳い文句らしいが、こんな薄暗くじめっとした空気が年柄年中続くのかと思うと、いくら陰気な性分といえど辟易としてしまう。朝の清々しさの欠片もない。
女子寮は四人一部屋が基本らしいが、七々子があてがわれた部屋の住人は三人だけだった。
二段ベッドの下の段の向かいでは、少女がゆるく波打つ赤毛を編んでいる。たしかこのユルグ出身で、非魔術師の両親をもつ同じ七年生のテナだ。
「おはよう」
七々子の挨拶にテナは顔を引き攣らせる。
さっきまで上機嫌に控えめな鼻歌まで歌っていたのに、えらい変わりようだった。
「授業のことで、聞きたいことがあるのだけど」
「ご、ごめんなさい。わ、わたし、課題があるから!」
テナは脱いだパジャマを寝具に突っ込むと、編みかけの三つ編みがほどけていくのにもかまわず、ばたばたと部屋を出て行ってしまう。
案の定の展開に、七々子はちいさく息をついた。
どうやらこれは、もしかしなくても避けられている。
昨夜も二言三言挨拶を交わしただけでそそくさとベッドに潜り込まれてしまった。そのときからもしやと思っていたが、これはもう認めざるをえない。
編入早々悪い意味で注目の的になっている七々子と、関わり合いになりたくないのだろう。
テナは非魔術師家庭出身なので、ユーリスと同じ解放派に属しているとは考えにくい。だが、七々子と親しくすればユーリスや解放派の生徒を一気に敵に回すことにもなりかねない。平穏な学校生活を望む生徒にとっては、七々子の存在は厄病神と大差ないにちがいなかった。
べつに友人を作りに来たわけでもないし、帀目にいた頃も友人らしい友人は日鞠ひとりだった。今さらへこんだりしない。
だが、ユーリスに関して情報を得られないのには困ってしまった。
もうひとりのルームメイトのハヴィはと見れば、まだよだれを垂らして寝息を立てている。これは当分会話は難しそうだ。
仕方なく、昨日の歓迎会の間にリリ先生から渡された羊皮紙を覗き込む。
それには、七年生が受講できる科目がびっしりと書き込まれていた。
明日から翌週の金曜日までが履修登録期間だ。必修科目はいいとして、選択科目が厄介なことこの上ない。ユーリスを監視するためには彼と同じ科目を受講しなければならないが、果たして彼がどの科目を選択しているのかさっぱり分からなかった。
だからこそ、テナから情報をもらえないかと思ったのだが。
これは期間を目いっぱい使って、虱潰しに授業を当たっていくしかないだろう。
七々子は鞄を引っ掴むと、自分の部屋というにはまだよそよそしい寝室を後にした。
*
月曜一限の授業はいきなり選択授業で、七々子は境界生物学の行われるリリ先生のドームに水棲馬を駆った。
水棲馬の扱いに手間取り到着がぎりぎりになってしまったが、どうやら間に合ったようだ。
息を切らしつつ、講義室を見渡す。
ざっと三十人以上のローグハイン生で席が埋まっていた。一学年四十人足らずの小規模校で、中等課程——六から八年生のみが対象の選択授業のクラスということを考えると、驚くほどの出席率だ。
どうやらリリ先生の授業はかなり人気の部類らしい。
しかし、肝心のユーリスの姿は見当たらない。
七々子が朝早くに朝食を食べに骨火の間に顔を出したときには彼の姿はなく、尾行も叶わなかった。夜魚に頼んで周辺の捜索もしたものの、広大な魔法学校からなんの手がかりもなしに目当ての人物を見つけるのは骨が折れ、失敗に終わったのだ。
瞳子が七々子とユーリスの魔術は同根だと言っていたので、案外興味のある分野は似通っているかもしれない。そう思って仕方なしに素直に自分に役立ちそうな授業に飛びついてみたのだが、当てが外れたらしい。
ふと、盛大な舌打ちが聴こえた。
見れば、鳶色の髪に青い目の少年が七々子を睨みつけている。ユーリスより体格も大きく、スポーツマン然とした身体つきだ。カフスボタンは七々子がつけているのと同じ、猫目石。ローグハインの制服は、カフスボタンで何年生かがひと目で分かるようになっていた。
たしか、昨夜の歓迎会でもユーリスのすぐ傍に座っていて、七々子に敵意を向けてきた人物だ。名前は分からないが、要注意人物として覚えておいた方がいいかもしれない。
七々子は慎重に後列の席に腰掛けると、ドームの外に待機させていた夜魚に呼びかけた。声を低めて、いくつか目星をつけていた講義室を巡ってユーリスを探すように命じる。
七々子自身がドームから抜け出すことも考えたが、編入早々講義をサボってうろつくというのも先生たちの心証を悪くしてむしろ任務に支障をきたすと判断した。
けれども、七々子は夜魚をすぐに呼び戻すことになった。
間もなく、リリ先生がステッキとテールコートとシルクハット姿で現れた。驚いたことに、すぐ後ろにあの目立つ金髪頭が見える。
その腕には、なにやら大きく古めかしいトランクが抱えられていた。どうやらユーリスはリリ先生の手伝いを言いつけられていたらしい。
リリ先生はユーリスにありがとうございますと礼を言うと、教壇にひょいと飛び乗った。
「新たな顔もあるようですから、改めて。境界生物学は、妖精や精霊、怪物に幽霊に妖怪——すなわち、非魔法界で実在しないとされている生物を扱う学問です。実在しない、という言説は今この瞬間に私が身をもって否定しておりますから、今さら言及するまでもないでしょう。このクラスは初等課程よりは実践的に、しかしあくまでもその初歩に触れる中級編です。では教科書の二二六頁をひらいて」
リリ先生が指示すると同時に、七々子の机に一冊の本が出現する。『境界生物、その深淵と付き合い方』というタイトルの大型本である。編入して間もなく、履修登録期間中の七々子のために教科書を貸してくれるらしい。
七々子はそっとその擦りきれた頁に手を掛けた。
仰々しいタイトルのわりに図版が多く、一ページごとに様々な境界生物たちが本のなかで目まぐるしく駆け回っている。
ぺらりと捲った三二頁はドラゴンの頁だった。火を噴いたドラゴンのせいで文字が焼けて煤のように黒く擦れる。魔法界の品には往々にして付き物なアクシデントだが、借り物の教科書なのに、と七々子は顔を顰めた。
リリ先生が指示した二二六頁には、背丈一フィート半ほどのユルグに生息する妖精のことが記されていた。
「レプラホーン。ユルグ在住の方はもちろんご存じでしょう。ローグハインに数年暮らせば、寮の部屋にも何度か出たことがあるかもしれません。今日は皆さんに――」
リリ先生がそこまで言ったところで、こーんという金属の音が響いた。どうやらトランクのなかから聴こえてきた音のようだ。その音に、生徒たちの数人がざわめく。
どうやら、トランクの中にはレプラホーンが入っているらしい。
「おや、どうやら働き者の妖精がいるようです。さて、誰かレプラホーンの仕事について話をしてくれる方は?」
リリ先生の問いかけに、何人かの手が上がる。リリ先生は、七々子の前に座っていた男子生徒を指名した。
「はい。家事をしたり、家畜の世話をしたりしてくれます」
男子生徒の言葉に、リリ先生はチッチッと首を振る。
「それは似て非なるもの。ブラウニーの類です」
リリ先生は失礼と言って、自身のスラックスの裾を持ち上げると革靴を披露した。牛革のよく手入れされたストレートチップが、つやつやときめ細やかな光沢を放っている。
「レプラホーンは靴職人です。先ほどの音は小槌で靴を叩く音。私の靴も彼らによるフルオーダーメイドです。なかなかよい仕事をしますよ、彼らは」
リリ先生は口の端を上げると、彼の背丈ほどもある巨大なトランクに手を掛けた。
その様子に、七々子のルームメイトのテナから噛み殺したような悲鳴が上がる。
「リ、リリ先生、その中にはレプラホーンがいるんですよね?」
「ええ、今日は皆さんにレプラホーンの財宝を手にする機会をさしあげようと思いまして」
財宝、という言葉に色めき立ったのはほんの数人だった。
レプラホーンを捕まえた者には財宝がもたらされるという伝承は、魔法界を飛び越えて非魔法界にまで知れ渡っている。しかし実際に手にした者など見たことがない。
なにしろこの妖精は、多くの妖精が往々にしてそうであるように、言わずと知れた悪戯好きなのだ。
「さて、私がこの授業で口を酸っぱくして申し上げていることですが、もう一度境界生物に接するときの大事な心構えを思い出しておきましょう。——七々子」
いきなり指名され、七々子は目を瞬いた。
途端に講義室中の視線が突き刺さる。
「私はこの外見ですから、いつも新入生たちから侮られがちです。ですが七々子、あなたは初めから私を先生と呼んでくれましたね。あなたには、境界に関わる魔術や生物を扱う素養がすでに備わっているようです」
七々子は戸惑いつつも、リリ先生の言いたいことを理解する。
「七々子、あなたが境界生物と関わりを持つときにもっとも大切にしていることは?」
少し考え込む。七々子にとっていちばん身近な境界生物といえば、夜魚だ。
彼の悪神に関わるときに気をつけなければならないことはいくつもある。でなければ、一瞬にしてひと飲みにされてしまうからだ。だが、そのなかでももっとも大切にしていることといえば――。
「……『畏れ』です。こちらの言葉だと、敬意という言葉が近いでしょうか」
七々子の言葉に、リリ先生は拍手をしてブラボーと囁いた。
「『畏れ』とは実に帀目の魔術師らしい言葉選びですが、その解説は東洋魔術の先生に譲るといたしましょう。他者、異なるものに対して敬意をもてるかどうか。それ如何で境界生物が人間を見る目は一変します。逆に言えば、それがない人間など境界生物にとってはただの餌です。しかし敬意だけでは残忍で狡猾な境界生物には足りない。もうひとつ、肝要なことは? ——ユーリス」
リリ先生の指名に、ユーリスは微笑んで答える。
「おのれを手放さないことです」
リリ先生はファンタスティック、と賛美するとコツコツと踵を鳴らして学生たちの周りを歩き回りながら懇々と教えを説く。
「境界生物は、自分の領域に人間を引き摺りこもうとしてきます。そこに一線を引けるか否か。自分とそうでないものの両者を同じくらい尊重できるかどうか。——あなたと私はちがうという至極明快なことに思い至れるか。それに気がつくことができれば、さほど悲惨なことにはならないはずです」
教室の半分くらいの生徒がちんぷんかんぷんだ、という顔をして目を見合わせる。
「いかにも、理論は所詮、理論でしかない。実践あるのみです。さて皆さん、準備はよろしいですね。お手並み拝見といたしましょう」
リリ先生は秘密めかして笑うと、生徒たちの制止の声も聞かずにトランクを開ける。
そのあとはもう、散々だった。
教室中に散らばったレプラホーンたちは、散々生徒たちの髪を引っ張ったり制服に泥を投げつけたり、小槌を頭上から降らせて危うく流血沙汰になりかけたりと講義室に悲惨な恐慌状態を引き起こした挙句、リリ先生の鶴の一声でトランクに舞い戻るまで決して誰にも捕まりやしなかった。
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