2 ローグハイン魔法学校

 子守唄にも似た柔らかな旋律が彼方に聴こえる。

 七々子が浮遊しているのは、雪の降る深い夜の底だった。

 その闇のなかをふわふわと漂っているのは——クラゲだ。白に薄青に薄桃にと儚げに発光している。

 その横を、体長七フィートほどの魚体が通り過ぎた。眼は緑色に妖しく光り、身体は鰻のようにうねうねと長い。不気味に大きく開いた口からは針状に並んだ歯が覗いている。おそらく鮫の類だ。

 思わず後退りかけて、ふくらはぎに当たった柔らかな感触に足を止める。振りかえれば、リリ先生の尻尾だった。


「魔術師の卵の学び舎にふさわしい、太陽の光の届かない影と闇の世界です。壮観でしょう」

「じゃあ、ここが?」

「ええ、ローグハイン魔法学校です。そこの深海魚たちは、招かれざるものだけを襲うよう言い聞かされておりますから、ご心配なく」


 深海魚たち、とリリ先生は言った。

 つまり、ここは夜なのではなく——海の底、ということだろう。


 噂に名高いローグハインといえど、七々子も学校の詳しい場所までは知らなかった。

 各地の魔法学校の所在地は、大っぴらにはされていない。魔術師は非魔術師社会で言えば兵器と等しく、その卵たちを狙って誰が襲撃を仕掛けてくるとも知れないからだ。しかし、深海にある魔法学校とは初めて聞いた。

 息が自然にできるのも、水の中で平然と喋れるのも魔術のおかげだろう。まるで苦しさはなく、真新しい黒のジャケットも取り込みたての洗濯物のようにぱきっと乾いている。

 子守唄のように聴こえたのは人魚の歌で、雪に見えたのはマリンスノーだったらしい。

 人魚と言っても、非魔術師社会で言われるような儚げで美しい存在とはちがって、主に人間の男を貪り食う残酷な境界生物である。

 七々子は砕け散ったマリンスノーの残滓にそっと触れると、もう一度よくよく辺りを見渡した。


 眼前に聳え立っているのは、巨大な石の扉だ。おそらく校門。やはり渦巻文様が彫刻されたその扉の先には、部屋も庭も繋がってはいなかった。

 扉だけではない。校舎は用途ごとにひとつひとつ独立して、すぐ近くに見える講義室の一室は上から下までドーム状の透明な膜に覆われていた。

 ここから見えるだけでも、そうした大小さまざまなドームが他に五十基は並んでいる。天井から側面にかけて金属の精緻な装飾があり、まるで海底に突如出現した観賞用のオブジェのようにつんと澄ました佇まいだ。


「さ、参りますよ」


 茫然としている七々子を促すと、リリ先生は宙を蹴って泳ぎはじめた。

 この魔術のかけられた海では息もできるし濡れないのに、その気になれば泳ぐことができるらしい。どういう絡繰りだろう。


「魔術の基本を忘れましたか、七々子。魔術は不可能を可能にする。ローグハインの海は、すべて魔術師の思うがまま。ただイメージすればよいのです」


 七々子は言われるがまま、そばを泳いでいたホオジロザメの背びれに捕まって海のなかを自在に動く自分自身をイメージする。それだけでよかった。ホオジロザメにしがみついているうちに、あっという間に高く岸壁のように聳える石扉に辿りつく。

 七々子自身は魔術を行使していない。つまり、これはこの場自体が魔術で満たされているということだ。

 魔力は元々この深海にあったものを利活用しているのだろうが、この魔法学校の維持にはこうした魔術を狂いなくシステムとして機能させる術式が必要となる。

 どれほどの魔術師がこのような魔術空間を築き上げたのだろう。魔術大国の名は伊達ではない。


 リリ先生はステッキを取りだすと、扉をこつん、と叩いた。石でできているはずの文様が蠢いて、眼前に地図が描きだされる。

 どうやらこの魔法学校の見取り図らしい。


「よろしいですか。ローグハイン魔法学校は、それ自体がいわゆる魔術遺産のひとつです。何人たりとも外から手出しはできぬ、どこよりも堅牢な要塞とお考えなさい」


 魔術遺産。ヴァルフィアの石板と同じ、魔術的価値を持った文化財や建造物などのことだ。争いの火種となることを避けるため、非公開になっているものも多い。


「初等課程の魔法史の授業の内容ですが、編入生には話す決まりなので申し上げておきましょう。ローグハインはユルグ神話に淵源をもち、元々は西方の海の彼方にある妖精丘の祭祀儀礼のために建てられた神殿でした。妖精丘というのは平たく言えば、あなたの国の伝説で言うと浦島太郎の竜宮を思い浮かべていただければよろしい。金銀財宝がざくざくしている夢のような国ですよ。初代学長は、その国からの生還者です」


 まるで見てきたようにリリ先生は言う。

 年齢不詳のこのケット・シーは、もしかするとそんな時代からこのローグハインに関わりがあったのかもしれない。


「今いるここは最東端にある、玄関口。最北端にあるふたつの塔は、男女別に分かれた学生寮です。中央にふたつ並んで建っている大きなドームが食事や式典が行われる大広間。一年生から五年生のための鹿角ろっかくの間と、六年生から十二年生までの骨火こっかの間がありますが、七年生の七々子が使うのは骨火の間になりますから、お間違いなく。小さなドームは大体、講堂や研究棟です。今はこのくらいでよろしいでしょう」


 そう言って、リリ先生は話を切り上げようとする。七々子は建物群のさらに下層部にある黒く影になった広大な空間を人差し指でそっと触れた。


「この地下空間はなんですか」

「海底樹海、と呼ばれている場所です」


 海底樹海。海の底の樹海とは、なんとも理解に苦しむ単語だ。

 樹海というからには人を彷徨わせるたぐいの森が広がっているのだろうが、わざわざそんな場所を学校の敷地内に設けているというのが解せない。


「あとのことは、追々同級生や上級生に尋ねてみなさい」


 含みのある声でリリ先生は言ったあと、そうそうと思いだしたように七々子を見上げた。


「このあと、隊分けがあります」


 この言葉には、七々子は驚かなかった。

 帀目の魔法学校でも同じシステムが採用されていたし、なにより渡航前に瞳子が口を酸っぱくして言っていたことだからだ。


 七年生以上の生徒は、三人一組の隊に振り分けられる。これにより、実践魔術演習のチームメイトが決定するのだ。ちなみに実践魔術演習というのは魔術の総合的な実技科目のことである。

 七々子はこの隊分けで、ユーリス・オズマリオンと同隊になることを瞳子から半ば強制されていた。


『相性的には抜群よ。魔術師の小隊は、それぞれの力を補い合う術者で構成されるのがセオリー。お姫様は火力重視の大魔術頼み、あなたはねちねちと小器用な支援の術がお得意。さらに言えば、どちらも他界との干渉によって魔術を行使する。魔術理論的には同根だもの』


 瞳子はそんなご高説を垂れてくれたが、果たしてそんなに上手くいくのだろうか。


「あの、隊分けと言っても私は編入なので、余っている生徒と組むことになるんでしょうか」

「そのようにお粗末な隊分けをするはずがないでしょう。当然必要があれば、既存の隊をバラしてでも、新たな隊が編成されます」


 それはそれで、これまで育まれた学生同士の絆をぶち壊すようで、編入早々要らぬ火種を抱えることになりそうだ。

 七々子の懸念を察したように、リリ先生はまあそんなことは滅多にありませんよとつけ加えた。


「では、あなたの門出が骨火の祝ぎに照らされんことを願って」


 リリ先生は因習じみた魔術師らしい文句を唱えると、固く閉ざされた石扉をひらいた。

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