第二章 最悪の出逢い
1 黒猫紳士の導き
ユルグ最大の空港からエクスプレスに乗り換え、駅のホームに降り立つ。ありとあらゆる人種でごった返したジャイア中心部に構えるターミナル駅は、いかにも東洋系然とした七々子の姿をも包みこみ、背景の一部へと変えてくれた。
端末の地図アプリを起動し、ユルグ語で住所を打ち込む。
つくづく、ローグハイン魔法学校がユルグ語圏でよかった。魔術師は往々にして多言語話者だが、ユルグ語は七々子が母語の次に得意とする言語だ。
端末や構内の案内に従って、目的地への道を歩いて辿り始める。
賑やかな大路を過ぎて路地裏を何度か曲がると、視界を埋めるようだった人影もほとんどが姿を消した。
からころと革製のスーツケースを引きながら、ようやく落ちついて異国の湿った空気を吸いこむ。濡れた石畳の路面は、橙色の残照を照りかえしてつやつやと輝いていた。
家族連れや恋人たちがのんびりと行き交う川沿いの道をしばらく行くと、なんとも古風な石橋が見えてくる。
地図アプリが間違っているのでなければ、ここにローグハイン魔法学校への入り口があるはずだ。しかし、それらしき建物はどこにもない。
橋の右手には、高層ビルの林立する新開発地区があり、橋を渡った向こう側にも商業施設が並んで見える。とてもではないが、魔法学校の敷地が入るスペースがあるとは思えない。魔術で建物を視えないようにしているというわけでもなさそうだった。
魔法学校というのはどこも、非魔術師の目を避けるように人里離れた辺鄙な場所に建てられるのが定石だ。
七々子がかつて通っていた天原魔法学校は一時間に一本しかバスが通っていないような山奥にあった。
右も左も非魔術師で溢れているこんな都会の只中に、本当に魔法学校などあるのだろうか。
苔むした石橋の欄干には、毛並みのいい黒猫が姿勢よくちょこんと座っていた。タキシードを着ているかのように胸の辺りが白い。首に品のよい赤いリボンがついているので、飼い猫だろう。
黒猫はなーおと鳴くと、蠅でも叩くみたいにぴしゃりと尻尾を欄干に打ちつける。魔法学校に辿りつけずに狼狽えている七々子などお構いなしに、欠伸までかましていた。猫にはなんら罪はないといえど、なんだか腹が立ってくる。
七々子はアプリと橋とを見比べて、眉根を寄せる。やはり、ここで間違いない。
考えられるのは学校から届いた案内が間違っていたか、それとも——。
七々子は橋の隅々まで視線を走らせ、橋の欄干の隅に渦巻文様を見つけた。ローグハインの校章によく似ている。
よくよく見てみれば、そこにわずかに時空の歪みが見てとれた。となると、この文様に空間転移の術式が組み込まれていて、それが学校と繋がっているのかもしれない。
七々子は文様に指を触れかけ、思い直して一歩後ずさった。
「《来たれ、神魚》」
七々子は運河と橋の境目を見つめると、異形を呼びだす。
「《境を渡り
七々子の声に水音を立てて、夜魚が文様の向こう側へとダイブする。
瞳子ならここで式神との視野の共有をするところだが、七々子にはまだ異界を覗くまでの技量はない。無事に帰ってくるかそうでないかで、向こう側の危険を推し量るほかなかった。
五分後、たぷんと音がして夜魚が顔を出す。
ぱくぱくと口を動かしてこそいるが、攻撃を受けた手ごたえはなかったし、外傷も見当たらない。七々子は夜魚の口元に指の関節をそっと押し当て功をねぎらうと、意を決して文様に触れようとする。
そこに、「ま、よろしいでしょう」という慇懃無礼な男の声がした。
七々子は驚いて振り向く。
この石橋には地元住民も観光客も興味がないのか、誰も彼もが素通りしていた。人の気配なんてどこにもなかったのに。
しかし、振り向いた先にも人影はなかった。ただ、先ほど見たのと同じ黒猫が——二本足で立って懐中時計を眺めている。
「少々慎重すぎる嫌いもありますが、無鉄砲よりは百倍ましです。合格といたしましょう」
低く艶のある声で黒猫はそう言うと懐中時計を閉じ、ひょいと欄干を飛び降りる。それから尻尾をひと振りすると虚空からシルクハットとステッキを取りだし、次の瞬間にはテールコートを纏っていた。コートを着ても着ていなくても元の毛色と似すぎていてあまり変わりばえはしなかったが、この奇妙な猫には重要なことらしい。
「……妖精——ケット・シー?」
七々子の問いに、黒猫は金の目を眇めた。
七々子の方が見上げられているのに、見下ろされているかのような錯覚に陥る。
「いかにも。このユルグは妖精の住まう国。それを念頭に置いて私の正体を見破るのがここでの最適解です」
皮肉っぽいわりに、黒猫の妖精はきちんと正解まで教えてくれる。
「もしかして、ローグハインの先生ですか?」
「いかにも」
「妖精が?」
「私はこのローグハインで境界生物学を教えてもう百五十年余りになりますよ、七々子。あなたの国でも狐神や鬼が教鞭を取っている学校もあったはずですが?」
言われてみればたしかにそうだ。
しかし、このように愛らしい異形はなかなかお目にかかれない。しかも今この猫、境界生物学を教えて百五十年と言わなかったか。とすると、どんなに少なく見積もっても百五、六十歳、ひょっとするともっと歳を喰っているということになる。
目を瞬いた七々子に、黒猫はふたたび尻尾を振ると職員証を取りだした。
ちいさなプラカードに肩書や経歴が連ねられていて、それが動画かなにかのように勝手にスクロールされていく。今や非魔術師の科学が生みだす代物とさほど変わりばえしないが、魔術の掛けられた道具——魔導具である。
証明写真ならぬ証明写し画もひとりでに動いていて、先ほど七々子が見た四本足の猫から二本足の猫への鮮やかな転身がそこでも再現されていた。
黒猫はシルクハットを取ると、優雅に一礼する。
「私は、アリ=ダリ。生徒たちからはリリ先生と呼ばれております」
「椿木七々子です。よろしくお願いします、リリ先生」
七々子も今度は動じずにお辞儀をする。
外見こそ愛らしいが、ひと目見て凄まじい力量をもつ魔術師であることは窺い知れた。
リリ先生は目を細めると、七々子が引いていたスーツケースに尻尾で触れた。あっという間に、スーツケースが忽然と姿を消してしまう。
「先に運んでおきました。本日は七々子の歓迎会があるのです。さあ、お早く」
そう急かされ、七々子はおそるおそるローグハインの校章に触れる。
瞬間、視界が白く閉ざされ、七々子の身体は掃除機に吸いこまれるみたいに否応なしに彼方へと投げだされた。
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