第一章 指令

1 日常

 鶯の鳴く声が、生まれたての朝の光が微睡む空に響いていた。

 とぷん、と水音がしてこの世ならぬものが境界に消えてゆく。季節はずれの陽炎のように揺らめいていた空間のひずみが静けさを取り戻す。影が完全に消え去った向こうに目をやれば、真紅の花をつけた藪椿が今を盛りと咲きこぼれていた。


「七々子さーん。ごはんできたよー!」


 家のなかから聞こえてきた声に顔を上げて、七々子は濡れ縁の前で草履を脱ぐ。

 障子戸をひらくと、長押に掛かっていたセーラー服を手に取った。慣れた手つきで修練用の作務衣から制服に着替える。

 畳の隅に置かれた携帯端末に指を滑らせれば、六時三十分ちょうどの時刻を示していた。椿木家の朝は早い。

 リビングの扉を開けると、途端に味噌汁のかぐわしい香りが鼻腔に広がる。

 数年前リノベーションをした洋風のキッチンからひょっこりと顔を覗かせた四十路の男に、七々子はちいさく微笑んだ。


「おはよう、パパ」

「おはよう、七々子さん。今日も早くからお疲れさま」


 ペールブルーのエプロンで濡れた手を拭きながら、あらたがやわらかな笑みを見せる。職業・専業主夫、穏やかでやさしい七々子の父親である。


 ダイニングテーブルには、ほうれん草のごま和えとおからの煮物、卵焼きとカットされたネーブルオレンジが並んでいた。新の料理はいつも手が込んでいる。

 七々子がちらりとテレビ画面に目をやっている間に、新はもずくの味噌汁とご飯をよそって持ってきてくれる。礼を言って椅子を引くと、新も向かいに腰掛けた。

 いただきます、と手を合わせて味噌汁を啜る。

 しかし七々子の目は行儀悪くもテレビに釘づけになっていた。七々子の視線につられたように、新も液晶を振り返る。


「ああ、ヴァルフィアの石板が盗まれたんだってね。今ごろ、ママが徹夜して捜索してる頃じゃないかな」


 新は無理してないといいけど、と顔を曇らせる。


 ヴァルフィアの石板は、海を隔てた西洋の島国ユルグの魔術遺産だ。

 西洋魔術の牙城たるユルグにおいて、すべての魔導書はヴァルフィアに通じるとも言われる、古代に記された魔術師の叡智である。

 七々子の母親は、魔術犯罪を取り締まり処罰する国際機関、魔術抑止機構に勤める魔女だ。年中海外を飛び回っていて、ここ帀目に帰ってくることはめったにない。魔術遺産を悪用したテロ防止もまた、機構の担う大きな役目である。


 七々子は新の心配そうな表情にもかまわず、肩を竦めた。


「あの人は、仕事がいちばん大事なんだから、べつにいいんじゃない」

「七々子さん、ママのことをあの人なんて言っちゃだめだよ」


 律儀に箸を置いてたしなめてくる新に、七々子はますますむくれる。


「パパに仕事を辞めさせて、自分ばっかり好きなことをして、何様なんだか」


 新は娘や妻とちがって、魔術が使えない。ごく普通の家に生まれた非魔術師である。

 元々は帀目の魔術用品を扱う専門店に勤めていたが、母と結婚してこの椿木の家に婿に入った。今は仕事を退職して家事と育児に専念している。

 非魔術師の夫が仕事を辞めるのが当然とでも言いたげな母の態度が、七々子には気に喰わなかった。


「パパがしたくてしてるんだよ。それにママは高級取りだから、主夫の仕事にお給料を出してくれてるの、七々子さんも知っているでしょ?」


 ほわ、と笑って新が言う。その顔をされると、七々子はなにも言えなくなってしまう。

 新は思いだしたように、テーブルの端に置いてあった郵便を手に取った。


「そうだ、天原あまはら魔法学校からまた編入のお誘いが来てたけど、七々子さん読まない?」


 その問いに、七々子は眉間に皺を寄せる。


「読まない。天原に通ってる連中なんて、特権意識の塊だもの」


 七々子が吐き捨てれば、新は苦笑する。


「皆が皆、そうってわけじゃないと思うけどね。帀目の魔術師のお偉いさんも、名門椿木家の娘である七々子さんが非魔術師の高校に通っているのは気がかりなんじゃないかな」


 魔術師は世界人口の0.01パーセント、一万人にひとりのマイノリティだ。

 それはこの帀目の国でも同様で、魔術師の卵たちは皆、魔術師の国際法に則って十歳から十八歳まで、あるいは魔術師の大学にあたる高等課程に進学する者は二十二歳まで魔法学校に在籍する。

 七々子も四年前まではこの兜京とうきょうにある天原魔法学校に通っていた。けれど、今では昼は非魔術師学校である都立瑞原高校に通いながら、魔術師としての勉強は夜に家庭教師を頼んで二足の草鞋を履く生活を続けている。


「天原じゃなくても、帀目の他の魔法学校に移ってもいいんだよ」

「私はパパや非魔術師の友だちと暮らしていきたいの。それに魔術の勉強も鍛錬もちゃんとしているもの。天原や他の魔法学校の学生にも引けは取らないと自負しているわ」


 七々子が言い張れば、新も仕方なしといった様子で頷く。

 半ば意地になっているのを自覚しながら、七々子は魔法学校からの手紙に背を向け続けた。

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