盾の魔女と魔導の杖

雨谷結子

序章

十年後、魔法都市ガロンにて 上

 夜がくる。

 日陰を生きる魔術師たちに相応しい、すべてを飲み込む静謐な夜が。


 この春、祖国タイランの名門大学を卒業したばかりの青年、ソ・リエンは窓の外の繊月を眺めて、予感にぶるりと身を震わせた。


 魔法都市ガロンの小会議場はふたつに分かたれ、議論は紛糾していた。

 一方はリエンが座るテーブル。その中心にいるのは、艶やかな濡羽色の髪が印象的な女だ。腰ほどにもあるその髪は、魔光石まこうせきの照射する光の加減で深い緋のようにも見える。年の頃は二十代半ば。東洋の女性にしては上背のある身体は潔い黒の現代的な魔女衣に包まれ、余計に唇と爪に刷かれた赤が際立って見えた。

 極東の島国、帀目そうま出身の魔女で、名を椿木つばき七々子ななこという。

 しかしリエンにとっては、その真名よりも彼女の二つ名の方がよほど馴染み深い。

 盾の魔女。

 魔術師も非魔術師も、人はこぞって、彼女のことをそう呼ぶ。


 リエンのような非魔術師にとって、盾の魔女は生ける伝説にも等しい人物だ。

 リエンが青春を過ごしたのは、魔術師と非魔術師の間の均衡が天秤が勢いよく振れるように乱れた時代だった。多くの非魔術師が殺され、そして魔術師への排斥が盛んになった分断の時代である。

 だがそれも昨年、魔術師の過激派組織「第六時の塔」が解体されたことをもって、少しずつ状況が変わりつつあった。

 その立役者のひとりが、この盾の魔女だ。


 帀目国の名門の魔術師の家系に生まれながら非魔術師の側に立ち続け、二十代にして魔術抑止機構の幹部に登りつめた才女。

 彼女によって阻止された魔術テロ事件は十指に余るほどで、リエンも子ども時代に第六時の塔のテロ事件に巻き込まれたところを彼女によって救われた。

 以来、魔女はリエンの憧れそのものだ。

 魔術師嫌いのリエンが信頼を寄せる数少ない魔術師で、その背中を追って彼女と同じ機構に非魔術師の身で入職までしてしまった。

 話してみると案外面倒見がよくて、ごくたまに見せる笑みに普段の隙のなさとのギャップを感じてどきどきする。

 年上好きのリエンとしてはそういう意味でもあわよくばお近づきになりたい相手である。


「ですから、魔術犯罪者の保護観察制度。その観察官に非魔術師を導入したいと考えています」


 盾の魔女の言葉に、反対側のテーブルから失笑が漏れる。

 その中心に、ひときわ目を引く男がいた。

 青葉の色を映した湖面のような色彩の眸に、几帳面に後ろに撫でつけられた光をはじく金の髪。野暮ったく見えがちないかにも由緒正しい魔術師然としたローブこそ羽織っていたが、礼服だけでなくシャツもネクタイも黒で統一され、フィルムのなかから飛び出してきたかのように洗練された印象を受ける。

 オズマリオンの至宝。神の恩寵。古代魔法の承継者。生ける魔術遺産。

 彼を称揚する呼び名はいくつもあるが、もっともよく知られているのは別の名だろう。

 盾の魔女と対を成す、魔女の対極にある名。魔導の杖。

 その真名を、ユーリス・オズマリオン。

 盾の魔女と同い年の、国際的に見ても指折りの強大な力を持つ若き大魔術師である。


 こくり、と喉が鳴る。

 魔導の杖は、国際テロ組織「第六時の塔」とは関係ない、と結論づけられている。しかし彼は過激派の魔術師ともしばしば接近していたとまことしやかに囁かれていて、非魔法界の一部では第六時の塔のように恐れられている人物でもあった。


 魔法界は大きく二つの立場に分かれている。

 ひとつが盾の魔女やリエンが属する魔術抑止機構が筆頭となっている規制派。

 そしてもうひとつが、この魔導の杖が属する魔術連盟が筆頭となっている解放派だ。


 杖の利発そうな薄い唇に皮肉っぽい笑みが乗る。


「ご冗談を、魔法使い殿。脆弱な非魔術師に魔術犯罪者の観察官が務まると? それに非魔術師の観察官では、更生して社会復帰しようとしている魔術師があらぬ疑いを掛けられて、不当に監獄に送り返される羽目になるかもしれない。そう危惧しますが?」

「偏見が過ぎるわね。もちろん、厳しい試験をパスした職員に限るのは魔術師と同じです。魔導具も発達を遂げた現代なら、それほど突飛な発想とは言えないわ」

「それでもし、非魔術師の観察官が職務中に負傷したり、万が一殉職するようなことがあったら? ただでさえ強い非魔法界から魔法界への締めつけが、さらに強まることは想像に難くありません。連盟としては到底承服しかねる」


 本日の審議の議題は、魔術犯罪を犯した魔術師の保護観察制度のあり方についてだ。この後にはさらに、懲役の明けた魔術犯罪者の査問会も予定されていた。

 盾の魔女は、魔術犯罪者の更生を指導監督する観察官に、これまで認められてこなかった非魔術師を導入しようとしている。

 そして、その栄えある第一号に任命したいと考えているのが他でもないリエンなのであった。


「連盟の懸念はもっともだわ。でも、私たち魔術師はこの十年で内に閉じこもりすぎた。これでは非魔術師の理解が得られないのも当然です」

「我々魔術師は、非魔術師の理解を得るために存在しているわけではない――ということは、そろそろ機構にも理解してもらいたいところなのだけどね。それに魔術師を迫害してきたのは、非魔術師だ。我々が日陰者になったのには彼らにも大いに責がある」

「ええ、そうね。でもだからこそ、ここからまたはじめたい。魔術師と非魔術師が交わらずとも共にある世界を。私たち機構が、まずその範を示したいと考えます。だからどうか、連盟にも力を貸していただきたいわ」


 魔女の言葉に、議場がしんと静まり返る。

 杖はそのあともいくつか皮肉と反論を返したが、結論としては機構側の提案が採択された。

 それはすなわち、リエンの観察官就任がほとんど決まったも同然だった。


 ドッドッと心臓がうるさく鳴る。

 この後の査問会に出てくる魔術犯罪者の観察官として、リエンは推薦されるはずだ。そしてその罪人は、十年前に幼いリエンとその家族を魔術テロに巻き込んだ張本人なのである。

 第六時の塔の起こした一連の事件の解決に一躍買ったとして、その魔術犯罪者は更生を認められているようだったが、リエンは観察官になった暁にはかならずその化けの皮を剥いで監獄に連れ戻してやると心に決めていた。


 いったんお開きになった議場には、リエンと数人の人影しか見えない。

 魔女が気遣わしげに、リエンに近づいてくる。


「大丈夫?」

「はいっ、魔女殿!」


 弾かれたように答えるも、声が裏返って様にならない。

 ふと、気分を落ちつかせる馥郁とした香りが鼻腔をくすぐった。

 思わずそちらに目をやる。魔導の杖が、カップホルダーにおさまったコーヒーを抱えてすぐ傍に立っていた。

 目の玉が飛びだすとはこのことだ。天敵のひとりに懐に入られ、リエンは椅子からひっくり返りそうになる。


「お近づきのしるしに。ここのカフェのコーヒーはなかなかいけるんだ」


 杖は冗談めかして微笑すると、リエンと魔女の前に一杯ずつカップを置いた。

 呆けているリエンの代わりに、魔女がそのすっきりと整った面を歪めて口をひらく。


「オズマリオン、どういう魂胆? うちの若い子にちょっかいを掛けないで」

「随分な挨拶だな、七々子」


 ひそやかな囁き声に、リエンはまじまじと杖を見つめてしまう。

 七々子。

 盾の魔女をファーストネームで呼ぶ人間には、リエンもまだ数えるほどにしか出逢ったことがない。

 そういえば、確かこのふたりは同じ魔法学校出身だった。

 魔法界屈指の学び舎であるローグハイン魔法学校で青春時代を送りながら、決して交わらぬ道を選んだふたりの間になにがあったのか、リエンには推し量る余地もない。

 機構の若手筆頭である盾の魔女と、連盟の若手筆頭である魔導の杖。

 彼らが犬猿の仲であることは、魔法界のみならず有名な話だ。

 これから荒れに荒れるであろう査問会の前にわざわざ会いにくるとは、よほど手の込んだ嫌がらせか、それとも別の思惑があるのだろうか。


「気安く呼ばないで」

「査問会の前に涙もろい誰かさんにハンカチを貸す必要があるかと思って気を揉んでいたのだけど、杞憂だったかな」

「あら、あなたの方こそ十年も昔の話を持ちだすなんて、感傷が過ぎるわね」


 矢継ぎ早に繰り出される棘のある言葉の応酬に、ひやりと肝が冷える。

 彼らの舌戦は、審議が終わっても絶賛継続中らしい。

 杖はとっくりと魔女を眺めていたが、やがて安堵とも落胆ともつかない息を漏らすと、皮肉げに笑った。


「もう十年だ。依然として魔法界も非魔法界も揃いも揃って最悪の更新を続けている。そろそろきみのほうが耐えかねて、宗旨替えをしてくれる頃合いかと期待していたのだけどね」

「弱音を吐くなんてらしくないわね。私は私を捨てないし、それにまだ、『いつか』を捥ぎ取る気でいるわよ。……今も約束は有効と思っていてもかまわないんでしょう、魔法使いさん?」


 魔女は朱唇を吊り上げて、蠱惑的に微笑む。

 目を奪われたリエンのすぐ傍で、杖が息を呑む気配がした。

 杖は口元に手をやって、なにかをこらえるように顔を背ける。少しの沈黙のあと、ふっと空気をふくんだ笑い声がちいさく弾けた。


 やがて査問会が開会し、開け放たれた扉から、悪名高き罪人が入室してくる。

 リエンは真っ向からその人物を見据えると、深く息を吸いこんだ。

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