2 再会

「それでね、練習に三十秒遅れていったら、ヤンチ、鬼みたいに怒るんだもん。三十秒だよ、三十秒。そりゃあわたしも悪かったけどさあ」


 七々子の隣で干乾びた生花を握りしめながら悪態をついているのは、同じ高校に通う稲波いなみ日鞠ひまりだ。

 色素の薄い髪をやわらかく丸みのあるボブカットに切りそろえ、リュックサックに大きなくまのぬいぐるみをぶら下げた、身長一五二センチと小柄な少女である。くりくりと大きな目が愛らしく、どことなくチワワっぽい。


 ヤンチというのは、日鞠の所属する女子空手部の顧問のあだ名だ。

 しょっちゅう他校の男子からも告白されている可憐な外見からはなかなか想像できないことに、日鞠は高校一年生のときに全国大会準優勝を果たしたこともある。空手歴三年目にしてめきめきと頭角を現している新鋭だ。

 七々子とは幼稚園時代からの腐れ縁で、非魔術師でありながら唯一長く親交の続いている友人である。

 家も目と鼻の先にあって、時間の合うときは一緒に行き帰りをしていた。

 学年末試験の前で今日から日鞠も部活が休みだ。ふたりで下校するのは久しぶりだった。


 遠く西のビル影に、橙色に染まった陽光が沈みゆこうとしている。

 七々子と日鞠は家から少し離れた郊外の裸木の並木を歩いていた。春には桜が咲きほこる通りの右手には、広大な敷地をもつ霊園がある。

 学校から足を伸ばしていつもの墓参りをした帰りだった。


「ななちゃん、好きな人できた?」

「なに、藪から棒に」


 七々子が渋面をつくれば、日鞠はいたずらっぽく笑う。


「命短し恋せよ乙女ってやつだよ。三年に上がったら受験でそれどころじゃないでしょ。今が恋をするラストチャンスなんだよ、ななちゃん!」

「そういう日鞠はどうなの?」


 面倒くさくなって投げやりに問えば、日鞠はしおしおとしおれた菜っ葉みたいに俯く。


「わたしは部活地獄だよ。それを乗り越えて付き合ってもいっつも上手くいかないの」


 日鞠はなんでかなあ、と心底納得がいかない様子で首を傾げる。

 日鞠は女の子らしい見た目をしているので、やたらと従えたがりの男子や七々子のような愛想のない女に話しかけられないようなタイプの男子に人気がある。けれどもそういう男子は日鞠の中身など見ていないので、いつも付き合っても一カ月と続かず別れている。


「なら、なんで空手を始めたのよ。昔はピアノやダンスなんかやってたでしょ。ああいうほうが男子のウケとやらがいいんじゃないの?」

「もー! ななちゃんてば、わたしの気持ち、ちっとも分かってない」


 日鞠は唇を尖らせる。

 七々子はたじろいで、言い訳のように口をひらいた。


「私は、日鞠が空手をするのを悪いなんて言ってないわ。さっき言ったのはあくまで一般論で……」

「ちがいますー。そのことを言ってるんじゃないもーん」

「じゃあ、空手を始めた理由? 前にも聞いたけど、教えてくれなかったじゃない」

「……んー、それは秘密、かな?」


 わたしの気持ちを分かってないなどと文句を言うくせに、あくまでもったいぶって小首を傾げる日鞠に七々子は溜め息をつく。

 茶目っ気たっぷりに愛嬌を振り撒いておけば、七々子が強く出られないことを日鞠はよく知っていた。


「それはそうと今度ね、西高の男の子と合コンするの。そうだ、ななちゃんもくる?」

「私はパス」


 七々子がそっけなく言えば、日鞠は目に見えてしゅんと項垂れる。

 日鞠はなにも、いつもこうして七々子のプライベートな事情に口出しをしてくるわけではない。これでなかなか気遣いの人で、七々子になにも問題がなければ、恋人がいようがいまいが、それが男だろうが女だろうが、放っておいてくれただろう。

 けれども、七々子は恋だの愛だのにトラウマのようなものがある。だからかそれを知っている日鞠は、こうしてしょっちゅう世話を焼いてくるのだ。


 折悪しく、端末がけたたましい警告音を奏でる。

 表示を見れば、指定魔力探知警報だった。魔術犯罪を犯した魔術師の魔力を国内で探知すると警報が発されるシステムで、機構の帀目支部が非魔術師団体と連携して提供しているサービスだ。


 SNSを開けば、「第六時の塔」「百鬼なきりしょう」という単語がトレンドに表示されている。

 日鞠がその手の震えを握りこむのを見とめて、七々子は虚空を睨みつけた。


「家まで送るわ」

「ななちゃんこそ、早く帰って。わたし、この間の秋の都大会、女子個人優勝したんだからね」


 ダッフルコートに覆われた二の腕に力こぶをつくって、日鞠が宣言する。


 魔術がらみでなければ、日鞠に敵う人間を見つけるのはなかなか骨が折れるが、相手は国際的魔術テロ組織、第六時の塔だ。

 彼らは魔術師の魔術師による魔術師のための新世界の樹立を掲げ、非魔法界に対して何度となく魔術テロ行為を繰り返している。

 百鬼宵は帀目出身の組織幹部で、四年前にもこの兜京で民間人百人余りを巻き込むテロを起こしていた。

 日鞠はテロに巻き込まれながらも辛くも生き延びた生存者で、事件によって兄を喪っている。今日もふたりして、日鞠の兄を弔った帰りだった。

 事件以来、帀目では魔術規制派が幅を利かせるようになり、魔術師の肩身は狭くなる一方だ。

 しかし日鞠は魔術師の七々子といまだに縁を切らずにいてくれていた。


 七々子は日鞠を急かしつつ、道路向こうの四つ辻を見つめて口をひらく。


「《来たれ、神魚しんぎょ》」


 とぷん、と水音がして、辺りをくろぐろとした水が満たしてゆく。七々子の指先を、ぬるりとした鱗の感触が撫ぜていった。

 宵の色をした金の目をもつ巨大な魚——帀目神話において悪神と謳われる悪樓あくる——夜魚よなが、七々子の目前を悠々と泳いでいく。

 日鞠ら非魔術師の目に映ることはない、異形である。


 辻は、古来より異界との境界域だ。

 境界域をまなざし、ひずみを魔力でこじ開け、この世ならぬものを引きずりだす式神召喚術。式神術と西洋の召喚術を折衷したこの術は、八百比丘尼の末裔たる椿木一門相伝の魔術である。


「《くしびをとらえよ》」


 ちいさく命じれば、夜魚が尾びれをくねらせて、水沫をあげて闇に沈む。

 魔力を探知する魔術だ。

 索敵は、夜魚の得意とするところだった。百鬼の魔力はこの近辺で探知されたわけではないというから、七々子が出る幕はないだろう。

 けれども、念には念を入れて、半径十キロ圏内を対象に夜魚の泳ぐ影水かげみずを展開する。百鬼を相手にして、警戒しすぎるということはない。


「あーあ、結局こうなっちゃうな。せっかく鍛えても、ななちゃんに守られてばっかり」


 日鞠は悔しそうに唇を噛む。

 長い付き合いなので、七々子が具体的になにをやっているのか分からずとも、魔術を行使していることは分かっているのだろう。


「高一のとき、変質者を撃退してくれたのは日鞠でしょ」

「うん。あれはわたし、かっこよかったね!」


 ぱっと顔を輝かせて自画自賛をはじめた日鞠にちょっと笑う。日鞠のこういう明るさや屈託のなさは、七々子にはないものだ。

 閑静な住宅街をふたり、周囲を警戒しつつ進んでいく。

 やがて、きつい上り坂が見えてきた。裸の樹木が林立する山道は、西日を遮って一帯に影が落ちている。ガードレールの内側の狭い道はふたり並んでは歩けない。

 七々子が先導し、その後を日鞠が続く。頂上近くまで登り、少し息を乱したそのとき。


「伏せて! 《夜魚》!」


 七々子は短く叫び、日鞠に覆いかぶさる。夜魚を呼び寄せ、影水のつくりだす水流で自身と日鞠を覆う。

 夜魚が、膨大な魔力を捉えたのだ。

 車道のアスファルトの上空三メートルほどのところを、亀裂が走る。

 空間転移魔術の一種だ。七々子は立ち上がって日鞠を背に虚空を睨みつけ、すぐに脱力する。


 ちがう。百鬼ではない。どころかこれは——。


「久しぶりね、七々子」


 鼻にかかったような、甘い擦れた声。朱唇には、しどけない笑みが刻まれている。

 七々子の実の母親にして、椿木家分家当主。そして魔術抑止機構の理事のひとりである椿木瞳子とうこがそこにいた。

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