第5話

 パソコンを目の前にして、俺は身体を伸ばす。仕事に集中できない。理由はわかっている。昨日、翔真とあんなことがあったからだ。結局、何もなく別れたが、あれで良かったんだろうか。

 もったいなかったような気がする。けど、何だか危うさも感じた。翔真は実際のところ、俺にどういう感情を抱いているのだろうか。素直にとらえれば、恋愛感情だ。しかし、彼の恋愛対象は女性に思える。俺だから、特別? そんな都合の良い解釈ができるほど、楽天的ではない。だって、知り合ったばかりだ。好意を持つ理由はあるが、それが転向の理由になるとも思えない。もしかして、翔真は痴漢をされた時の、自身の反応との整合性を取ろうとしているんじゃないか。だとしたら、軽々しく関係を進めるべきじゃない。でも、俺自身は確かに彼に反応していた。その証拠に隙あらば、自分が選ばなかった側のストーリーが脳内再生される。翔真が俺を望んでいるという都合の良い考えが、頭にちらつく。けど、それが相手を傷付けることを正当化する悪魔のささやきのようにも聞こえる。ああ、俺はどうしたら良いのだろうか。

 気が付くとオフィスがざわめきはじめた。人々は席を立ち、動き始めている。もう昼休みか。さて、今日の昼飯はどうしよう。まだ暑いから軽く蕎麦にするか、辛いカレーで一汗かくのも良いかもしれない。考えていると、俺の名前を呼ぶ声がする。

「藤原さん。メシ行きましょうよ」

 川村だ。そういえば、コイツには遅刻した時に仕事のフォローをしてもらった恩があったな。礼をするのをすっかり忘れていた。

「ああ、今日は奢ってやるよ」

「えっ、良いんですか。ラッキー。じゃあ、かき揚げ丼の店に行きましょう」

 ランチでも二千円はする店だ。人の金だからって、普段は選ばないようなところにしやがって。まあ、コイツは普段から良くやってくれている。あの時も、かなり助かった。

「仕方ないな。わかったよ」

「本当に良いんですか? いやぁ、言ってみるもんだな」

 鼻歌を歌う川村を連れて、俺はオフィスを出た。

 その和風の一軒家は、ビル街のど真ん中にぽつんと取り残されたように建っている。黒い格子戸を開けると小さな土間が現れた。和服の中年女性が俺に尋ねる。

「何名様ですか」

「二人です」

「丁度空いておりますので、そのままお上がりください」

 靴を脱いで、板の間に上がると障子の奥にある座敷へ通された。中は十人程度座れるカウンターだ。丁度二人分、空いている場所があるので、あそこだろう。俺たちが座布団に腰掛けると、先ほどの女性がお茶と、おしぼりを持ってきた。オーダーを伝えて、ひと息つくと川村が俺に話かけてくる。

「すんなり入れて良かったですね」

「まあな。でも、大体入れるだろ?」

「はい。オレも藤原さんの奢りじゃなかったら、来ようと思わないですから」

 人の金だからって、ちょっとは遠慮しろよな。川村は平然とした顔をして、おしぼりで顔を拭くと、俺に質問をしてきた。

「そう言えば、あの子とはどうなったんですか」

「誰の話だよ」

「わかっている癖に。通勤電車の大学生。昨日、お礼ってことで一緒に飯へ行ったんですよね」

「ああ。その子が選んだ店に行って、好きなアーティストの話を聞いてさ。そのライブのDVDを見せてもらった」

「良い雰囲気じゃないですか」

 川村は手元のお茶を飲もうとして、その手を止めた。

「っていうか、待ってください。今『DVDを見せてもらった』って言いましたよね。それ、どこで見たんですか?」

 しまった、口が滑った。俺は咄嗟にウソをつく。

「いや、店に決まってるだろ」

「店にプレイヤーなんて、普通ないです」

「あるだろ。音楽を流す用に」

「それ、BGM用でしょう。客のDVDを流すとか、あり得ないですから。ウソは良くないですよ、藤原さん。本当のことを言ってください」

 川村はこういう時には良く頭の回る奴だ。観念して、俺はしぶしぶ答える。

「その子の家」

「は?」

 川村は大声を上げた。料理をしていた板前さんが訝しげにこちらを見る。俺はヤツに小声で言った。

「静かにしろ」

「女子大生の家に上がり込むなんて。あなた、犯罪者ですか。許されないことですよ」

 川村は音量を抑えながらも、鼻息が荒い。いやいや、犯罪ではないだろう。俺は弁明する。

「何もしてないから。DVDを見て、その日のうちに帰った」

「ウソ。何もないなんて、絶対にあり得ない」

「いやいや」

「いくら否定したって、オレは騙されませんから。藤原さんってそういう人だったんだ。もう誰も信じられない」

 何だ、この痴話げんかみたいな会話。まさか俺のことをからかっているんじゃないだろうな。

「お前こそ、どこまで本気なんだよ」

「全部、本気に決まっているじゃないですか。だから、正直に言ってください」

「本当に何もなかった」

 未遂ではあるが、ウソではない。

「藤原さん。それ、逆に心配です。何か問題があるんですか。オレ、相談にのりますよ」

 コイツ、きっとろくでもないことを考えているに違いない。

「そんなに簡単にするものでもないだろ?」

「いいえ。オレから言わせれば、チャンスが転がっているのに拾わないなんて、あり得ません。むしろ、オレにチャンスをください」

 清々しいほどの回答だ。こいつならば、相手に何があっても迷わずに突き進むのだろうか。俺は問いかける。

「それ、相手が自分のことを本気で好きじゃないかも? って思っても、言えるのか」

「はい。その時点でオレのことが好きじゃなくても、最終的にオレのことを好きになれば、良いんですよね」

「それは自分の欲望を優先するための、行き当たりばったりな自己正当化じゃないか」

「難しく考え過ぎじゃないですか? 今、目の前にいる相手を幸せにしましょうよ。恋愛ってその積み重ねだと思いますけど。それでダメなら、諦めもつくじゃないですか」

 なるほど、それは一理あるかもしれない。俺はわからないことばかりを心配していた。けど、それは時間を掛けて確かめていけば良い。翔真に俺が自分で言った言葉の通りじゃないか。

「お待たせしました」

 女性が俺たちの前にどんぶりとお椀を持ってきた。どんぶりのフタを開けると、胡麻油と甘じょっぱいタレの香りが漂ってくる。かき揚げには海老、貝柱がたっぷりだ。隣で川村が言った。

「すげぇ美味そうですね。早く食いましょ」

「ああ」

 俺たちは目の前にあるどんぶりに集中して、黙々と食べ始めた。

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