第4話
食事を終えると俺たちは電車に乗り、翔真の家へ向かった。彼が普段乗って来る駅で降り、二十分くらい歩いただろうか。
道には街路灯がぽつぽつと並ぶ。歩いている人は、ほとんどいない。誰もいない小さな公園の砂場には、近所の子どもが忘れていったであろうスコップとバケツが置かれたままになっている。アパートやマンションばかりで、店の姿もなくなってしまった。翔真の足が止まる。
「ここです」
目の前にあったのは、白い壁の二階建てのアパートだ。パッと見の雰囲気や、汚れ具合から考えて、築浅だろう。階段を登っていく彼の後について、俺は部屋へ入った。
「お邪魔します」
スニーカーが並ぶ玄関で靴を脱ぎ、中に入る。キッチンは油汚れひとつなく、何も置かれていない。
奥の部屋のちゃぶ台の上には、パソコンや教科書らしき本が散らばったままになっていた。翔真がそれらを片付けてスペースを作ったので、途中のコンビニで買った飲み物やツマミを置く。
「そこに座ってください」
翔真の指差した先には、座椅子があった。彼がクーラーのスイッチを入れたり、簡単に物を片付けたりしているうちに俺は部屋を見渡す。
テレビのモニターの周りにはDVDが雑然と置かれている。本棚には難しそうな題名の本と、マンガが仲良く並ぶ。部屋の隅には開けられていないであろう段ボールがいくつか積まれていた。
翔真はシングルベッドの上に脱ぎ散らかされていたジャージをたたみ、ようやく座る。
「お待たせしました」
「おう。じゃあ、まずは一杯」
レジ袋の中から、お互いに缶を取り出して乾杯をした。俺は翔真に尋ねる。
「この辺りって、住みやすい?」
「うーん。急きょ探した割には、良かったと思います」
「急きょ?」
「一、二年の時は高校時代からの友だちとルームシェアしていたんです。けど、そいつに彼女ができて。その子と一緒に住みたいって言われたんですよ」
「は? 翔真、追い出されたの?」
「いや。ちゃんと相談はしましたよ。で、まあ良いかなと」
翔真はスルメイカを食べながら、何でもないことのように言った。俺はすかさずツッコミを入れる。
「いやいや、ダメだろ」
「けど元々、来年は俺の都合でルームシェアを解消する予定だったので」
「来年?」
「妹が進学で、こっちに来る予定なんです」
親としては都会で娘をひとり暮らしさせるのは心配だから、ちょうどいる兄と一緒に住まわせる。まあ、良くある話だ。
「けど、しなくて良い引っ越しだろ? 金もかかる」
「その辺りは、あいつが負担してくれたんで。それに前のところは都会の真ん中だったから。最初は楽しかったんですけど、やっぱり合わなくて」
一応、合意の上ということらしい。けど、お人好し過ぎる気がする。余計な新聞の契約とか、していないだろうか。
心配している俺を横に、翔真はテレビの前で操作をはじめる。DVDをプレイヤーに入れると、こちらに戻ってきた。
「ライブのDVDは準備しましたけど、すぐ観ます?」
そういえば、それが当初の目的だった。俺はうなずく。
「ああ、そうだな」
「わかりました。オレも観たいんで、隣、失礼します」
翔真がベッドを背に、俺と肩を並べて座った。心臓の鼓動が瞬く間にスピードアップしていく。ええい、鎮まれ。翔真に気付かれてしまうじゃないか。
緊張を誤魔化すために、缶ビールを飲んでいると、彼はリモコンのスイッチを押す。モニターの電源が入り、映像が始まる。
気が付いたら、スタッフロールが画面の下から上がってきていた。ライブ映像は終わったらしい。俺は深く息を吐き出す。
何だ、これ?
無茶苦茶良かった。他人の家でなければ、立ち上がって雄叫びを上げたい。そんな気分だ。映像でこれだけの威力なら、会場に行ってしまったら、俺はどうなってしまうんだろう。
隣に座っていた翔真が俺に感想を求めてきた。
「いかがでしたか?」
「すげぇ燃えた。心臓なんて、バクバクいってる」
「マジですか」
翔真の右手が俺の首もとを触る。不意を付かれて、肌がぴくりと反応してしまった。指の触れた部分に快感が走る。
「本当だ」
翔真が呟いた。俺の脈拍はどんどんスピードアップしていく。その原因がライブ映像なのか、彼に触れられたからなのか、自分でもわからない。
「オレも実はそうなんですよ」
翔真の言葉の意味を図りかねているうちに、彼は俺の手を自分の首筋へ導く。火照った肌の下には、激しい血流が隠されていた。
酔っ払っているんだろうか。空いた缶が摩天楼のようにちゃぶ台の上に並んでいる。ライブ映像を見ている最中に随分と飲んでしまったらしい。
そうだ、そうに違いない。この妙な空気を吹き飛ばそう。いや、吹き飛ばして良いのか? って、何を考えているんだ、俺は。考えがまとまっていないのに、翔真が再び話し始める。
「実は。誠史さんに相談があって」
彼は熱に浮かされたような目で、俺をじっと見つめている。だが、相談という言葉で若干正気が戻ってきた。
「何? 俺で良ければ、聞くよ」
翔真の口は開いたまま、動かなくなる。唸っているが、一向に言葉にはならない。目をつむり、ようやく声が絞り出される。
「オレ、この前、痴漢されたじゃないですか。その時のこと、今でもふとした瞬間に思い出しちゃうんです」
動揺するな。翔真は俺の首もとに触れている。俺の反応次第では、彼を更に傷付けてしまうかもしれない。正直、手を遠ざけてしまいたいが、そういう訳にもいかない。俺が静かに深呼吸をして、相づちを打つと翔真は言葉を続けた。
「あの時、実は反応しちゃって。けど、何でか、わからないんです。心の中では、嫌だと思っていたんですよ。でも、思い出した時もやっぱり同じで」
翔真は目を潤ませている。俺はどうしてやれば、良いのだろう。「気にするな」という言葉が頭に浮かぶ。いや、絶対にそれではないハズだ。抱き締める? けど、そんなことをしても良いのだろうか。
こんな時、豊富な人生経験があれば適切な言葉を掛けられるのだろう。でも、無い物ねだりをしても無駄だ。俺の対応できる範囲を越えている。専門家の力を借りた方が良いだろう。そうだ。それを伝えよう。
だが、俺が話をしようとするのを遮るように、翔真は言った。
「けど、たまに誠史さんにされている想像をしちゃうんです。その時は嫌じゃなくて」
これって、俺に対する告白なのか。ってアホか。流石に能天気過ぎるだろう。けど、据え膳食わぬは男の恥とも言う。いやいや、翔真は混乱しているだけなのかもしれない。それに乗じるのは、痴漢野郎とやっていることが変わらないじゃないか。
爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。翔真の顔が至近距離に近づいていた。首もとにかかる吐息は湿度が高い。頭は真っ白だ。思わず声が出る。
「ちょ、待って」
耳元で彼の声が響く。
「嫌、ですか?」
「嫌ではない。けど」
「けど?」
「急な話だから、混乱していて。自分自身の気持ちも、まだよくわからない」
そうだ。この気持ちが恋愛感情なのか、どうかを俺はまだ図りかねている。それなのに本能に流されてしまって、果たして良いのだろうか。彼との関係をそんな刹那的なものにはしたくない。
話をはじめたことで、理性も段々と戻って来た。
「そんな状況で勢いに任せるのは、怖いんだ。男同士で、どうやって付き合って行けば良いかも、わからない。そもそも俺たちはまだ知り合ったばかりだろ」
俺の問いかけに翔真は黙って頷く。
「時間をかけてお互いを知り、一緒に答えを探していきたい。それが俺の気持ちだ」
翔真は今にも泣き出しそうな顔をしている。ああ、ごめん。抱き締めてやりたいが、ここで感情に負けてしまえば、全てが水の泡だ。俺は彼の瞳をじっと見つめる。どれくらい沈黙が続いただろう。翔真はゆっくりと口を開く。
「オレも。誠史さんへの気持ちの正体が何なのか、まだ自分でもわからないです。だから、誠史さんの言いたいこともわかるというか。一緒に探しては、くれるんですよね?」
「もちろん」
「わかりました」
俺は翔真に手を差し出す。彼はその手を握り、いつもの笑顔に戻った。
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