第2話

 電車内は冷房でひんやりしている。線路に並走している道路には、雨で濡れた跡がまだ残っているが、空は気持ちが良いくらいに青い。そろそろクールビズに衣替えをする時期かもしれない。

 電車が止まり、いつも通り彼が乗り込んでくる。彼は俺に気が付き、頭を下げた。そして、人を掻き分けて、こちらに近付いてくる。

「おはようございます。先週はありがとうございました」

「いや、気にしなくて良いよ」

「本当に助かりました。こっちに来て、人から助けてもらったのは初めてです。都会にも優しい人って、いるんですね」

 優しいだなんて、とんでもない。俺が落とし物に気が付いたのは、彼をじっと見つめていたからだ。それを知られたら、どう思われるだろうか。やましい気持ちを打ち消すように取り繕う。

「俺もたまたま気が付いただけだから。って、出身はどの辺りなの?」

「田舎なんで知らないと思いますよ」

 一応、地名は教えてくれたが、確かに聞き覚えのない場所だった。知らないのは想定内なのだろう。こちらの反応は待たずに、説明を続けた。

「山奥で、JRに乗るのに車で一時間以上かかるところですから。お兄さんはどこなんですか」

 俺は自分の出身地を彼に伝える。

「おっ、都会じゃないですか。じゃあ、こんな満員電車も平気ですね」

「ああ。君はまだ慣れない?」

「ダメです。大体、この電車に乗るようになったのも、この四月からですから。たまに気分が悪くなりますね」

「それまではどうしていたの?」

「一、二年の時は自転車で通学できる距離に住んでいたんですけど、いろいろあってこの春に引っ越したんです」

 なるほど。だから、今年から会うようになったという訳か。

「妹もオレの部屋へ泊まりに来た時、びっくりしていました」

 妹がいるのか。もしかして、以前彼と一緒にいた子は妹だったのだろうか。俺は探りを入れてみる。

「妹ね。実は彼女じゃないの?」

「だったら良いんですけど。オレ、彼女なんていたことないですから。お兄さんはどうなんですか」

「俺も今はいないな」

「意外ですね。でも、今っていうことは、過去にはいたんじゃないですか」

「ああ」

「やっぱり。こんなに格好良くて、優しいんだから、当然ですよね」

 自然と顔がにやけてしまわないようにしていたら、無情にも電車のアナウンスが、彼の降りる駅名を告げる。

「オレは次で降りますね。これも何かのご縁だと思うんで、お兄さんの名前も教えてくださいよ」

「俺は藤原誠史(ふじわらせいじ)」

「藤原さん、ですね。オレの名前はご存知だとは思いますが、一ノ瀬翔真です。翔真って呼んでください」

「翔真、よろしくな」

「はい。ちなみに、藤原さんっておいくつなんですか」

「二十六。来月、二十七になるけど」

「おめでとうございます」

 誕生日がおめでたいという年でもないが。

「ありがとう。ちなみに、翔真くんは?」

「二十です。オレの方が年下なんで、呼び捨てで良いですよ」

 ブレーキ音が鳴り響き、電車が止まる。

「じゃあ、オレはここで。同じ路線を使っているから、またお会いすることもあると思いますが、その時はよろしくお願いします」

 翔真は手を振ると人の波に乗って、電車を降りていった。

 会社に着き、俺は自分の席に座る。川村の姿は見えない。だが、パソコンは立ち上がっているので、既に出社はしているのだろう。予想通り、俺が作業をしていると席へ戻ってきた。

「おはようございます。月曜の朝だっていうのに、最近はいつも楽しそうですよね。まさか例の子ですか」

「ん、まあ」

「マジですか。っていうか、その余裕綽々な言い方、止めてくれません? 人が部長に朝っぱらから説教されて、へこんでるのに」

「悪かった、悪かった」

「その言い方。誠史って名前の癖に、全く言葉に誠意が感じられないんですけど。本当に悪いと思っているなら、その子の友だちと合コンを設定してくださいよ」

 いや、相手は男子大学生だから。俺は心の中で、川村にツッコミを入れた。


 空を覆う灰色の雲は、今にも落ちてきそうだ。しかも、人でギュウギュウ詰めになっているせいで、一層空気が薄くなっているような気がする。この電車の沿線を走る路線のいくつかが、トラブルにより動かなくなっており、いつもより人が集中しているらしい。

 こんな状況なら、無理をして仕事に行かなくても良いのに。まあ、ここにいる時点で、俺も人のことは言えないのだが。人が多いからだろう。駅ではない場所で電車が止まった。どこからか、男が舌打ちをする音がする。

 車内アナウンスがお詫びの言葉を告げて、再び電車は走り出す。ようやく次の駅に着き、何人かが進路をこじ開けて、降りていった。しかし、それ以上の数の人間が車内に押し込まれてくる。その中に見慣れた顔がいた。翔真だ。顔をしかめている。

 この混雑であれば、彼もこちらには気が付かないだろう。一週間ぶりの再会で、また話をしたいという気持ちはあるが、流石にこの状況ではやめておいた方が良いのは明かだ。ホームにいる駅員の言った通りにドアが閉まると、電車はノロノロと動きはじめる。

 どれくらい経っただろうか。何故だかわからないが、翔真の様子がおかしい。真っ青な顔をして、何かに耐えるかのように、グッと目を閉じている。

 そういえば、前に話をした時、彼は「満員電車で、気分が悪くなることがある」と言っていた。この混雑で体調を崩してしまったのかもしれない。

 とはいえ、翔真の周りにいる人は誰も彼の異変に気が付いていないようだ。この状況では近くに行って、助けてやることもできない。俺に何かできることはないか。

「翔真」

 俺は彼の名前を叫んでいた。翔真は閉じていた瞳を開けて、周りを見渡す。俺と目が合うと、少し表情を弛めて、軽くうなずいた。誰かがまた舌打ちをしたが、気にならない。

 ようやく次の駅に着き、人がホームに吐き出されていく。押し流されていく翔真を追って、俺も電車を降りた。

 ホームに立っている彼を見つけて、話し掛ける。

「体調を崩したのか」

「いや、大丈夫です」

 大丈夫? 俺は違和感を覚えた。しかも、答えに反して、翔真の瞳は潤んでいる。俺は近くにあったベンチに彼を座らせた。

 翔真はこちらを見つめて口を開いたが、言葉が出てこない。無理に話をさせない方が良さそうだ。俺は近くにあった自動販売機でペットボトルのお茶を買って彼に渡すと、隣のベンチに腰掛けた。

 電車が二本通り過ぎた後、ようやく翔真が口を開いた。

「さっきは声を掛けてくださって、ありがとうございました」

「たいしたことないさ。それぐらいしか、してやれなかった」

「いや。あれがなかったら、オレ」

 翔真は再び口をつぐんだ。どうしたというのだろう。俺は黙って彼の顔を覗き込む。翔真は声を震わせながら、言葉を続ける。

「さっき、痴漢されていたんです。最初はただ触れただけなのかなと思っていたんですが、次第に大胆になって」

 予想していなかった告白に、頭の中は真っ白になった。

「オレ、混乱して。どうしたら良いのかわからなくなって。けど、手はどんどん遠慮がなくなっていって。その時、誠史さんがオレの名前を呼んでくれたんです。で、やっと抵抗しなくちゃと思って」

 話を聞いているうちに、段々とムカムカしてきた。その痴漢野郎にも、自分自身にも。今まで俺は痴漢を他人事だと思っていた。けど、翔真の様子を見ていて、自分の認識不足を思い知った。しかも、彼にその話をさせている。

「ごめん。俺、無神経だよな」

「そんなことないです。誠史さんが声を掛けてくれたから、手を払いのけられたので。むしろ助かりました。っていうか、また助けてもらっちゃったので、今度お礼をさせてください」

「いや、そんなの良いよ」

「ダメです。オレの気持ちが収まらないので」

 人に貸しを作りたくないタイプなのだろう。俺も昔は似たようなところがあったので、気持ちはわかる。

「わかった」

「じゃあ、連絡先を交換しましょうよ」

 俺はプライベート用のスマートフォンを取り出すと、翔真は端末の操作をする。

「ありがとうございます。後で連絡入れますね」

 翔真は手を振って、階段を降りていった。立ち去り際、妙にテンションが高かったような気がしたのは、考え過ぎだろうか。返されたスマートフォンをぼーっと見つめる。

 ヤバい。始業時間を過ぎている。まあ、この運航状況だ。言い訳すれば、誤魔化せるだろう。遅刻の連絡をするために会社のスマートフォンを開くと、川村からメッセージが来ていた。俺を心配する言葉と、代わりにいろいろと対応してくれている内容が書かれている。

 ナイス。あいつには昼飯でも奢ってやろう。返信を打つためにスマートフォンを操作しながら、俺は来た電車へ乗り込んだ。

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