運命はどこにでも転がっている

藤間 保典

第1話

 瞳がその姿を捉えた瞬間、目が離せなくなった。見慣れたはず世界が、さっきまでとは全く違う彩りに変わる。月曜日のかったるい通勤電車から、突然別世界に放り込まれたかのようだ。俺は自分の目を擦り、再び彼を見つめた。

 そこにいたのは大学生くらいの男だった。整ってはいるが、どこにでもいそうなタイプ。なのに、俺の目は何故だか彼を追いかけてしまう。

 軽くパーマがかかった髪に長い睫。印象的な瞳はスマートフォンを見つめている。耳にワイヤレスイヤホンを着けているから、音楽でも聞いているのだろう。

 にしても、どうして俺は彼にこんなにも心が惹き付けられるんだろう。どこかで会ったことがあっただろうか。この路線は毎日通勤で使っているが、電車内で見たのは初めてな気がする。

 学生時代に会った? いや、俺が大学を卒業したのは、もう四年も前の話だ。ゼミや、サークルのOB会にも行っていないから、あの年代とは知り合うきっかけなんてない。

 だとしたら、昔の彼女の弟か、何かだろうか。けど、紗也香には弟はいなかったハズだ。少なくとも俺は会ったことがない。

 もう少し近くまで行けば、わかるかもしれない。俺は何とか移動しようとしたが、隣にいる男が舌打ちをした。うーん。乗車率百%近い、この満員電車内で移動するのは、やはり難しそうだ。

 車内アナウンスが若者の集まる繁華街がある駅の名前を告げる。電車が止まると、人の波が彼をさらっていく。返ってくる乗客の中に、彼は見当たらなかった。そして、再び電車は走り始める。ここが降りる駅だったのだろうか。

 俺は深く息を吐き出した。果たして、何だったんだろう。さっぱりわからない。これが女の子だったら、一目惚れということもあるかもしれないが、相手はあいにく男だ。それは百パーセントない。

 まあ、この路線を走る電車は数えきれない程、多くの人間を運んでいる。それこそ運命でもなければ、二度と会うこともないだろう。

 胸元でスマートフォンが震えた。仕事用のだ。内容をチラッと確認する。あぁ、またトラブルだ。しかもかなり面倒くさいヤツ。どうしたものだろうか。俺は対策を考えはじめる。

 会社に着くと後輩の川村が既に席に着いていた。こちらに気が付くと、挨拶をしてくる。

「おはようございます、藤原さん。何かヤバいことになっているみたいですね」

 こいつも状況は把握しているようだ。それなら話が早い。

「まあな。で、ここに来るまでに考えたんだけどさ」

 俺は川村に今後の進め方を説明する。

「それしかないですよね。オレの方は早速、調整しておきます」

「助かる。よろしくな」

「了解です。でも」

 川村が言いよどむ。

「何だ、気になることでもあるか」

「いや。藤原さん、何か楽しそうだなと思って。こんな面倒くさいことになっているのに。もしかして――」

 何を言い出すんだろう。俺の頭に何故か、さっきの大学生の横顔が浮かぶ。訳がわからない。俺は川村の言葉を待つ。ヤツは小さな声で耳打ちをした。

「もしかして、マゾですか」

「バーカ。さっさと仕事しろ」

 俺は持っていた経済新聞で川村の頭を叩き、深くため息を吐いた。


 車窓から入ってくる日差しから目を逸らすと、いつも通り車内は満員だ。天気予報によれば、今日の昼間は三十度を超えるらしい。まだ五月だというのに、もう夏といっても良いくらいだ。これじゃあ、八月はどうなっていることやら。先が思いやられる。

 俺は乗下車の人の流れを利用して、さっきからハンカチで汗を拭いている中年男性から、そっと距離を取った。

 そろそろ彼が乗って来る頃か。俺は電車のドアの方を見る。もう二度と出会わないだろうと思っていたが、実際には翌週にも顔を合わせた。この一ヶ月間、毎週同じ時間に乗って来て、同じ駅で降りる。ということは、あの駅に職場か、学校があるのだろう。

 車内アナウンスが彼の乗車してくる駅名を告げる。出入りする乗客の中には、やっぱり彼の姿があった。

 彼は自分の前のスペースを維持するかのようにドアに手を置いている。今日は誰かと一緒のようだ。人の影に隠れている同行者らしき相手の姿を確認するため、俺は何とか身体を動かした。

 目が捕らえたのは、彼と同世代の若い女の子だった。彼はその子を他の乗客から守りつつ、談笑している。

 彼女だろうか。今日に限って一緒に乗ってきたということは、あの女の子は彼の家に泊まったのかもしれない。だとしたら――。

 よくわからない何かが、俺の胸にこみ上げてきた。いやいやいや。訳がわからない。いつも電車が一緒になるだけで、どこの誰かもわからない男だ。感情が動く訳がない。

 考えがまとまらないうちに、電車はいつもの駅に到着した。彼と女の子は降りていく。

 二人が見えなくなると、さっきまで胸を占領していたものがスッと消えていた。一時的に体調を崩してしまっただけだろうか。それとも、彼らの存在が俺の体調に何か影響をおよぼしている? だとしたら、何故?

 その答えがわからないまま、俺は会社に着いた。先に仕事を始めていた川村が俺に挨拶をする。

「おはようございます。って、藤原さん。どうしたんですか、そんな顔をして。何かあったんですか」

 どうやら俺は、心配されるような顔つきをしているらしい。考えがまとまらない時は、誰かに話をしているうちに整理できると聞く。だったら、こいつに説明してみるか。

「俺も良くわからないんだが、聞いてくれるか」

「もちろんです」

「実は通勤電車でこの一ヶ月、良く顔を合わせる相手がいるんだ」

「へぇ。知っている人ですか」

「いや、全然。けど、何故だか見てしまう相手で」

「あぁ。もしかして、一目惚れってヤツですか」

 一目惚れ? いや、相手は男だ。けど、もしこれが女の子だったらどうだろう。気になる子が彼氏らしき男と一緒にいるのを見たら、ショックを受けるかもしれない。それなら、さっき何かが胸にこみ上げてきたのも、すっきりと説明がつく。嫉妬だ。しかし、それが意味することは――。

「藤原さん、どうしちゃったんですか」

 川村の声が俺の耳を通り過ぎる。


 俺の前に座っていた女性が立ち上がる準備をはじめた。ラッキー、しかもドアの側だ。これは座ってしまおう。俺は持っていた傘を畳み、すかさず席をキープした。ひと息ついていたら、ガラスに水滴がぶつかる音がする。雨は家を出た時よりも激しくなっているようだ。

 電車のアナウンスが次の駅名を告げる。また彼が乗って来るだろう。先週、川村から「一目惚れをした」と言われたが、自分の中で結論はまだ出ていない。女の子にはまだ興味がある。男にも興味はない。しかし、彼のことになるとハッキリ否定できない自分がいる。あの青年に何か特別なものでもあるのだろうか。

 電車が止まり、人が乗ってくる。顔を上げると目の前に彼が立っていた。相変わらず耳にワイヤレスイヤホンを着けて、スマートフォンを眺めている。

 まさかこんな至近距離に来てしまうなんて。いや、胸の内にあるモヤモヤを晴らす良いチャンスかもしれない。俺は改めて彼を上から下まで観察した。

 やはり見覚えがない顔だ。しかし、遠目ではひ弱そうに見えたが、すらりとした腕に、くっきりと血管が浮き出ている。

 彼が伸びをした。シャツの丈が短いのか、腹がチラリと見える。へその下に、うっすらと毛が生えていた。視線は流れにそって、自然と下がる。

 俺はこの前、彼が連れていた女の子のことを思い出した。一見、大人しそうに見える彼も、やることはやっているのだろうか。意外とそういうヤツの方が、むっつりスケベな気がする。実はサディストだったりして。

 その時、耳元で男の声がした。

「おい、あんた。どこ見てるんだよ」

 俺の身体が止まる。

「聞こえないふりをしたって無駄だ。こっちはわかってるんだからな。そんなに、俺のに興味あるの?」

 何か反論しようと口を動かすが、空回りして言葉にならない。彼はジーンズのファスナーに手をかけると、それを下げた。

 慌てて顔を上げると彼は相変わらずスマートフォンを眺めている。どうやら妄想をしていたらしい。何をしているんだ、俺は。だが、理性に反して身体は反応している。

 ヤバい、ヤバい。俺がなんとか自分を鎮めようとしていたら、アナウンスが彼の降りる駅名を伝えた。彼はスマートフォンをカバンにしまい、代わりに財布を取り出す。その時、何かが床に落ちた。

 彼はそれに気付かず、ドアの方へ歩いていく。俺は乗客の足を避けながら、それを拾った。

 パスケースのようだ。中には学生証が入っている。名前は一ノ瀬翔真(いちのせしょうま)。って、そんなことを確認している場合じゃない。俺は席から立ち上がり、「降ります」と言いながら人混みをかき分けた。

 何とか電車を降り、彼を探す。何処だ? しかし、ホームには人が溢れかえっている。これじゃあ、到底見つけられそうにない。いや、考えろ。この駅で降りたとしたら、向かうのは改札だ。一番近い階段は――。

 そちらを見ると、彼の姿があった。だが、この人数を押し分けていては、追いつけそうもない。俺は彼に向かって、声を上げる。

「そこの君、待って」

 だが、振り返る素振りすら見えない。当たり前だ。彼は俺のことを知らない。俺が呼んだところで、自分のことだとは思わないだろう。どうする。そうだ、名前。

「一ノ瀬翔真くん、待って」

 彼は立ち止まり、周りを見回す。よし、気が付いた。俺は言葉を続ける。

「後ろだ。君、学生証を落としている」

 彼は急にカバンの中を漁り始めた。そして、人の流れから外れて、こちらを振り返る。俺は手を振り、自分の存在をアピールしながら近付いていった。

 人の波が若干落ち着き、ようやく彼の元に辿り着くと俺は手に持っていたパスケースを渡す。彼は頭を下げた。

「ありがとうございました」

「いや。無事に渡せて良かったよ」

「わざわざ電車を降りてくださったんですよね。時間、大丈夫ですか」

「ああ。次に来る電車に乗れば、間に合う。君の方こそ、平気なの?」

 彼は腕にしていたスマートウォッチを見て、慌てる。

「あっ、ヤバい」

「俺のことは気にしなくて良いから、急いで」

「すみません。助かりました」

 彼は再び頭を下げ、急いで階段を駆け降りていった。その姿を見送り、俺は次に来た電車へ乗って会社に向かう。執務室に着くと川村はコーヒーを飲む手を止めて、挨拶してきた。

「おはようございます。今日はゆっくりですね。電車、遅れてました?」

「いや、ちょっといろいろあってな」

「通勤電車で何があるって言うんですか。もしかして、前に話していた一目惚れの子と何かあったりして」

「まあな」

「えぇ? 何ですか、それ。だから、そんなに嬉しそうな顔をしているんですね。けど、前に『一度も話したことない』って言っていましたよね。何があったんですか? 詳しく教えてください」

 川村はコーヒーをデスクに置き、こちらに身を乗り出して来る。俺はヤツの椅子をデスクの方へ戻しながら、答えた。

「別にたいしたことじゃない。それより、もう始業時間だ。さっさと手を動かせ」

 そうだ。彼は俺の名前を知らない。助けたとはいえ、話した時間も短い。来週にはきっと、俺の顔など忘れてしまうだろう。

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