第3話 後編



『ラナは行きたい場所や、見てみたい景色はあるかい?』


ユリウスと2人で花畑で出掛けた時の思い出。

色とりどりの花びらが舞う景色の中、彼が隣で話しかけた。


『どうして?』


『ラナはずっと、この町で暮らしているんだろう?だから、どこか行きたい場所があるのかなと思って。……あー、でも、前世も含めれば俺よりもずっと世界をみてるよね』


そう言ってユリウスは苦笑いを浮かべた。

ラナはユリウスを見つめて口を開く。


『……人魚の頃は、15歳になるまで地上の世界を見に行く事は許されなかったから、あんまり知らないの』


『そっか。じゃあ、俺がいつか連れてってあげるよ。船に乗って、色んな場所へ行こ』


『……うん』


まだ、自分の気持ちに素直になれなくて照れくさく感じてしまっていた頃。

でも、待っていればきっとその日は訪れるのだろうと、信じて疑わなかった。誰も2人を隔てるものなんて何もなかったから。

だから、時間をかけてゆっくり歩んでいけばいいと思っていた。

ずっと一緒にいれば、いずれそんな日々も当たり前になると思っていたから。

彼と会えなくなる、その時までは。




潮の香りと波の音はとても馴染みがあるものなのに、この揺れは落ち着かない。

ラナは身動ぎするように身体を動かすが、身体は思うようには動かないし、何かがギリッと肌に食い込んだ。

その不快感に眉をひそめて、ラナはゆっくり瞼を開けた。

クラクラする頭とはっきりしない意識に頭が上手く働かなかったが、今の状況には違和感をもった。

私、もしかして……

先程の記憶を少しずつ思い出していれば、ガタンと大きく地面が傾いた。

両手足を縛られ自由が奪われているラナは、体を支えるすべがなく、そのまま地面に投げ出された。


「きゃ!」


叩きつけられた衝撃に思わず声が出てしまう。


「…お!目が覚めたか」


野太い声に顔をあげれば、舵をきる男の姿があった。

その姿にはっきりと記憶が蘇る。

そうだ、船に乗ろうとして、この男たちに攫われたんだ。

その事実を思い出せば、焦って周りを見渡した。

波と共に揺れる木の板が張り詰められた床、見上げれば風に煽られ音を立てる帆の姿があって、ここが船の上であることは疑いようがなかった。

絶望的なこの状況に唖然とした。


「諦めた方がいいぜ、ここは海の上なんだから」


ラナの横から割って入るようにもう1人、バンダナを頭に巻いた男が現れた。

嘲るように笑ってラナを見下ろす。

その男をラナは強く睨みつけた。


「何のつもり?何が目的なの?」


誘拐と言えば、ラナの知識ではお金持ちだったり綺麗な容姿の人間を攫うものだ。

けれどもラナはどちらも持っていない。

犯人の目的が不明で、もしかしたら人違いなのではと一抹の希望を抱いた。


「俺らはお前を攫うように依頼されただけだよ」


「は?」


「この町で暮らしている、“ラナ”っていう女をね」


ラナは目を見開いた。

勘違いしようも無いくらい、はっきりと自分の名前が告げられる。

何で、私を?


「あんたの事は探すのに手間かからなかったよ。町で“ラナ”って女の事を聞いたら、町外れに住む変わり者だってな。本当は昼間にあんたの家に行ってそん時に連れ去る計画だったんだけど、昼間はいなかったから、しばらく外から様子を見てたらあんたの方からこっちに来てくれて好都合だったよ」


昼間と言えば、ラナは不自然に空いていた窓のことを思い出す。

もしかして、こいつらが窓から侵入したせいで開いてたのだろうか。


「それにしてもこいつ、パッとしない女だな」


呆然としていたラナを、バンダナの男が目の前にしゃがみこんでしげしげと眺めていた。


「おい、その気もないのに変なことすんなよ」


「しねぇよ。こんな女じゃ変な気も起きねぇわ」


半笑いで会話する男達にラナは嫌悪感を感じて睨みつけた。


「まぁ、安心しなよ。俺らは悪党ん中でも人の心がある方だから、お前が余計な事でもしない限りは何もしないよ」


要は、ラナが逃げる動作を見せようものならただじゃ置かないと脅しているのだ。

だいたい、何もしないと言っているがこんな事までしておいてどの口が言ってるのか。説得力も何もあったもんじゃない。

ラナは警戒を緩めるつもりもないし、逃げるチャンスがあるなら行動を起こす。

幸い海ならラナは泳いで逃げれる可能性はあった。

とはいえ、前世と違って今のラナは海で息は出来ないし体力にも限りがある。

陸から離れれば離れるほどラナが助かる可能性はなくなってしまう。

だから、ラナは逃げる機会を逃すわけにはいかなかった。


バンダナの男の方はラナに興味が無くなったのか壁に寄りかかって床に寝転がる。そして、だらけた様子で口を開く。


「もういい加減疲れたよな。いつになったらこの仕事終わんだよ」


「もう少しの辛抱だ。こいつを引渡しさえすれば、たっぷり報酬貰えんだから。あとは遊んで暮らすだけの金が入る。我慢しろ」


「あー俺もあっち側が良かったなぁ」


「仲間とは次の島で合流するから、それまで黙ってろ」


「へーい」


仲間がいる、ということはまだこんなヤツらがごろごろいるのだ。もしそうなら、力で叶うわけが無い。

ラナは焦りを感じた。次の島についてしまえばラナが逃げるチャンスは完全に無くなってしまう。

つまり、タイムリミットはこの船が次の島に止まるまでの間だけ。

もしもこのまま帰れなかったら……

本当なら今頃、船に乗ってユリウスのいる国に向かっているはずだった。

別に国に着いたからと言って、必ずユリウスに会えるとは思ってはいた訳ではないが、それでも、何かの拍子に一目でも会えたらと、偶然でもいいから僅かな可能性に賭けたかった。

もしも、それで本当に、ユリウスがラナのことを忘れてしまっていたとしても、構わなかった。

とにかく、ラナは前に進むためのきっかけが欲しかったから。

けれど、それがまさかこんな事になるなんて。

男たちの前では毅然に振舞っていても、ラナの心は弱りきっていた。

助けを求めたくても、今のラナの元には誰も助けは来ないだろう。

自分で何とかしなければ助からない。それが今の自分だった。

そうなって改めて、自分の手元には何も無いことに気付かされる。

前世のラナは自分の幸せの為だけに行動して家族や周りの事なんて顧みず、そのせいで全てを失ってしまった。

私は、あの時から何も成長していない。

もしもここから逃げたとして、これから私に生きていく意味はあるのだろうか。

ユリウスに会ったとして、彼はラナの事を覚えているのだろうか。もう、ラナの事なんか忘れて、彼は幸せに生きているのではないだろうか。

そんな考えが胸に押し寄せる。

誰も、ラナを必要となんかしていない。

そう思った途端、スンッと心が凪いでいった。

誰も必要としていないなら、もういいじゃないか。

今の生に、無理して必死にしがみついていく必要は無い。

なら、無理して逃げる必要だってもうない。

前世の記憶と合わせれば、ラナは十分長く生きてきた気がする。

何故前世の記憶を持って生まれ変わってしまったのかは分からない。

それでもラナとしての人生は、家族や友人、好きな人と過ごす時間もあって幸せだった。きっと、これ以上の幸せなんて、この先きっとない。

_______あぁ、でもあの時、ユリウスに気持ちを伝え損ねたなぁ。

好きだと言わなかった。あなたを愛しているのだと。

次会った時に聞かせてと彼は言ったけれど、もうそれを伝える事は永遠に出来ない。

彼は待っていてと言ったのに。

色んなところへ連れていってくれるのだと、約束してくれたのに。

涙は出なかったが胸が苦しくなって、喉がグッと詰まるような感じがあった。

どんなに自分に言い訳していたって、ラナの願いは1つなのだ。


______彼に会いたい


思い出すのは彼の笑顔。いつだって、彼の存在は私を安心されてくれる。

だから、ユリウスに会いに行くのだ。

諦めたくなんかない。

そう心が前を向いた時、事態は動いた。


「おーい、なんか後方に船がいるぜ」


頭上から声がした。

見上げれば上の見張り台にもう1人男がいた。

男は望遠鏡片手に船の後ろを見ながらこちらに向かって声をかけた。


「なんだぁ?漁船か?それとも貨物船か?」


「いやぁ、そんな感じの船には見えないけど……」


上の男からの微妙な返答にバンダナの男は「はぁ?」と首を傾げて舵を切っている男は眉をひそめていた。


「とにかく離れよう。機動力ならこっちの船の方がある。ただの船ならそのまま真っ直ぐ進んでくだろう」


そう言って男は左へと舵を切る。

けれど、しばらくして見張り台の男はこちらに向けてまた声を張り上げた。


「やっぱおかしい!あの船こっちに向かってきてるぞ!」


「はぁ!?」


バンダナの男は寝そべっていた体勢を勢いよく起こして立ち上がった。


「何だって追いかけてくるんだよ!?」


苛立った様子のバンダナの男は急にこちらを睨みつけてそのままラナの髪を引っ掴んだ。

ラナは痛みに顔を歪める。


「まさかお前、なんかしたんじゃないだろうなぁ?」


ラナは呻きながら「知らない」と言って首を振る。


「やめろ、あんま下手なことをするな」


舵を切っている男にそう言われ、髪を掴んでいた男は舌打ちをしてそのままラナを放り投げた。

手足が縛られているラナは支えることも出来ずに床に転がる。

痛みを感じながらも、男たちが予想外の事態にピリついて焦っていることは察せられた。

後方から来る船の正体はラナにも分からないがこれは好都合だった。もしも逃げ出す機会があるとすれば、今を置いてほかにない。

けれども手足が縛られた状態のままでは泳いで逃げることは不可能だった。

何とかして縄を解かないと。

ラナは体を捩って縄を引っ張るが、頑丈に縛られた縄はビクともしない。

強引に引っ張って縄を外そうとしたが、力任せに操縦されている船の上では思うように手を動かせないどころか、激しい揺れの中に自分の体勢を保とうとするだけで精一杯だった。

船にいる男たちも、「うおっ!!」「おい!どうなってんだよ!」「くそ、操縦が効かない!」と、パニックになっていた。

どうやら波の勢いも激しいらしく、空を見れば曇天で天候が悪いのは明らかだった。

そして最後にはドンッ!と、船がぶつかったような強い衝撃があって、男達も立っていられず全員床に転倒した。

見張り台にいた男もその衝撃で、そこから振り落とされてしまったが、命からがらといったように何とか縁に手をかけてそのまま宙ぶらりんになっていた。

ラナも衝撃に体を強ばらせた。そして次第に揺れが落ち着いてくればその緊張をゆっくり解いた。

気がつけばラナは船の隅っこまで転がっていて、先程まで船の構造物によって見えなかった後方の様子が視界に入る。

そして驚いた。そこにはこの船のひとまわりもふたまわりも大きい船があったから。

そして先程の大きな衝撃はこの船が衝突したせいだったのだと知った。

でも、一体何が起きているのか。

ラナにはこの事態の検討もつかないし、ラナを攫った男たちも全く知らない様子だった。でも、だからといってこの衝突した船がラナの味方とは限らない。

もし味方で無いのなら、混乱している今のうちに早く逃げ出す必要があった。

ラナは動きが止まった船の上で必死に縄を解こうとした。

あと、少し.......。


「……うぅぅ、くそっ、何がどうなってんだよ」


そうこうしている間に床に転がっていた男たちが起き出した。

男は苛立たし気な様子のまま、床に転がっているラナに目をつけるとラナの髪を鷲掴みにして持ち上げる。

ラナは顔を歪めて呻き声を漏らした。


「てめぇのせいだろう!よくもこんな真似を.......あったまきた!もう知ったこっちゃねぇ、身をもって分からせてやるよ!」


筋違いなことを永遠と叫びながら、男は腰に刺さったナイフを取り出してラナの前に突き出す。

ラナは流石に恐怖に顔を歪ませた。

これから何が起こるのか。ラナは自分が痛めつけられる姿を想像してしまい体が小刻みに震え出す。


「今更怯えてんのかよ。さっきの威勢はどこいったんだよ、ぁあ!?」


男はナイフペタペタとラナの頬に当てながら不敵に微笑み、そして振りかぶってラナに刃先を突き立てようとした。

ラナは強く目を瞑る。痛みに備えて体を強ばらせた。

その僅かな時間をとても長く感じながらラナは覚悟したがその痛みはラナに訪れることはなく、「グハッ!」という声とともにドンッと叩きつけられる音がした。

そして男の腕から解放されたラナは床にぐったりと倒れ込む。

虚ろな意識で何とか見上げれば、誰かが背を向けてラナの前に佇んでいた。

誰?

サラサラな藍色髪と白色のマントが風になびいている。

これは、夢なのかな?

本当はもう自分は死んでしまって、目の前の光景は自分で見せている幻なんじゃないかと思えた。

だって、待ちわびていたラナにはもう、その後ろ姿が彼の姿にしか見えなかった。

そしてラナに背を向けたまま、彼は蹴り飛ばした男に長剣の切っ先を突きつけた。


「お前、このまま楽に死ねると思うなよ」


地を這うような低い声に、剣を突きつけられた男は「ひっ!」と脅えた声をあげた。

ラナは辛うじて開く瞳を見開いた。

声の様子は違っても彼の声に違いなかった。

ラナは何とか上体を起こす。


「.......ユリ、ウス」


そして、彼の名前を呼んだ。

消えそうなくらいか細い声だったが、彼は肩をピクリとさせて表情は見えないくらいに微かにこちらに振り返る。

そして、そのまま何も言わずに困った様子で俯いた。

ラナもそれ以上何て言えばいいか分からなかった。

もちろん言いたいことは沢山あった。

でも、まるで魔法にでも掛かったみたいに、声が出なかった。

2人の間を沈黙が流れる。

そのまま気まずい時間が流れれば、その沈黙はガタリと音を立てた人物によって破られた。

もう1人の転がっていた男が唐突に起き上がり、ラナの体を抱き込むように掴みあげたのだ。

油断していただけにユリウスも助けが間に合わずラナはそのまま船の先端まで連れていかれる。


「おい!離せ!!」


ユリウスの叫び声に男は「来んじゃねえ!!」と言い放つ。

そして腰のナイフを取り出してラナの首筋に突き立てた。


「やめろ!!」


「へっ、もうどうせ終いなんだ。なぁ、嬢ちゃん。仲良くしようや」


そう言うとラナを掴んだまま男は後ろ向きに海に飛び込んだ。

ラナは悲鳴も上げられず、______ドプンッ!という音を立ててそのまま海に引き込まれた。

落ちる瞬間、彼が自分の名前を叫んでくれた気がした。

良かった、と安堵する。彼はラナの事を覚えていてくれていた。

けれどもう、ラナの耳には音も声も聞こえない。

ブクッと口から息が漏れ出す。

手足の自由が効かないためラナはそのまま海の底へと沈んでいく。

昔は帰る場所だった海が今は暗く、自分を闇へと引きずり込む場所に変わってしまった。

ラナは苦しくなって息を吸うように吸い込んでしまうが、余計に重苦しいものが肺を満たしていく。

海の世界を照らす光を見つめてラナはそっと目を閉じた。

明るい外の世界はラナには眩しく、今はもう、どれだけ伸ばしてもラナには手が届かないものだった。


ふわりと柔らかいものに包まれる、懐かしい感覚。

暗かった瞼の奥が明るくなった気がした。

昔、同じような体験をした事がある。

前世の話。海に飛び込み泡となった私は、光の姿へと変わった。

風の精となって、みんなの幸せを願ったのだ。

私は1度、自分の幸せのために人を犠牲にしようとしたことがある。

でも、それは醜い行いだった。

人魚姫が泡になって消えてしまう前にと、姉たちが自分の髪を犠牲にして魔女からもう一度人魚の姿に戻れるナイフを貰ってきてくれた。

けれど戻るための条件は、そのナイフを王子に刺してその返り血を浴びるというものだった。

前世の私はもはや王子と結ばれないことに悲嘆して、自分が元に戻りたい一心で王子の胸にそのナイフを刺そうとした。

でも、刺せなかった。

だって、は、初めから人魚姫の事なんて愛していなかったのだ。

わかっていた。彼に、本当はあの時私があなたを助けたのだと正直に話したって、彼の心は取り戻せないということを。

彼はあの時出会った、心優しい彼女・・に心惹かれたのだから。

それは助けた順番など関係ない。2人を引き合わせたのは運命で、選んだのは彼自身の心だと。

だって、彼が人魚姫に優しくしてくれたのは彼女に似ていたから。

彼女は修道女だから、仕方なくその思いを人魚姫に向けていただけ。

わかっていた。彼が人魚姫に向けてくれた好意は全部全部、本当は彼女に向けられたものだということを。

だから彼は、人魚姫があの日、彼の胸にナイフをつき立てようとしたあの時、寝言で彼女の名前を囁いたのだ。

心から、彼女を愛していたから。

もはや、自分が彼の心に入り込む余地なんて元々ありはしなかったのだ。

それを傲慢にも自分の方が彼にふさわしいと驕った挙句、自分が選ばれなかったからと彼を犠牲にしようとした。

何て利己的で浅ましい行いだったか、今となっては恥じる思いだ。

初めは純粋な恋だった。そして、憧れ。

漠然としたその思いに迷わず飛び込んでいった。

でもいつからか、純粋な思いは、ただ自分の幸せだけを満たすためのものへと変わってしまった。

あんなもの、もはや恋と呼べるものでは無かったのかもしれない。

彼が本当の幸せを手に入れたと知った時、もう自分の存在なんて必要ないように思えた。

だから、全てを手放した。幸せも憎しみも何もかもを。自分の卑しい思いも全て海に投げ捨てるように。

だから、幸せを願った。

それが自分に唯一できたことだったから。

幸せを願えば、自分の胸が軽くなった気がした。

つかえが取れて楽になった気がした。

あぁ、もう私に自分の幸せを願う資格は無いのだ。


だから私はあの時、恋心を捨てたのだ。




遠くで誰か私を呼ぶ声がする。

返事をしたくても出来なくて声がつっかえたように出ない。

あぁ、そうだ声はもう失ってしまったのだ。

じゃあどう返事をすればいいのだろう。それとも返事をしない方がいいのだろうか。

けれども、こちらを呼ぶ声はとても必死だった。

だからどうしても答えたかった。

答えたらきっと、彼は微笑んでくれるはずだから。


ラナは重い瞼をゆっくり開ける。視界の景色は歪んでいた。

重苦しい体にラナは微かに動く足と手をピクリと動かした。

そして息を吸い込んだ瞬間、思いっきりむせてしまう。ゴホゴホと咳込めば温かい手がラナの背中を摩ってくれた。

しばらくそのままむせ続ければ彼の声が耳に届いた。


「大丈夫かい、ラナ?」


咳が落ち着いてきてラナは、こちらに影を傾けた人物をゆっくり見上げた。

藍色の少し伸びた髪に心配げにこちらに向けられた黒い瞳。以前よりも精悍な顔つきになった彼の姿がそこにあった。

________ああ、


「ユリウス」


そう言ってラナは彼の頬に、海水で湿って薄らと鱗が出ている両手を伸ばした。

ユリウスはラナの伸ばした両手を優しく包み込んで泣きそうな顔をうかべた。


「会いたかった」


ラナは微笑みを浮かべて思ったことを素直に口にする。


「.......俺も、会いたかったよ」


ユリウスは泣きそうな顔で微笑んだ。

良かった。彼は私の事を忘れてなどいなかった。


「ごめん、迎えに来るのが遅くなってしまって」


ラナは思い余って、目から涙がこぼす。


「私、ずっと待っていたのよ。あなたのこと.......」


「うん」


「でも、あなた、全然逢いに来てくれないから、いい加減待ちくたびれて、私から会いに行くことにしたの.......」


「...うん」


「なのに、あなたの方が先に会いに来ちゃうなんて.......」


「うん、ごめん」


ラナは額をユリウスの胸に押し付けた。

ユリウスはラナの体を優しく抱きしめる。


「良かった。君が無事で、ホッとした」


ユリウスの絞り出すような声にラナは胸がギュッとした。


「.......助けてくれてありがとう、ユリウス」


船の上で彼がラナを助けてくれた時、本当に驚いた。

もう誰もラナを助けれくれる人なんて1人もいないと思ったから。

でも、彼はどうやってラナの居場所を突き止めたのだろう。それに、ラナは海に落ちてからどうやって助かったのだろうか。

今ラナたちは桟橋の上にいて、周りを見渡せば見慣れた砂浜があり、町まで戻って来ているようだった。

でも、ラナたちの見た目からそう時間が経っているようには思えない。

とはいえ波に流されてここまで辿り着いたとも思えなかった。

一体.....?


「私たち、あの後どうやってここまでたどり着いたの?」


ラナがそう聞くとユリウスも困ったような表情をうかべた。


「俺にもよく分からないんだ。ラナが海に落ちてすぐに俺も海に飛び込んだんだ。けど、波の勢いに押されて俺も気を失ってしまって、気づけばここにいたんだ。ただ.......」


そこでユリウスを言葉を噤む。

ラナはユリウスの言葉を続きを待った。

けれども中々口を開かず、ラナが首を傾げて次第に口を開いた。


「誰かが俺たちを助けてくれた気がする。おぼろげで誰かは分からなかったけど、何となく、女の人だった気がした」


ラナも言われればそんな気がした。

落ちた時、柔らかいものに包まれた感覚があった。

温かくて懐かしい、そんな感覚。

だから、もしかしてと思った。

ラナはユリウスの腕から離れて、海の方へと体を傾ける。

「ラナ?」とユリウスが不思議そうに声を発した。

ラナはそのまま海に片手を沈める。

ポチャンと浸した腕を通して海水の冷たさと波の勢いを感じた。

そして、浮かび上がった鱗が海の光にキラキラと輝く。

こうすれば届くと思ったから。

思いは海を伝わる。

しばらくそうしていると、遠くで水が跳ねる音と視界の隅に尾鰭が見えた。

あぁ、ずっとそばに居てくれたんだ。

もう、二度と会えないと思っていた。だってもうラナには会う手段も資格もないから。

でも心の中にはずっとあって、忘れたことなんてなかった。


「ずっと会いたかったの、お姉さま.......」


「私もよ、私の可愛い人魚姫」


そう言って海から現れた、金色の艶やかな髪と青い瞳の女性はラナの頬に手を伸ばした。

ラナは、とめどなく零れる涙の、視界の先にいる女性を見つめる。

彼女は優しい瞳でこちらを見つめていた。

懐かしい姉の姿がそこにあった。

ラナは嗚咽を漏らしながら、そのまま互いに抱きしめ合う。

会うのは前世の時以来だった。

彼女は優しく家族思いの人で、5人いるうちの1番上の姉だった。人魚姫に愛情を注いでくれた、大切な家族。

そのまましばらく互いに体を寄せあっていれば、ラナは姉の長く緩やかにウェーブをうつ金色の髪を視界の隅に捉えた。

ラナは姉から離れて、安堵するように寂しげに微笑んだ。


「良かった。髪、元の長さに戻ったんだね」


前世の人魚姫の時、王子と結婚できず泡に消えてしまいそうになっていた時に、姉たちが魔女に頼んで、人魚に戻れるナイフをラナに渡してくれたのだ。

けれどそれと引き換えに姉たちは長くて美しかった髪を失うこととなってしまった。

ラナの言葉の意味を理解して、姉は「あぁ」と呟いて笑みを浮かべた。


「髪なんて安いものだわ。だってあなたの方が、一等大事だもの」


姉の言葉にラナは目を瞬かせて、俯きまた涙を流した。

もう、こんなどうしようもない自分を愛してくれているとは思っていなかった。

でも、変わらない家族の姿がそこにはあって、自分は愛されているのだと実感する。


「ごめんなさい.......」


泣きじゃくりながらそう呟く。

姉は笑みを浮かべて口を開いた。


「本当はね、あなたがこの世に生まれた時からずっと、あなたの魂の存在は感じていたの。だから、海の世界からあなたの事、私たちみんな見守っていたわ。それで、たまに地上に顔を出して元気かしらって。あなたを代わる代わる見に行って、たまにあなたの姿を見つけたらはしゃいでいたわ」


そう言って姉は可笑しそうに微笑んだ。

ラナは目を瞬かせる。

気づかなかった。ラナもたまに海から景色を眺めていたが、見つけたことは無かった。

だって、もう人魚でもなければ、忘れられているとさえ思っていたから。


「だから、今日会えてよかった」


「私も、会えてよかった」


ラナが笑みを浮かべれば、同じように優しい笑みを浮かべてくれた。

すると、姉は一度ラナから視線を外して後ろにいるユリウスの方を見つめた。

先程の穏やかな雰囲気から一変して姉は瞳を眇めるようにユリウスを見つめる。

ラナは不思議に思って目を瞬かせて、ユリウスは「何か?」とたじろいだ。


「いえ、あなたの顔を見ると少し、嫌な人を思い出してしまうから。....妹を、助けてくれてありがとう」


ユリウスは目を瞬かせて、何か思い出すように眉をひそめた。


「もしかしてあの時、ラナが危険なことを知らせた声って、あなたですか?」


ラナはなんのことか分からず首を傾げる。

ユリウスの言葉に、姉は海に視線を落として口を開いた。


「そうよ。妹の身に危険が迫っていたことには気がついたから。魔女に頼んで、あなたに妹を助けてもらうように誘導したの」


ユリウスは「やっぱり」と納得するように頷いていたが、ラナは姉の言葉に青ざめて口を抑えた。

魔女に願いを叶えてもらうには必ず対価がいる。

つまり姉は、またラナを助けるために何か代わりの大切なものを差し出したのだ。


「そんな、また私のせいで.......」


ラナの表情に姉は安心させるように笑みを浮かべた。


「大丈夫よ。願いを叶えてもらうために差し出したのはあの時、私たちがあなたを助けるために渡したナイフだから」


ラナは目を瞬かせる。

姉たちが髪と引き換えに、人魚姫を助けるために渡してくれたナイフ。

結局、王子を刺すことが出来なかったあの時のナイフは海に放り投げたのだ。

そして落ちたナイフは海を真っ赤に染め上げた。

だからナイフはそのまま無くなったのだと思っていた。

でも、そのナイフだけが代わりとなったなら良かった。

ラナはホッとため息をこぼした。

姉はラナに向けて微笑みをうかべた。


「もう私たち人魚は、人間とは関わらない。そういう種族だから。....だからこれで最後」


姉の寂しげな笑みに、ラナは昔のような調子で、どうして?と声が出そうになった。

でも少し考えればわかった。今のラナは人間だ。

人魚と人間が交わることは無い。

ラナが泣きそうな表情を浮かべれば姉も同じように泣きそうな笑みを浮かべた。


「でも、あなたの事はどんな姿だってどんなに遠くにいたって、ずっと、思い続けてるわ」


そう言ってラナの頬に手を伸ばす。

ラナはその上に手を重ねて縋るように頬を寄せ、そして互いに額をくっつける。


「私も、家族を忘れたことなんてなかった。ずっとずっと、離れていたって、遠くから、思っているわ、お姉さま」


「えぇ」と言って姉は微笑み浮かべた。


「さようなら、ラナ。愛してる」


そう言葉を残して姉はラナの頬から手を離し、名残惜しそうに最後は互いに視線を交わして、姉は海の中へと潜っていった。


「大丈夫かい?」


ユリウスはラナの背を支えるように手を添えた。

ラナは俯いて無言で頷く。


「.......大丈夫よ。だって、悲しむことは無いんだもの。遠く離れていたって、私たちは海を通して繋がっているから」


ユリウスはラナの肩を抱き寄せた。

ラナはそのままユリウスの胸に頭を寄せる。

悲しむことなんてない。だって、会えないと思っていた家族にもう一度会えたんだから。

でも、それでも.......。

ラナは静かに涙を流す。

ユリウスは隣でずっと寄り添っていてくれた。




______時間は進み続け月日は経ち、季節は移り変わる。


あの後、事件は無事に収束して悪党達は全員拘束された。

そして事情聴取の末、悪党達に依頼した人物というのが隣国の王女が裏で糸を引いていたということがわかった。

どうやらユリウスとの結婚を望んでいた王女はユリウスから縁談を断られ、どこから情報を得たのかユリウスの想い人がとある町で暮らすラナという女だと突き止めたそうだ。そして、王女は盗賊団にラナを誘拐するように依頼したのだ。

まさか、そんな国同士の諍いに巻き込まれているとは思わずラナは心底驚いた。

その話を聞いたユリウスは、


「まぁ元々、根っこから腐敗しきってるような国だと思ってたけど、姫が盗賊団との繋がりを持っている時点で碌なもんじゃないね。粗を探せばきっとボロボロ出てくるよ。この際だし、徹底的に叩き潰そうか。

ラナに手を出した落とし前は、きっちりつけさせてもらわないといけないしね」


と、不穏な笑みを浮かべていた。

その後、その国がどうなったかは詳しくは知らないがあのユリウスの様子ではただでは済まされなかったとは思う。

そして、ユリウスがまたラナに何かあっては危ないからと押し問答の末、ラナがユリウスの王宮で暮らすことになったのはまた別のお話。



今日は、街中に花が飾られ人で賑わっていた。

色んな国から観光客が訪れ人々はお祝いムードに花を咲かせる。

今日は国王が花嫁を迎える結婚式の日だった。

けれども国民が賑わうのは、何年も空席だった王妃が迎えられたというだけではなかった。

街にはとある、ロマンスの話が広がっていた。

ユリウス国王が幼い時、海に流されて遭難していたところを心優しい町娘を助けたという話。

2人は互いに恋に落ちたが、身分違いに悩み苦しみ、結局思いあったまま別れるという選択を選んでしまった。

けれど国王は彼女の事を忘れることが出来ず、彼女に会いに行こうとした時、二人の仲を快く思わない者によって彼女は連れ去られてしまう。

それでも国王は諦めずに、彼女を助けるため剣を振るい、海に落ちてしまった彼女を助けるため一緒に飛び込んだ。けれどそのまま荒波に引きずり込まれて2人は意識を失ってしまう。そんな2人の愛に海の神は微笑みをうかべ、2人を助けるために岸まで運んだのだと。

話はそのまま色んな所に尾ひれが着いて、今や国中ではもっぱら話題になっていた。

そのため、その話題の2人がとうとう結婚するとあって街は賑わいを見せているのだ。



コンコンと扉がノックされる。

ラナは「はい」と返事を返した。


「ラナ、入るよ。どう?準備は終わっ.......」


ラナは声のした、開いた扉を見つめる。そこには真っ白い正装に身を包んだ新郎の姿があった。

ラナは笑みを浮かべる。


「あぁ、ユリウス。えぇ、もう行けるわ」


そう伝えたが、ユリウスからは返答は無い。

というか彼は固まったまま動かない。

ラナは瞬きを繰り返して小首を傾げた。


「ユリウス?」


そう問いかけると彼は急にその場にしゃがみこんで顔を両手で覆った。


「あぁ、もうこのまま連れ去ってしまいたい」


ラナが呆然としすれば、「本当、王様になっても相変わらずね」とラナの隣にいたリュカが呆れたように言葉をこぼした。


「こんなに可愛いなんて、俺は今日死ぬんだ」


ユリウスの言葉にラナはしばらく呆然とすればクスッと笑みを浮かべる。


「あら、ダメよ。私たち、これからも二人一緒に過ごして、あなたの事もっともっと幸せにするんだから、今死なれたら困るわ」


ラナが微笑みを浮かべればユリウスは「そうだね」と笑って立ち上がった。

そしてユリウスはラナに歩み寄り、そっとラナの手をすくい上げる。


「ラナ、君が僕助けてくれたあの日、君と出会えて本当に良かった。必ず君を幸せにする。だからこの先もずっと、そばに居てくれ」


「えぇ、ずっと、何十年経とうが何百年経とうがあなたの隣に居続けるわ」


2人で笑い合う。

近くにいたリュカは涙ぐんでいた。


「さぁ、行こう」


ラナとユリウスは歩き出す。

前世の人魚姫があの時、着ることの出来なかったウェディングドレスを今、自分が着ているなんてきっと前世の彼女に言っても信じて貰えないと思う。

でも、確かにユリウスの隣に自分は寄り添い、今日夫婦となる。

幸せだった。この先ずっと、2人で一緒の時間を過ごせるのだから。

何よりも、ユリウスはラナを愛していてくれているのだから。

1度前世で失ってしまった大切な心。でも、ラナとして生まれてユリウスと出会い、新しい心を育んだ。

今胸にある思いは、ラナが自分で手にしたもので沢山の人が与えてくれたもの。

そのたくさんの思いに胸が満たされていく。

あぁ、幸せだ。

神父の前で互いに愛を誓い合った。

ラナはそっと目の前の彼を見上げた。ベールを被る向こうには彼の顔がある。

彼は優しく微笑んでくれた。

彼の手が、ベールにかかる。

その左手の薬指には、ラナと同じ銀色の指輪が輝いていた。

ベールが外されば彼の顔がよく見えた。

彼はラナの両肩にそっと手を置いた。彼の顔が近づいてくればラナはそっと瞳を閉じる。

触れ合う直前に彼が「愛してるよ、ラナ」と言って、優しくラナに口付けた。

ラナは一雫の涙が零れた。



あっという間に夕方になり、ラナとユリウスは華やかに飾られたハネムーンに向かう船に乗り込んだ。

船の先頭に2人寄り添い肩を寄せ合う。


「実は君に1つ、渡さなければならない物があるんだ」


そう言うと彼は一粒の真珠が飾られたネックレスを渡した。

それを彼から受け取れば、何故だか色々な感情が押し寄せてきた。


「これって.......」


ラナが困ったようにユリウスを見上げれば、彼は口を開いて答えてくれる。


「そのネックレスは代々王家に伝わるものなんだが、ある名前があって、実は“人魚の涙”と言われているんだ」


ラナはユリウスの話に目を見開いてそのネックレスに視線を落とした。

もしかして、前世の、人魚姫の涙なのだろうか。

でも、そうだと不思議と確信はしていた。触れれば分かる。

私が失くしてしまった心だと。


「ラナに人魚姫だった頃の話を聞いて、もしかしたらそうなんじゃないかと思ったんだ。だから、国に帰ってきたのは王族としての役割を果たす意味もあったけど、もうひとつ、このネックレスをラナに返すためでもあったんだ」


ラナはユリウスの話を聞いてもう一度真珠を見つめる。

人魚は涙を流さない。海で暮らしていては涙は意味を為さないから。

だからこの涙はおそらく、泡となって消えてしまってから、風の精として生まれ変わった時に流したものだ。

でも、それがどうして人魚の涙として名前を残しているのだろう。

それに、はラナが人魚だと言うことは知らなかったはずだ。

一体なぜ.......?

しばらくラナは呆然として考えていたが、ラナは手に持っているそのネックレスをグッと握りしめた。そして、それを海へと放り投げた。

真珠のネックレスが落ちた海は、夕焼け色を鮮やかに写していた。

隣でユリウスが息を飲んでいる気配がした。


「.......良かったのかい?捨ててしまって」


「いいの、あれは人魚姫の心だから。もう私の心ではないの」


もうあの心は私には必要ない。

辛かったあの頃の思いは、今は幸せへと変わった。

だって.......、

ラナはユリウスを見上げる。

彼は優しく微笑んでくれた。

彼が隣にいてくれるなら辛いことなんて何一つないのだから。

そのまま見つめれば彼がそっと顔を寄せる。

ラナはそれを目を閉じて受け入れた。



〜エピローグ〜


「お母さま!またあのお話聞かせて?」


小さな女の子が目を輝かせてこちらを見上げる。

その顔に笑みを浮かべて彼女は口を開いた。


「じゃあ、聞かせてあげるわね。人魚姫とその後の、幸せになった彼女のお話を」

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前世人魚姫でした 汐留 縁 @hanakokun

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