第2話 中編


あの日以来、ユリウスは宣言通りというか今までよりもグイグイくるようになった。

それだけじゃなくて、ユリウスは周りの人との接し方も変えた。

今までは誰にでも優しくて当たり障りなく接していたけれど、最近は周りに女の子が寄ってきてもはっきりと断るようになった。

だから、ユリウスが冷たくなったと町の女の子達はあまり近寄らなくなり、その分、ラナがユリウスと接する時間が増えたのだった。


「今日は何する?」


「特に何も用事は無いわよ」


今日は2人で町に出かけていた。

ユリウスに誘われて来たものの、得に買うものは無いラナは素直に答える。

ユリウスは強ばった笑みを浮かべる。


「えっと、じゃあ、例えば欲しい服とか見てみたいアクセサリーとか」


「別にないわ。そんなお金ないし」


「……」


ユリウスは笑顔のまま固まってしまった。

そんなユリウスにラナは眉をひそめてため息をつく。


「いつも私の用事に付き合わせてるから、今日はユリウスの用事に付き合わせて」


ユリウスは目を瞬かせて、優しい笑みを浮かべた。


「じゃあ、行きたいところがあるから付き合ってくれる?」


そう言って彼はラナに向かって手を差し伸べた。

ラナはその手を見つめて、少し照れるように手を差し出した。



「いらっしゃいませ。あら、ユリウスじゃない」


ユリウスに連れられて店に入れば、女性の店主がそう口を開く。

ラナはその女性に見覚えがあった。

あれ、この人って。

長い黒髪と綺麗な声には覚えがあった。

以前ユリウスの家の前で、出会った女性だ。

ラナは気まずくなってユリウスの背に隠れる。


「やぁ、リュカ。その後の調子はどうだい?」


「ぼちぼちかしら?そっちこそ例の彼女とは……あら?あなた…」


リュカと呼ばれた女性はそう言って目を見張るようにしてこちらを見つめていた。

ラナは困って目をそらす。

そんなラナの様子にはお構い無しに、リュカはラナに近寄ってくる。


「あなた、ラナさんね!良かった2人とも仲直りしたのね!」


前のめりに来た女性の反応にラナは戸惑う。

けれども、想像していたよりも嬉しそうな笑みを浮かべる彼女に悪意や皮肉といった感情は感じなくて、何だか拍子抜けしてしまった。

それに、2人の話している様子からも恋人らしい雰囲気は感じられない。


「私のせいで2人の仲がこじれたらどうしようって責任感じてたのよ。あの後ユリウスったら大変で……」


「その話はいいから!」


ユリウスはリュカの話を遮るように手を振ってラナの前に進み出た。

ラナは不思議そうに首を傾げる。


「ともかく紹介するよ。ラナ、彼女の名前はリュカ。この店の店主で、彼女は僕の友人だ」


「はじめまして、ラナさん」


リュカは人好きのする笑みを浮かべてラナに片手を差し出して握手を求める。

ラナも同じように手を差し出した。


「あ、はじめまして、えっと…ラナ、です」


「えぇ、もうラナさんの名前は十分過ぎるくらい知ってるわよ」


クスクスと可笑しげに笑うリュカの表情にラナは瞬きを繰り返した。

そして直ぐにその元凶を理解して、ラナはユリウスを鋭く睨みつける。

ユリウスは素知らぬ顔だ。


「まぁとにかく彼女は友人だから。わかった?ラナ」


「えぇ」


ラナの簡素な返事にユリウスは本当に分かっているのかと眉を顰めた。そしてため息をこぼす。


「じゃあリュカ、後はおまかせするよ」


「久し振りで腕が鳴るわね」


2人の会話にラナは意味がわからなくて、戸惑うように半歩後ろに下がる。


「えっと、何の話?」


2人がこちらに目を向ける。

そしてリュカは可愛らしく微笑んだ。


「これからラナさんに特別な魔法を使うのよ」



簡単に言えばラナは着せ替え人形にさせられていた。

リュカの言われるままに着替えていく。


「ラナさんはスタイルが良いし大人っぽいから落ち着いた色の方が映えそうね」


そう言ってリュカは1着の服をラナに手渡した。

それに着替え終えれば今度は化粧と髪を結んでいく。


「彼、一途よ」


椅子に座っているラナの背後で髪を結いながらリュカが唐突に口にした。

「え?」とラナは声を上げる。


「ずっとラナさんのこと大切に思っていたんだから」


そう言うとリュカは一度、手元を休めた。


「私ね、ユリウスには幸せになって欲しいの」


ラナがリュカの方を振り返った時に、リュカの手元が視界に映る。


「その指輪……」


リュカの薬指にはプラチナの指輪が嵌められていた。


「ふふ、私婚約してるのよ」


そう言ってリュカは微笑み、指輪が嵌められた右手の甲をラナに見せる。


「相手は子供の時から一緒にいた幼なじみなんだけど、ずっと傍にいたから素直に気持ちを伝えられなくてね、そこをユリウスに助けて貰ったの」


リュカはそう言って目を伏せる。


「彼には恩があるから、絶対に幸せになって欲しい。別に無理強いする訳じゃないけど、力になれる事は出来る限りするつもりよ」


ラナはリュカの言葉に目を伏せた。

私は、どうしたいんだろう。

前世のこともあって踏み出しにくいのが正直なところ。でも、それを差し引けば何も拒絶するものなんてなかった。

きっと、ラナに必要なのは1歩、踏み出す勇気。


「よし、出来たわ」


リュカの言葉にラナは伏せていた顔を上げる。

鏡を見れば、そこにはラナの姿なんてなかった。

もちろん鏡に映っている彼女はラナと同じ動きをするけれど、それが自分だとは思えなかった。

ラナは椅子から立ち上がって鏡の前に立つ。

レースがあしらわれた青いワンピース。

緩く巻かれた長い髪は左側に流すように結ばれている。

化粧も施されていて、顔は別人のようだった。


「どう?魔法みたいでしょ。まぁ、本当の魔法なんて見たことないけどね」


そう言ってリュカはまた、可笑しそうに笑う。

ラナは呆然としながら指先で鏡の自分を撫でた。


「……私は見たことあるけど、リュカさんの魔法の方が、ずっと素敵だよ」


リュカはその言葉を冗談だと思って笑っていた。

けれどラナは前世で、人魚から人間へと変わる魔法を自分自身にかけてもらったがある。

でも、その時使った魔法よりもずっと、リュカの使った魔法の方がラナの心をときめかせた。だって、まるで羽が生えたように体が軽くなったように感じたのだから。

それに、人魚姫の頃は髪を結うなんてことしたことしたこと無かった。

だから、あの頃とは違う自分になれた気がして嬉しかった。


「ありがとう、リュカさん」


ラナの笑みにリュカも優しい笑みを返す。


「リュカでいいわよ。みんなそう呼ぶし」


ラナはリュカの言葉に目を瞬かせて照れるように下を向く。


「じゃ、じゃあ私の事はラナって呼んでちょうだい…リュカ」


リュカはふふっと可笑しそうに笑ってから。


「よろしくね、ラナ。さぁ、これが最後の魔法」


彼女はラナに、とっておきの魔法を振り撒いた。




「おまたせ!さぁ、主役の登場よ」


リュカのあからさまな演出にラナは足踏みしてしまう。

そんなラナを「ほらほら」とリュカは扉の外へ押し出した。リュカは得意げに「どう?」とユリウスの反応を待つ。

けれどもユリウスは無言で、ラナはだんだん不安になる。

自分では思いのほか良いとは思ったけれど、所詮普段の自分と比べての話だ。ユリウスの周りに集まる綺麗な女の子と比べれば、きっと見劣りする。

徐々にラナの自信が萎んでいけば、突然ユリウスは両手で顔を覆ってその場にしゃがみこんだ。

驚いて彼の方に目を向ける。


「……ダメだ、可愛すぎる。俺、明日死ぬのかな?」


ポカーンとしてラナは見つめて、リュカは呆れたように見下ろした。


「はいはい、わかったからシャンとしてよね。本番はこれからなんだから」



ラナを飾り付けてくれた諸々の商品の代金は、前回迷惑をかけてしまったからとリュカの好意で安くしてもらった。

初めから、ラナは自分でお金を払うつもりだったのだが、ユリウスとリュカの勢いに負けて渋々彼に払ってもらうこととなった。

そして、ラナはその格好のままユリウスと並んで町へと繰り出した。

ラナの方がユリウスよりも長く町で暮らしているが、遊ぶことを目的に町を歩いたことがなかったため、ユリウスの案内するところはラナにとっては目新しくて楽しかった。


ラナはベンチに座りながら目の前の公園の噴水を見つめる。

しばらく1人で腰掛けていれば、ユリウスが戻ってきて買ってきたアイスクリームを手渡した。

ラナはユリウスから受けとったものをしげしげと眺めた。


「あ!お金……」


「いいよ、別に」


焦って財布を取り出そうとしたラナを、ユリウスは半笑いで言葉を返す。

そしてそのまま拙くアイスクリームを食べるラナを不思議そうに見つめた。


「今までこういうところ、来たことないの?」


アリスクリームのこともそうだろうけれど、今日町を歩き回った時のラナの新鮮な反応に対しても言っているのだろう。


「ないわね」


「ラナはずっとおじいさまと2人暮らしなんだっけ?」


「そうよ」


ユリウスは少し考え込んだ後戸惑いながら口を開く。


「……あんまりこういう話は聞かない方がいいかと思ったけど、ラナのご両親って……」


「居ないと言うよりも、知らないのよね。私捨て子なのよ」


ラナはなんてことの無いように答えた。

ラナの言葉にユリウスは無言だった。


「森の中に捨てられていたのをおじいちゃんが拾ってくれたから」


ラナは赤ん坊の時に森に捨てられた。

そこを今も一緒に暮らしているおじいちゃんがラナを拾って育ててくれたのだ。

だからラナは産んでくれた親に対する情は、全くと言っていいほど無い。

生みの親に、愛情というものを注いでもらった記憶もなければ、そもそも親の顔さえ覚えていないのだから当然と言えば当然だ。

むしろ前世の、人魚姫だった頃の家族の方がラナとしては思い入れがあった。人として生まれ変わった今でも、彼らがラナの心の拠り所となっている。

けれども、前世のラナはそんな家族の思いを押し切って、自分の幸せの為だけに行動してしまった。

だから、きっと今も彼らを思っているのはラナだけで、皆、ラナの事なんて忘れているだろうと思う。覚えていたとしても、恩知らずで憐れな人魚姫だと思っているかもしれない。

それならそれでもいい。彼らは前世の人魚姫に確かに愛情を注いでくれたから。

それに、ラナとして産まれてからも拾ってくれたおじいちゃんが血が繋がってもいないのに懸命に育ててくれた。

だから、寂しくなかった。

ラナとしての人生も幸せだと思えるくらいに。


「そっか。ごめん、辛いこと聞いたりして」


「別に辛くなんてないわ。私は幸せよ」


.......だって、あなたが隣にいてくれるから

ラナは言葉に出さず、心の中で呟いた。

きっと、素直にそう言えれば可愛げがあるんだろうなと思った。

でも私は意地っ張りで可愛く無いから。

アイスクリームを食べ終えればユリウスが歩き出す。その後ろを着いていくためにラナは立ち上がった。

風がふきぬける。ラナのところへレモンタイムの香りが運ばれた。

それはリュカがかけてくれたとっておきの魔法だった。

あと一歩踏み出す勇気。

ラナは前を歩くユリウスの手を咄嗟に握りしめていた。

彼は驚いてこちらを見下ろしていたが、ラナは彼の顔を見ることが出来ずに俯く。

好きよ、誰よりも。

けれども、ラナの口からその言葉を発することはなかった。

これが、ラナにできた精一杯。

彼は何も言わなかった。

ただ黙ってラナの握った手を握り返してくれるだけ。

でも、その何気ない彼の行動がラナは嬉しかった。

何も話さず2人手を繋いで寄り添うように歩く。

きっと、ラナが迷う必要はもうない。

だって2人を隔てるものは何も無いんだから。

あるとすれば、運命だけ。


「ねぇ、ユリウス、私ユリウスのこと……」


けれども、ラナの言葉は続かなかった。

その後に続く言葉を遮ったのはユリウスでもなかった。

遮ったのは、運命。


「……もしや、ユリウス坊ちゃんでありますか!?」


背後でご老人らしき声がする。

2人してそちらを振り返った。

町の住民と言うよりも旅行客のような装いの老人に、ユリウスは「ええっと……」と初めは戸惑った表情を浮かべていたが、次第に驚きの表情を浮かべる。


「あれ?もしかして爺や?」


「おぉ、おお!良くぞご無事で……!」



_________知ってる。運命は、私に味方しない。



傍で会話を聞いていれば、ラナだからこそ2人の関係性はわかった。

恐らく、ユリウスが王子だった頃に仕えていた人。

私の知らないユリウスを知っている人だ。


「実はユリウス様にお伝えしなければならないことがあるのです」


危機迫った様子の老人に「えぇっと……」とユリウスは困った表情を浮かべる。

そしてチラッとこちらに一瞬視線をやる。

あぁ、きっと私に聞かれたくない話なのだ。

ラナは「ユリウス」と声をかけて、先に帰ると伝えようとした。

けれどラナが口を開こうとした時、老人が「坊ちゃん、そちらの方は?」と先に聞いてきた。

ユリウスは「ええっと……」とまた戸惑ったような声を上げる。

きっとユリウスは答えに困ったことだろう。

正式に付き合っているわけでも無いが、城にいた頃の側近に、ただの町娘を親しい人だとは紹介しずらかったはずだ。

ラナが一歩踏み出して愛想良く笑顔を浮かべた。


「はじめまして、友人のラナと申します」


「おぉ、これは坊っちゃまの友人でありましたか。お初にお目にかかりまして、わたくしユリウス様の世話係をしておりました、ルドルフと申します」


老人は被っていたハットを手に取り洗練されたお辞儀をする。

その間、ユリウスは何だか気まずい表情を浮かべていた。


「……それにしてもご友人でしたか。それは、安心致しました」


老人はホッとため息をついてから呟くように言葉を添える。

どちらの意味だろう。ユリウスに親しい友人がいた事に安心したのか、それともラナがユリウスの恋人ではなかったことに安心したのか。

でも、自信のないラナは後者だと思った。

思わず寂しげに微笑んでしまう。


「いや!ちがっ、彼女は……」


咄嗟にユリウスは何か叫ぼうとしたが、結局その後は続かずに髪をクシャりとさせた。


「やっぱ、ごめん。今は……」


何に対してのごめんなんだろう。

ラナは気まずい思いのまま目をそらす。


「……今日は、もう帰りましょうか。積もる話もあるでしょうに」


ラナの言葉にユリウスは異議は唱えなかった。

ただ、ユリウスはラナとの別れ際に、家までおくると気を使ってくれた。

けれど、それにラナは大丈夫だと言って断った。

そして、普通に挨拶をしてそのまま解散する。

ユリウスはまだ何か言いたげな様子だったが、ラナは気づかない振りをした。

しかし、お互い別れてしばらく歩いた時に一瞬、ラナは振り返った。

ほんの少し、もしかしたらとは心の端で思ったかもしれない。

けれど、期待してもユリウスがこちらを振り返ることは無かった。

その後ろ姿を見て、ラナは手が届かなくなるような寂しさを感じた。




数日後のある夜。また、涼しい風を感じた。

肌を撫でるその風にラナはゆっくり瞼を開ける。

窓から漏れ出る月明かりの中、視線をさ迷わせると柔らかな風に煽られるカーテンがゆらゆらと揺れていた。

そして軋むベッドの傍らに、腰掛ける彼の姿を見つける。藍色の髪がサラサラと月明かりの光とともに風に揺れた。久しぶりに見る、月影で縁取られた彼の横顔。


「……ユリウス?」


寝惚け眼のまま、ラナはその髪に触れようと手を伸ばした。

彼はその伸ばした手を優しく包み込む。


「ラナ」


優しいけれど寂しげな声。

ゆっくり瞬きを繰り返してラナは起き上がった。

そして泣きそうにも見えるその表情に、ラナは片手を伸ばしてそっと触れる。


「どうしたの?ユリウス」


彼は痛むような表情を浮かべて俯いた。


「ラナ、俺………一度、国に戻ろうと思うんだ」


「何かあったの?」


ユリウスは黙って頷く。


「父上が亡くなられたんだ」


ラナは目を見開いてユリウスを見つめる。

彼の表情は変わることなく真っ直ぐ前を見据えたまま淡々と話す。


「兄が次期後継として継ぐことになるが、その兄も病に伏せっていて症状が芳しくないそうだ。このままいけば、遠縁の、知らない誰かが王位を継承することになる」


ユリウスは俯きながら組み合わせた両手を握りしめる。


「別にもう、王位なんかに興味はなかった。もう二度と、帰るつもりはなかったんだ。でも……」


ラナは黙ってユリウスの言葉の続きを待つ。

ユリウスは口を開いた。


「俺は国に帰って、俺の役割を果たす。だから、……ごめんラナ」


わかっていた。彼が何を言いにここへ来たのか。

仕方がないことだった。誰も悪くない。

ラナは表情が見られないように、隠すように俯く。

良かった。彼に本当の思いを伝えなくて。

まだ、私は大丈夫。

ラナは言葉を発するために口を開く。言葉でなら、いくらでも演技ができる。

けれどラナが口を開く前にユリウスが先に言葉を発した。


「待っていて欲しい。必ず迎えに来るから」


ラナは驚きで顔を上げた。

きっと泣きそうな顔をしている。でも、そんなこと気にしている余裕はなかった。


「本当?」


ラナの口から出てきたのは、ユリウスに縋るような言葉だった。

彼は微笑みをうかべて頷く。

ラナはもう、堪えられなかった。瞳から零れるように涙が溢れる。

彼はそんなラナの頬を優しく撫でてくれた。


「……ユリウス、私、私……」


上手く言葉を話せないラナに、ユリウスは安心させるように額にそっと口付けをした。

そしてそのままラナを抱きしめる。

耳元で彼が囁く。


「その続きはまた、次会う時に聞かせて」


ラナはユリウスの肩に顔を埋めて黙って頷いた。

本当にまた会えるかは分からない。でも、信じたかった。ユリウスを信じていたかった。





________手に持った、赤いカーネーションを海へと手放す。

波風に煽られて花は、遥か彼方へと飛ばされて海に浮かんだ。

あれから3年の月日が流れ、間も無く4年目になろうとしている。

あの日、彼とお別れして以来、ラナの元にユリウスからの連絡は何も無い。

それでも、ラナは信じて待っていた。

当時、ある国の行方不明の王子が見つかったという話は世界中でも話題となった。

その話は風の噂となってラナの元にも辿り着き、その内容にはラナも驚愕した。

なぜなら、ユリウスはこんな町とは比べ物にならないくらい大国の王族だったのだから。

それを知って、本当に彼は手の届かないところへ行ってしまったのだと実感した。けれど、それでも、あの時交わした口約束を頼りにラナはずっと信じていた。

そして彼は等々、王位を継承したのだ。そして、その話の中では彼の兄が亡くなったと言う話も聞いた。

きっと、彼は辛い思いをした事だろう。1人で苦しんでいないだろうか。

遠い異国の地に思いを馳せるようにラナは海を見つめる。

ラナの言葉は、もはや彼には届かない。




「ごめんねラナ。うるさくって」


リュカは1人赤ん坊を抱いて、その周りには小さい男の子と女の子が走り回っていた。


「ううん、大丈夫。今日もお邪魔しちゃってごめんなさいね」


今日はリュカの家に来ていた。

ユリウスが居なくなってからも、リュカとの付き合いは続いていた。

寧ろ、今ではよく遊ぶくらい仲が良い。

ただ、リュカは例の婚約者と愛でたく結婚して、今では3人も子供を抱えている。今抱き上げている赤ん坊は先日生まれたばっかりの愛らしい女の子だ。

そのため子育てに忙しいリュカは、ラナの為だけに時間を割くことは難しかった。

それでもラナは、短い時間でもここにいる方がずっと楽だった。


「みんなと一緒の方が、気が紛れるもの」


ラナの囁きにリュカは悲しげな表情を浮かべる。


「もう、おじい様が亡くなられて半年経つのね」


周りの人達が変わっていくように、ラナの環境も大きく変化した。

ラナが赤ん坊の頃からずっと今の歳になるまで育ててくれた、ラナにとっての唯一の家族でもあるおじいちゃんが半月ほど前に亡くなったのだ。

元々高齢で、少しずつ体力も衰えていき最後は寝たきりとなってそのまま帰らぬ人となってしまった。

ラナは前世も合わせて、身近な人の死に直面したのはこれが初めてだった。そしてその初めてが身内の死だった。

あの日、不思議と涙は出なかった。

ポッカリと胸に穴が空いたような感覚に、ただ呆然とした。まるで、感情だけが置き去りにされてしまったようで。

それでも、月日は無情に過ぎ去っていく。

私だけが、前に進めていなかった。


「ねぇ、ラナ。私、ラナはもう幸せになってもいいと思うの」


リュカは抱いている赤ん坊をベッドに寝かせながら口を開く。


「昔、ユリウスには幸せになって欲しいって言ったけれど、彼、いつまで経っても帰ってくる気配がないし、もう十分ラナは待ったわ」


そう言って椅子に腰掛けるラナのそばにしゃがみこみ、両手を優しく包み込んだ。


「私はラナにも幸せになって欲しい。このままなんて、あんまりだわ」


ラナの元にはもうひとつ、ある噂が風の便りとなって耳に届いていた。

それは、ユリウスと隣国の姫君の結婚。

真実は定かでは無いが、火のないところに煙はたたないだろう。

ラナの元に、ユリウスが何も連絡を入れないこともあって、ラナはもう諦めかけていた。

信じ続けて、信じ続けて、ラナは疲れていた。

もう、楽になりたかった。


「ジャンはいい人だと思うわ。彼、誠実で働き者だし、彼となら幸せに暮らしていけるわ」


ジャンは町のパン屋で働いている青年だった。

ここ数年で知り合った人で、よそ者のラナにも誠実に対応してくれる優しい人だ。

そんな彼につい先日、ラナは告白された。

もちろん断ったが、急いで答えを出さなくてもいいからもう少し考えて欲しいと言われたのだ。

そのため返事は保留という形になっている。

ラナは俯きながら口を開く。


「私、おじいちゃんにね、最後寝たきりになった時、お前を1人残していくことが心残りだって言われたの。確かに1人になって、頼れる人がいなくなって……もう、辛いの……」


待つことがこんなに大変だとは思わなかった。

いつ終わるとも知れないこの状況に、儚い期待を胸に抱いて待ち続けることが、だんだんしんどくなっていった。

楽になりたくても前に進めなくて、変わらず待ち続けても周りの時間はラナを置きざりにして進んでいって、ラナは身動きが取れなくなってしまっていた。


「ラナ……」


リュカはラナを抱きしめた。


「ラナ、私はあなたがどんな選択をしたって応援するから」


「……ありがとう、リュカ」


ラナはそう返事を返し、自分の手を握りしめた。




「ジャン、少しいいかしら」


商店街にあるパン屋の前で、制服着を着た青年に声をかける。

彼は仕事の手を止めて振り返った。


「や、やぁラナ!……えぇと、、ちょ、っと待っててね!!直ぐに今の作業終えるから!」


彼は人が良さそうな笑顔を浮かべて、急いで仕事に取り掛かる。

ラナがそのまま店先で待っていれば、一段落ついたのか店から出てきた彼は「おまたせ」と言い、ラナが「話があるの」と2人で裏口の方へと向かった。


「ごめんなさい。仕事中なのに」


「あぁ、大丈夫!親方が休憩時間やるからゆっくり過ごせって」


彼は手を振りながら焦るようにそう言った。

ラナは話の切り出しに迷って曖昧に口を開く。


「えっと、その……この前のね、返事をしに来たの」


彼が緊張したように体を強ばらせた。

ラナも落ち着かない気持ちで手を組み合わせる。


「……それで、返事は?」


ジャンに促されてラナは口を開こうとしたが、もう一度唇を強く引き結んだ。

そして緊張した唇を解くようにして口を開く。


「.......ごめんなさい」


たった一言、ラナは言葉を発した。

ラナも色々考えたし想像もした。ジャンと2人の生活を。幸せだと思った。これ以上ないくらいに。

でも、心の端に彼の存在を感じてしまった。

待っていると、必ず迎えに行くと言ってくれた彼を。

私は辛くたってユリウスとの未来を信じたい。


「そっか……」


ジャンは一言零す。

そして困ったような笑みを浮かべる。


「へへ、ちょっと期待してたんだ。もしかしたらいい返事があるかもなんて……」


ジャンのその顔にラナは暗い表情を浮かべてしまう。


「ごめんなさい、期待させてしまうようなことして」


「いやいや、そんな、俺が考えてくれって言ったんだし」


ジャンは両手を振って否定する。

ラナはまだ暗い表情だったが、それでも最後にこれだけはと彼の目を見つめて口を開いた。


「ジャン、こんな私に告白してくれて嬉しかった。きっと、ジャンなら私なんかよりもっと、素敵な人に出会えるから」


ラナの言葉にジャンは俯いた。そしてパン屋の帽子を目深に被り「へへ」と小さく笑った。


「まだ、俺は出会える気がしねぇや。ラナも、会いたい奴がいるんだろ?」


ラナは目を瞬かせる。

そんなラナに、ジャンは弾けるような笑顔を向けた


「だから、ラナ。幸せになってくれよ」


ジャンの言葉にラナは泣きそうな表情で俯き、小さく頷いた。




自分の家へと帰り着く。家の空間を窓から差し込む夕暮れの日差しが朱色に染める。

誰の気配もしない部屋は、とても冷たく感じられた。

それでも、ラナはこの家での生活を続けた。

ここはラナの思い出の詰まっている場所だから。

そして、いつか彼が帰って来ても困らないように。

でも、閑散としたこの家に1人で居続けるのは辛く、途端に込み上げてくる感情を、いつも必死に抑え込む日々を過ごしていた。


自分の部屋に戻れば、ラナはベッドに突っ伏すように床に座り込んだ。

そして、グッと何かを堪えるようにそのまま腕に顔を押し付ける。

今の自分はどこにへでも歩ける足があって、自分の思いを伝えられる声があって、なのに、どうしてこんなに息苦しいのだろう。

声に出して自由に話せるのに、どの言葉も宙に浮かんだだけで思いは届かない。

海で呼吸が出来たのは前世の話だが、海の中の方がずっと楽に息をしていたように思えた。

でも、もうラナは人魚では無く人間だ。

海の中で生きていくことはできないし、そんな選択をしてはいけないことは前世の経験からよくわかっている。

だから、今の自分と向き合っていくしかないのだ。

でも、それでも、一欠片でも良いから、希望を抱ける何かが欲しかった。


変わらずベッドに伏せたままだったラナの頬を、優しい風が撫でた。

しばらく涼しい風を肌で感じていれば、途端にハッとしたように窓の方を見た。

もしかしてと思った。だっていつも窓は、閉め切った状態にしていたはずだから。

風に揺れる藍色のサラサラの髪。真珠のように澄んだ黒い瞳を細めて笑う、彼の優しい表情が好きだった。

穏やかな声も、イタズラっぽい微笑みも、たまに見せる寂しげな笑顔も全部全部好きだった。

けれど、ラナが見つめた先には誰もいなかった。

風は僅かに開いた窓の隙間から吹いていた。

恐らく自分では閉めたつもりだったが、実際は戸締りが甘くて開けっ放しになっていたのだろう。

ラナは疲れたようにため息を零した。

でも、薄々わかり始めてはいた。

ただ待っているだけでは、彼は来てくれないということを。

だから、ラナは決断することにした。



深夜にラナは少し大きめの、斜めがけのカバンを背負った。

そして改めて自分の家の中を見渡す。

決意を固めたラナは、荷物を準備する上で色々と家の中を漁ったのだが、思いのほか持っていく物は少なかった。

それでも、整理した部屋の中は閑散として寂しいものになったと思う。

最後に、リビングに置かれている古びたテーブルをそっと撫でた。


「いってきます」


ラナの言葉に返事は無い。

けれど記憶の奥、陽だまりの中にいるおじいちゃんが「いってらっしゃい」と言っていた。

立て付けの悪い扉を開けて家を出れば鍵をかける。

ラナは、使い込まれ色褪せている外套のフードを被り道なりに歩き出した。

ラナはこれから、ユリウスのいる国へと向かうつもりだった。

そのためには海を渡るために船に乗る必要がある。

船は朝、港から出航する。それに間に合わせるためにも急ぎ足で向かった。

この船を逃せば、次に船が出航するのは半月後。

でも、それを抜きにしてもラナは絶対にこの船に乗るつもりだった。ここで逃してしまえば、自分で決めた決意が揺らいでしまうような気がしたから。

慣れた道を歩き続ければ、次第に港に停泊している船の姿が見えてきた。

ラナは間に合ったとホッと息を零す。

そして急いでいた歩を少し緩めた時、突然目の前に人影が立ちはだかった。

ラナは驚いて立ち止まる。

視線をあげれば、見るからにガラの悪そうな三人の男たちがこちら見下ろしていた。

下卑た笑みを浮かべている彼らにラナは警戒するように強く睨みつける。

無視して歩きたかったが、行く手を遮るようにして佇む彼らを振り切っていくことは難しそうだった。

ラナは斜めがけこカバンの紐を両手でグッと握った。

そして警戒しながら恐る恐る口を開く。


「……私に、何かご用ですか?」


男たちは笑みを浮かべたまま一歩こちらに踏み出した。ラナは危険を感じて一歩、二歩と下がる。

すると、真ん中の一番背の高い男が口を開いた。


「まぁね、だから少し、協力してもらうよ」


そう男が言い終わると同時に、ラナは背後から口元に布を押し当てられた。

ラナは反射で悲鳴を上げるために大きく息を吸い込んだ。

けれど悲鳴を上げる事は叶わず、息を吸い込むのと同時にツンとした匂いを鼻の奥に感じて、そのまま力が抜けるようにして意識が遠のいていった。

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