前世人魚姫でした
汐留 縁
第1話 前編
潮風が吹く。波のさざめきと共に海の水が煌めいた。
照らしだす太陽によって押し返される水しぶきは光の玉へと姿を変えて宙をただよう。
くすんだ茶髪の少女は、癖のある長い髪をうねらせながら浜辺に佇んでいた。
そして押し寄せる波につま先を浸らせようと足を伸ばしたが、波の勢いに押されるようにすぐに引っ込めた。
「ラナ!」
背後から聞きなれた男性の声がかかる。
声だけで誰かわかる彼女は呆れたような表情で振り返った。
端正な容姿の藍色髪の青年。
彼は笑顔でこちらに手を振る。
「何よユリウス」
「君に会いに来たんだ」
町中の女性たちがときめく言葉にラナは冷ややかな目を向けた。
そんな彼女の態度に彼は笑って肩をすくめる。
「ここで何をしていたんだい?」
「海を見ていただけよ」
そう言ったラナの隣にユリウスは並んで立ち、2人で海を眺めた。
ユリウスは懐かしむように目を細めて口を開く。
「君とここで出会って、もう4年も経つんだね」
そう言われて思い出すのは、ある嵐の日のこと。
4年前。ラナはある少年が海に溺れているのを見つけた。
稲光と激しく荒れ狂う海。
そこにラナは迷うことなく港から飛び込んだ。
なぜなら、普通の人間なら溺れてしまう海の中でもラナはなんてことは無いように泳ぐことが出来たから。
ラナにはある特別な秘密があった。
ラナの前世は人魚姫だった。
彼女は姿かたちが変わった今でも海の中を自由に泳ぐことができ、溺れていた少年もあっという間に助けることが出来たのだ。
そしてぐったりとする少年を岸に運び上げたが、少年の意識は戻らない。
それにしても、とラナは首を傾げた。こんな少年、町で見かけたことがなかった。旅行客かそれとも難破船で流れ着いた子か。
とにかく誰か助けを呼びに行こうとラナが立ち上がった時に誰かが腕を掴んだ。
ラナは驚いて振り返ればあの少年がうっすらと瞳を開けてこちらを見ていた。
「君は、誰?その鱗……もしかして、人魚?」
ラナの腕にはキラキラ輝く鱗が浮かび上がっていた。
前世、人魚姫だった名残なのか、海に飛び込むとなぜだか身体中に鱗が浮かび上がるのだ。
そして、それは誰にも知られたくない秘密だった。
見られた.....!
ラナは焦って腕を引き離した。
そして反対の腕で鱗を隠すように覆う。
少年はしばらく呆然とした様子でこちらを見つめていたが、次第に口を開いた。
「ありがとう。君が僕を助けてくれたんだね」
そう言って少年は笑った。
ラナは目を瞬かせた。
何処かで聞いた事があった気がした。
遠い記憶。でも、思いだそうとすれば辛い気がして、それ以上思い出そうとはしなかった。
そしてこれがラナとユリウスの出会いだった。
「おじいちゃん、町に買い物行くけど何かいるものある?」
ラナは窓辺でロッキングチェアに腰掛ける老人に話しかけた。
「いんや、何も要らんよ。気をつけて行っておいで」
「うん、行ってきます」
ラナは微笑んでそう言うと、キィィと音を立てて年季の入った扉を開けて家を出る。
ラナの家は森の中にあり、町からは少し離れた場所にある。歩いて行ける距離にはあるため生活には困らないが、今どきの若者らしい生活からはかけ離れていた。
けれど、ラナは別にそれで良かった。
流行の服も可愛く着飾るためのアクセサリーなんて無くたっていい。
だってそれは女の子のためのものだから。私には必要ない。
それにもう、私にはあの頃みたいな薔薇のように透き通る肌も澄んだ青色の瞳もない。あるのは、クセのあるくすんだ茶髪と茶色の瞳だけ。
だから、今の生活に何ら不満は無かった。
唯一あるとすれば……
町にたどり着けば通りの真ん中で人だかりができていた。
別に何かショーをやっているわけでも安売りをやっている訳でもない。だってそこに集まっている人達は若い女の子ばかりで、みんな黄色い声をあげているのだから。
ラナは見慣れた光景の横を颯爽と通り過ぎようとした。
けれどもそんなラナに声がかかる。
「ラナ!」
聞きなれた声にうんざりした気持ちになる。
ラナは怠そうにそちらに視線を向けた。
見れば予想通り、女の子たちの中心にユリウスはいて、能天気にこちらに手を振っている。そして周りの女の子たちは睨むようにこちらを見ていた。
まぁ、いつもの光景だ。
ラナはため息をこぼす。
ユリウスは、なんてことない様子でこちらに近寄ってきた。
「買い物?付き合うよ」
周りの様子なんてお構い無しにこちらに話しかけてくる。
周りの様子に気づいていないのか気にしていないだけなのか不明だが、ラナは人気者のユリウスと仲がいいこともあって嫉妬から、町の女の子達に目の敵にされていた。
ただでさえ森で暮らしているせいもあって変わり者扱いされているのに、ユリウスの件もあって町の人たちと、特に町の女子たちとはかなり折り合いが悪かった。
「別にいいわよ。自分で何とかできるから」
「いいからいいから。かご貸して」
あっさりラナの手から買い物かごがひったくられる。
ラナは諦めるようにため息を零した。
「……じゃあまずは、野菜を買いに行きたいから商店街の方に向かって」
「りょうかい!」
町での用事が済めば、ラナ達は家への帰路を歩く。
「おじい様は元気かい?」
「ええ、今朝も畑の作業に精を出してたわ。最近腰を悪くしたからもう少し大人しくしていて欲しいんだけど」
「ははっ相変わらず元気そうで安心したよ」
「そっちは?酒屋の仕事、どうなの?」
「うーん、今は夜だけ何だよね。何か、昼間俺が入ると女の子達が押し寄せて困るから、夜だけでいいって言われちゃった」
「あらまぁ、贅沢な悩みだこと」
他愛もない話をしていればあっという間に家にたどり着く。
「ただいま、おじいちゃん」
「おお、おかえりラナ。おや、ユリウスくんじゃないか。良く来たねぇ」
「こんにちはぁ」とユリウスが家の扉を潜って中に入る。
そして当たり前のようにユリウスは家に居座り、その後ちゃっかりご飯を食べていき、今は帰る為にと玄関先に立っていた。
「ご馳走様。やっぱりラナのご飯が一番美味しいよ」
「はいはい。さっさと帰りなさいよ。仕事、あるんでしょ」
「うーん、ラナが行って欲しくないって言ったら行くのやめるかも」
ラナはユリウスを冷ややかな目で見つめる。
ユリウスは笑って肩をすくめた。
「じゃあね、ラナ」
「はいはい、分かったから早く……」
チュッと音がなる。
額に柔らかい温もりを感じた。
見上げるとユリウスはイタズラっ子のような笑みを浮かべていた。
「じゃあ、また明日ね」
そう言って手を振って歩いていく。
呆然としたラナは額を抑えながら、正直どんな顔をすればいいかよく分からなかった。
揺蕩う海の中にラナはいる。
懐かしい海の世界。泳ぎ方も声の出し方もよく知っている。
でも、あの頃のように自由にヒレは動かないし口を動かしても声は出ない。
どうしてだろう、何かが足りない。
暖かい陽の光を感じて手を伸ばした。
きっと、あそこに……
ラナは目を開ける。
そこには満月のように美しいクラゲの姿も、歌うように揺れる海藻も珊瑚もない。
いつもと同じ、布と羽毛で出来たベッドの上。
体を起こせば肌色の足と、肩からこぼれ落ちるくすんだ茶髪。
あの頃、私の全てを作りあげていたものは今は何一つ無い。
でも、それでいい。この空っぽな心が、今の私を作り上げるのだから。
今日も今日とて隣にユリウスがいる。
何だって今日も家にこいつがいるのか。
朝、ラナはいつものように家事をこなしていれば、ユリウスが訪ねてきた。
またタダ飯を食らうつもりならさっさと追い出すのだが、今日は代わりに畑仕事すると名乗りを上げたのだ。ラナとしては出来ればおじいちゃんには体を休めて欲しいため断る理由もなく、そのまま手伝ってもらった。
そのため今日は十分働いて貰ったお返しとして、ラナは黙って家に招き入れたのだった。
ただ、それは致し方がなかったことであって決してラナの気持ちとしては素直に歓迎できるものではなかった。
「今日もラナのご飯が食べれるなんて、僕は幸せだな」
「邪魔だからあっちいってて」
ラナが料理を作る隣で、ユリウスは戯言をほざく。
「相変わらず冷たい」とユリウスはしょげた振りをする。
本気であっちいって欲しい、とラナは心の中で思った。
ラナが包丁を扱う横でユリウスはじっとラナの手元を見ていた。
ラナはやりづらいと思いつつ懸命に手元を動かす。
「それ、僕にもできる?」
ユリウスが珍しく料理に興味を示す。
ラナは目を瞬かせた。
「包丁、使ったことないの?」
「包丁どころか料理すらしたことないよ。酒場の仕事で、僕が1回だけ台所に立ったことあるけどすぐ出禁をくらったし」
ラナはまた目を瞬かせた。
「よくそれで今まで生活してこれたわね」
正直、こいつのことは謎だった。
4年の付き合いだけれど、今までどんな人生を歩んできたのかも、今の私生活ですらよく知らない。
なぜあの日、海に溺れていたのか。
ずっとラナは聞いてこなかった。
「ラナは、僕に何も聞かないよね。どこから来たのかとか、あの日何があったのかとか」
ポツリと呟く声を、ラナは横目で見あげた。少し寂しげにも見える笑みを浮かべた彼の横顔。
ラナはその笑みを見上げながらなんてことないように口を開いた。
「だって、どんな過去を歩んできたって、今の自分が全てだから」
過去の自分が今の自分を作り上げる。けれど、今、自分の手元に残っているものが私自身なのだ。
だから、過去なんて必要ない。
ラナの言葉にしばらくユリウスは呆然としていたが次第に笑い声を上げた。
「やっぱり、ラナの隣は心地いいや。そうだね、今の僕が全てだよね」
ユリウスはひとしきり笑ったあと、やっぱり料理を手伝いたいと言い、とはいえ包丁を扱われるわけにいかないので簡単に混ぜるだけの仕事を任せた。
そして任せたはずの、ただ混ぜるだけの工程のはずなのに、結果を言うならユリシスの料理のセンスはゼロだった。
というかなぜ混ぜるだけでこんな、と唖然とするラナの隣でユリウスはやりきった顔をしていた。
......まぁ見た目はあれでも、味は変わらないか、とやる気満々の様子のユリウスにラナは次の簡単な仕事を任せることにした。
「……僕はね、別にラナになら、何を聞かれても答えられるよ」
ラナは手元を休めてちらりと隣を見上げた。
ユリウスは作業を進めながら唐突にそんなことを呟いた。
もし、聞きたいことがあるとすれば、
「ならあの日、何があったの?」
それはユリウスと初めて出会った、嵐の海の話。
どうして海に溺れていたのか、何があったのか。
ラナの質問に、ユリシスは手元を動かしながら口を開く。
「あの日は船に乗っていたんだ。家族で.......」
______幼いユリウスは家族で船に乗っていた。
弾けるように波を立てる青い飛沫。カモメの鳴き声と青空と太陽。
ユリウスはその景色を思い出すように目を細めた。
ラナは、船?と何だかその言葉に引っかかる思いを覚える。
「でも、そんな船旅の途中、嵐に見舞われて甲板にいた僕は船から落ちたんだ」
ユリウスが顔を暗くする横で、ラナはズキズキと頭が痛んだ。
ラナの記憶の片隅で花火の音が聞こえる。
何なの、これ……
「嵐の中、荒れ狂う海に僕は1人溺れて、もう助からないと思った。でも、1人の女の子が僕を助けてくれたんだ」
ユリウスはこちらをみて微笑む。
そう、
それ以外、私にできることは無かったから。
だって、人間の助け方なんて知らない。私は
だから、彼は私じゃなくて助けてくれた人間の女の子を好きになって、私は……
「そうそう、僕の先祖の話にも、海に溺れたところをある1人の女性が助けてくれたって話があるんだ。その女性と王子は結婚して、それで……」
ラナは、ユリウスの、
『君は一番可愛らしいよ。でも、私が心惹かれるのはあの時、私を助けてくれた彼女なんだ。だから……』
ラナはふらつくようにしゃがみ込む。
耳鳴りと頭痛がする。
遠くで「ラナ!」と強く呼ぶ声がする。
いやだ、思い出しちゃいけない。思い出したくない。
私が、私で居られなくなってしまう。
ラナはそのままバタリと倒れ込んでしまった。
ラナはまた、漂う海の中にいた。
ここが、私の居場所。
光が照らす海の中の、更にその深く。
海を自由に泳げる尾鰭と、誰もが心奪われる美しい歌声。
でも、声は出ないし、鰭も動かない。
ここが私の居場所。そして、私自身が手放してしまった場所。
だから、もう同じ過ちは繰り返さない。
ラナはいつものように家の家事をこなしていく。
倒れてしまった翌日。
思いのほか体の調子は悪くなく、起きた時から普通に動くことが出来た。
ユリウスは、ラナが朝起きた時点でもう家におらず、ラナをベッドに運んでそのまま帰ったのだとおじいちゃんが言っていた。
台所は昨日のままになっていたが、ある程度は綺麗にされていた。きっと彼は片付けに困ったことだろうと思う。
ラナは使える食材をもう一度活用してご飯作りの続きをした。
そして、食材を容器にまとめて出かける準備をする。
「おじいちゃん、少し町に行ってくるね」
「もう体は大丈夫なのかい?」
畑仕事を終えたおじいちゃんがこちらを驚いたように見つめる。
「うん、大丈夫だよ。ごめんね心配かけちゃって。すぐ帰ってくるから」
そう言ってラナは手を振る。
この通りを真っ直ぐ行った、裏道に入った手前の家……
ラナはメモを片手に道を進んだ。
ここに来る前、ユリウスが働く酒場に寄って貰ってきたものだった。
最初、酒場の店員に聞いた時はうんざりとした様子で嫌そうな顔をされた。
「またぁ?悪いけど、店員の個人情報は渡せません」
そう言われてしまい、他にユリウスと会う方法を知らないラナが困り果てていれば、店の奥から恰幅のいい女性が姿を見せた。
「あら、ラナちゃんじゃない。久し振りね」
唯一、この町で顔見知りの女性だった。
「お久しぶりです。女将さん」
「どうしたんだい?」
「実は……」
ラナが事情を話せば、女将さんは快く引き受けてくれた。
「ああ、ユリウス君の家の場所ね。いいわよ教えても」
傍にいた酒場の店員は「え!?いいんですか?」と驚きの声を上げていた。
「いいのよ、ラナちゃんは」
女将さんはそう言ってユリウスの家の場所を記した手紙をラナに渡してくれた。
ラナは有難く受け取ったが、何だかいけない事をしてしまったんじゃないかと軽く罪悪感を感じていた。
人の大事な情報をこんな形で受け取ってしまっても良かったのだろうか。
とはいえ別に、悪いことに使う訳でもないし、それに、これで最後なんだから。
ラナは目の前の扉をノックする。
数分経ってから「....んぁ〜い」と気の抜けたような返事が返ってきて扉が開いた。
「どちらさ……」
ラナの姿が目に入りユリウスは呆然としたように固まる。
寝起きのままなのか、上半分開いたワイシャツとズボン、ボサボサの髪型といった砕けた姿を見せた。
ラナは眉をひそめて見つめる。
もう昼なのに、まだ寝てたのかしら。
ついそのまま口を開こうとしたが、いけない。あんまり突っ込んだ話はもうしないようにしよう。
「ごめんなさい急に押しかけて。昨日のお礼を言いに来たの。それと、これ」
そう言って手提げの中から朝詰めた入れ物を取り出す。
「良かったら食べてちょうだい。昨日は何も作れなかったから」
入れ物を手渡せば、ユリウスは呆然としたまま受け取った。
「あと…」とラナは口を開こうとしたが、その続きはどう言葉にすればいいか分からず、開けた口をもう一度閉じた。
やっぱりこの話はまた今度にしよう。
「……それだけ、それじゃ」
そう言って元来た道を帰ろうとした。
ユリウスはハッと我に返って慌ててラナの腕を掴んだ。
ラナは驚いて振り返る。
「ま、待って、えっと、良かったら家に、ってああ今散らかってて、ええっと、ちょちょっと着替えてくるから待って!」
ラナは慌てるユリウスをぼうっと見つめる。
「別にいいわよ。用事はそれだけなんだし」
「僕が良くないんだよ!とにかく……」
焦った様子のユリウスにラナは呆然としていれば、「ユリウス?」と後ろから綺麗な女性の声がした。
2人でそちらに振り返る。
真っ直ぐな長い黒髪の、綺麗な女性がそこにいた。
「何しているの?」
女性は驚いたようにこちらを見つめている。
ラナも驚いて女性を見つめた。
綺麗な方。知り合い、なのかしら?
ラナがユリウスを見上げれば「ああ、いや、これは…」と言ってユリウスは気まずげな表情を見せる。
ラナはああ、と納得した。
そのままユリウスに掴まれた腕をパシッと払って笑みを浮かべる。
「……実はね、今日ユリウスに話があったの。もう、あなたに会うつもりは無い。今後一切、関わらないで」
そう静かに、けれどはっきりと言葉にする。
もうあの頃みたいに選ばれない、惨めな女になりたくない。
ユリウスはラナの言葉にただ呆然とした様子だった。
「その容器も返さなくていいから、さよなら」
そう最後に言い残し、足早にラナは帰り道を進んだ。
「……まずいタイミングで来ちゃったかしら?」
固まったまま動かないユリウスに黒髪の女性は口を開く。
次第にユリウスはズルズルとしゃがみ込んだ。
そして蹲りながら口を開く。
「……あぁ、非常に」
あちゃーと女性は見るに堪えないイケメンを、とにかく家に押し込んだ。
ラナは帰って直ぐに自分のベッドに飛び込んだ。
別に辛くもなければ心も痛まない。
だってあの時捨てた心が戻るわけないのだから。
でも、何故だろう。
涙も何も出ないのに、まるで、喉が渇くみたいに苦しい。
ラナは枕に顔を伏せる。
あの女の人はユリウスの恋人なんだろうか。
家の場所を知っているくらい親しいのだからきっとそうなんだろう。
今さら何に期待するというのか。
だって
私は選ばれない。
よくわかっている。身の程知らずな哀れな人魚姫。
もう、あんな苦しい思いなんてしたくない。
次の日から、ユリウスと話すことは無くなった。
ラナは町へは必要最低限しか出かけなくなり、ユリウスを町で見かけても逃げるように無視をしていた。
彼も何か後ろめたいことでもあるのか、無理やりラナの家に押しかけるようなこともしなかった。
いや、きっと押しかけるほどラナに興味はなかったのだろう。二人が過ごしたあの日々もユリウスにとってはただの気まぐれ。
私が助けてくれた命の恩人で、少し周りと違う反応をするからそれを面白がっていただけなんだろう。
そしてそれをラナが一言、関わるなと言ったからもう相手をする必要も無くなっただけの話。
何も傷つく必要もない。
だって、これが本来の、正しい2人の距離感。
こんな寂しいような思い、あっという間に忘れられるはずだ。
ある日の夜。風を感じて目を覚ました。
窓を開けっぱなしにしてしまったのだろうか。
でも、寝る前に閉めたはずだ。
薄らと目を開ける。
ぼうっとしながら月明かり差し込む窓に目を向けた。
そしてラナは窓に向けた目を瞬かせて、慌てて悲鳴をあげようと息を吸い込んだ。
その口を目の前にいた人影は急いで塞ぐ。
「待って待って、俺だから」
その声と、見上げた顔に見覚えがあって微かに安心したが、それでも警戒しないわけが無い。
ラナは口を塞がれた手を払って冷ややかな目で見つめる。
「ユリウスだろうとなんだろうと、夜中に淑女の部屋に侵入する男は等しく変質者よ」
「……僕自身も、とんでもないことをしでかしてる自覚があるよ」
彼はそう言って自分に対して呆れるような表情を浮かべて頭に手を置いた。
「でも、僕もどうしたらいいのか分からなかった。どうしようもないくらい、ラナに会いたくて……」
ユリウスは両手で顔を覆いながらその場に蹲る。
「……ごめん」
一言、零すように口にする。
ラナは大きくため息をついた。
別に怒ってはいなかった。
だって、ラナだって、きっと会いたかった。
ただ顔を見ただけなのに、声を聞けただけなのに、こんなに安心するのだから。
でもそんな事を口にする訳にはいかず、ラナは素っ気なく言葉を返す。
「もういいから。とにかく、出てってちょうだい」
突っぱねるように言葉を発する。
今が暗い空間で良かったと思った。言葉でなら、いくらでも演技できる。
ラナの言葉にユリウスはただ無言だった。
あまりにも反応がない上、全然ユリウスの気配を感じないから本当にそこにいるのかと暗がりの中、不安になった。
ラナはユリウスの方へと首を動かせば、ユリウスが立ち上がる気配を感じてビクッと肩を飛びあがらせる。
そしてその後強く体を押される感覚と、ドサッと音を立てて背中をベッドに打ち付ける感覚。
ラナは衝撃に目を強く瞑ってから、ゆっくりと瞼を開けた。
そしてドキッとした。だって表情が分かるくらいユリウスの顔が近くにあったから。
「ちょっと!」
気がつけばユリウスに両腕を掴まれてベッドに押し倒されていた。
ラナは避難するように口を開いたが、ユリウスが意に返す様子は無い。
それどころかラナを掴んでいる両腕に力を込めた。
だんだん怖くなった。ユリウスが何を考えているのか分からなかった。だって、こんなユリウス知らない。笑顔で、無邪気で、困っている時には必ず助けてくれる優しい人で、こんな、凄まれるように見つめられたことなんてなかったから。
寒さを感じるように微かに体が震えた。
開く唇も震える。
「ねぇ……」
ラナがそんな様子になって、ユリウスはようやく口を開いた。
「俺の事、嫌いになったの?」
ユリウスの様子に怖くなってラナは必死に首を振る。
「そんな事ない」
「だったら!」
急に上げた大声にラナはビクリと体を震わせた。
そして怯えながら、反射で閉じてしまった瞼を開けてユリウスを見上げる。
見つめたユリウスの顔は何故か、辛い様な傷ついた表情を浮かべていた。
「……だったら、何で避けんだよ」
ラナは呆然と見つめれば、ユリウスはそのままラナの肩に顔を埋めた。
「……最初は、あいつに嫉妬して、俺と関わらないとかそんな事言い出したのかと思った。でも、言い方が、最初からそのつもりで来たみたいな言い方だったから、おかしいなとは思ったんだよ。でも、きっと誤解してるだけだって、正直に話せば元通りになるって思って、でも、それで話しかけようとしても俺の事避けるし、だんだんあからさまに逃げるようになって、だから、俺のこと嫌いになったんじゃないかって……」
最後の方は泣きそうな声だった。
ラナは何故か自分が苦しいような気がした。
ラナの心はもう何に対しても動かないはずなのに、まして自分の事でなく他人の事なのに。
「俺、どうしたらいいか分からなくて、気づいたらラナの家に押しかけてた。こんなことしちゃいけないのは分かってる。でも、俺にもどうしようもないんだ……」
ユリウスの体が微かに震えている気がした。
何だか怯えている子供みたいに感じて、つい解放された両腕をユリウスの背中に伸ばした。
「ユリウス、ごめんなさい。一方的に避けてしまって。こんなやり方はいけなかったわね」
ラナはユリウスの背中をさする。
彼はゆっくりと顔を上げてこちらを見つめた。
黒い瞳と藍色の髪。記憶のどこかで
でも、ユリウスは
「……ユリウス、私の話を聞いてくれる?」
ラナはそう言ってユリウスに微笑みかけた。
ラナは前世の自分の話をした。
前世が人魚姫だったこと。そして、その時、何があったのか。
自分の思いと共に、洗いざらい全てをユリウスに話した。
ユリウスはベッドに腰かけ、ラナの隣で黙って話を聞いていた。
そして、ラナの話が終われば次第に口を開く。
「……つまり、その溺れた王子を本当に助けたのはラナなのに、2番目に助けた女性が自分を助けてくれたんだと勘違いして、そいつはその女を好きになったってことかい?」
ラナは曖昧に微笑んだ。
「まぁ、王子を最初に助けたのは人魚姫だったけれど、結局、王子が息を吹き返したのはその女の人が助けた時だったから、順番なんて関係ないのかもしれないわね」
王子はあの時、自分を助けてくれた女性を好きになったと言った。
だから、あの時、本当にあなたの命を救ったのは私なのよと、彼に伝えたかった。
けれど、人魚姫の声は魔女に願いを叶えてもらう対価として渡してしまっていた。
だから、彼に本当の事を言うことも出来ずに、2人は結ばれ人魚姫は泡となって消えた。
もしも、本当の事を伝えたら何かが変わったのだろうか。今となっては何も分からない。
ただ1つ分かること。もう、あの時失った恋心は戻らないということ。
ラナの________人魚姫の空っぽな心を埋めることは永遠にできやしないのだと。
「……そんなことがあったんだな。すまなかった、俺の先祖が」
ラナは目を瞬かせた。
もちろん、ユリウスに話した内容に嘘偽りはない。
でも、こんな荒唐無稽な話、そもそも信じてもらえるとは思っていなかった。
「別に、ユリウスが謝るようなことじゃないわ。それに、もうずっと、昔の話だもの」
そう、ユリウスが
ユリウスはしばらく考え込むように手を合わせて項垂れていた。そして、しばらくして口を開く。
「……もう俺が、ある国の王子だって事は知ってるよな?」
ユリウスの言葉にラナは目を瞬かせる。
「えっと、彼の子孫だって事は知ってるけど、王子だったことは知らなかったわ」
「そうか。なら改めて言うと、俺は某国の王子で、海に溺れていたあの日、とある外交のために家族で他国に向かう船に乗って海を渡っていたんだ」
4年前の出来事の話だ。
ユリウスが海に溺れていて、それをラナが助けた時の話。
「知っての通り、その船は嵐に巻き込まれた。その時俺は甲板にいたんだ。そのタイミングで嵐に見舞われて、振り落とされないように、必死で船の手すりにしがみついた。でも、その時、甲板にいたのは俺1人じゃなかった」
そう言うとユリウスは少し苦しげに顔を歪めた。
「その時、双子の兄も一緒にいたんだ」
お兄さんがいるんだ、とラナは感心するように目を瞬かせた。
でも、どうしてそんな苦しげな表情なんだろう。
ラナは黙ってユリウスの言葉の続きを待つ。
「……俺と兄は、何とか船の中に戻ろうとしたんだ。波が静まるタイミングを見計らって、慎重に足を進めて、でも……」
ユリウスはギュッと両手を握りこんだ。
「俺は傾いだ船に足を滑らせて、船から投げ出されてしまった。咄嗟に俺は兄に腕を伸ばした。兄も反射で腕を伸ばしたんだと思う。それで何とか手は繋ぐことが出来たんだけれど、同じ体格な上に力だってまだ子供だ。兄も最初は必死に引き上げてくれようとしてたけど……」
ユリウスは苦しそうな表情を浮かべた。
ラナは寄り添うようにユリウスのそばに寄って、背中に手を置いた。
そうすると少しだけ、ユリウスの肩の力が抜けた気がした。
ユリウスはゆっくりと口を開く。
「最終的には、その手を離されてしまった」
信じていた相手に裏切られた。
ラナにはそう聞こえた。
もしかしたら、お兄さんは重さに耐えきれなくてそのつもりなく手が離れてしまったのかもしれない。
けれど、海に投げ出された小さなユリウスは死を覚悟したことだろう。
荒れ狂う海の中、小さな子供が普通に助かるわけない。
きっと怖かっただろう。
ラナがユリウスの背を撫でて入れば、ラナのその反対の手をユリウスが優しく握りしめた。
「……だから、俺はあの日、ラナに助けられて、離れてしまったあの手をラナがもう一度握ってくれて嬉しかったんだ。……もう一度、俺は俺になれた」
ユリウスがこちらを見て微笑む。
「ありがとう、ラナ」
4年前のあの時、ユリウスに手を伸ばして良かったと思った。
だってきっと、手を差し伸べなかったらこんな風に笑ってくれなかった。
いや、そもそもユリウスはこの世にいなかったかもしれない。
「私も、ユリウスが生きていて、良かった」
ラナも自然と笑みを浮かべていた。
ユリウスと出会った4年間、幸せだったのだから。
前世で失ってしまった人魚姫の大切な心。でも、ラナとして生まれて、確かに新しく芽吹いたものがある。
それが前世で失ってしまったものと同じものかは分からない。でも、間違いなく今のラナを作り上げるものには違いなかった。
見上げれば、ユリウスはこちらをじっと見下ろしていた。
彼の顔が徐々に近づいてくる。
ラナはそれをぼうっと見つめた。
「そういえば、ユリウスって自分のこと“俺”って言うのね」
そう口を開けばユリウスはピタッと動きを止めた。
随分近い距離にいるなあ、とユリウスの顔を眺めているラナに、ユリウスはなんとも言えない表情を浮かべてラナから離れて口を開いた。
「外交とか外面使う時は、“わたし”とか“僕”とかを使ってたからその名残でね。お忍びで町とか行く時はそんな言葉使えないから“俺”とか言って使い分けてたんだけど、まぁ、ここの生活に外交とか堅苦しいのは無いから、最近はそっちの方をよく使うんだよ」
「私と話す時は“僕”って良く言ってたわよね」
ユリウスは微かに眉を顰める。
「そりゃ、“俺”とか粗暴な言葉使うよりも“僕”とか使って紳士的に思われたいだろう……好きな女の子には」
後半の言葉は照れるように唇を尖らせながら言葉にする。
ラナはユリウスの言葉に目を瞬かせる。そして、ニッコリと微笑んだ。
「別に、私はどちらでも気にしないわ。でも、“俺”って言ってるユリウスも、嫌いじゃないわよ」
ユリウスはラナを見つめながらしばらく呆然として、急にガシッとラナの両肩を掴んだ。
「頼むからラナ、しばらく黙って口を閉じてて」
「いやよ、黙ったら何かしてきそうなんだもの」
「あっ!もしかしてさっき、分かってて口開いてたんだろう!?」
「え?なんの事?」
「もうそれが演技なのかも分からない。とにかく、頼むから今だけ口を閉じて」
「もう!訳わかんないこと言ってないで離れてちょうだい!あんまりしつこいと二度と家に入れないわよ!」
そうラナが宣言すれば渋々といった様子で離れた。
ユリウスは始終、不満げな表情を浮かべていたが次第に諦めたようにため息をついてから口を開く。
「一つだけ教えて、今でもあの王子のことが好きかい?」
ユリウスの質問にラナは目を瞬かせる。
そして考え込んでから口を開いた。
「……分からない。あの頃に、心だけを置いてきてしまったから。でも、今も感情が残っているとすれば、それは恋と呼べるような純粋なものじゃないんでしょうね」
あの頃抱いていた感情はもっと純粋で綺麗なものだった。
けれどもあの頃の人魚姫はもういない。
今ここにいるのは人魚姫の魂と記憶を持った、ラナという1人の女だけ。
人魚姫の心を失った私の心は、どこにあるのだろう。
「……俺なら、ラナを1人にしない。辛い思いも寂しい思いもさせたりしない」
ラナが見上げたユリウスの顔は真剣で、真っ直ぐな瞳をこちらに向けていた。
ラナはその視線から目を離せなかった。
ユリウスはふっと表情を崩して不敵に笑う。
「だから、覚悟しといてよ。もう手を抜いたりしないから」
そう宣言するとユリウスはラナの額に口付けをした。そして、月明かりが照らす窓の外へ飛び降りる。
ラナは呆然としながら、口付けされた額に触れた。
いつも別れ際に必ずする、額の口付け。
今日はいつもよりも何だか熱い気がした。
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