第2話 まんじゅうと和解せよ
「……どこまで記憶があル」
長い沈黙に感じた。なんでも良い。何か思い浮かぶものはないか。きっと何かあるはずだろう? 思い出せ、俺。
バクバクと心臓の音がうるさい。
自分でも息が少し上がっているのを感じる。
思い出そうとすればするほど、頭は真っ白だ。
「……ダメだ……さっきアールに顔を掴まれて目覚めた時から今まで……起きるより前は全く覚えていない……」
「記憶が全部ねぇのかヨ……いや寧ろそのほうが好都合なのカ?」
アールは俺が記憶喪失であることにさほど動じていないようだった。それよりも俺は"好都合"というアールの言葉が引っかかった。そしてさっきまで目をそらしていたアールに対する不信感が徐々にあふれ出してくる。
ひょっとしたら、まんじゅうを食べた幸福感で今まで塗り替えられていたこともアールの策略なのではないのだろうか?
まるで冷水を浴びせられたような気分だった。俺は一体何をしようとしていたのかと契約書を見つめる。
神々しく感じていたそれは、禍々しく見えた。
「忘れちまったモンは仕方ねえよナ。フむ、なら名前が必要だナ。今からお前の名前はレストだ。文字は分かるか? "レスト"はこう書くからそのまま契約書に写せば大丈夫、それで契約完了ダ」
アールがそう言った途端、風も吹いていないのに周囲の落ち葉がくるくると空を舞い踊り、俺たちの傍に大きく文字を形作った。
木の葉の文字が"レスト"と表していることが理解できた。どうやら契約書の文字とは違ってこちらは読めるようだ。木の葉がどうやって宙を浮いて文字を作っているのかはさっぱりわからなかった。
そして勝手に名づけられてしまったレストという名前が俺の本当の名前なのか全く違うのか、俺には分からない。俺は、何も……
俺は——
「っすまん! 俺はサインできない!」
俺は契約書とペンをアールに押し返した。急な心変わりだと自覚している。その為、俺はアールの顔を見ることができなくて頭を下げ、言葉を続けた。
俺が手に持っていたまんじゅうが地面に転がっていったのに気づかずに。
「まんじゅうってのは確かに美味かった、けど……」
「疑問があるなら、っておい! お前、まんじゅうを!」
アールの焦った声を聞き、食べかけのそれを手放してしまっていたことに気がついた。しまった怒らせたか、と持っていたはずの手に目線を映し、まんじゅう転がっていっただろう場所を見ると奇妙な光景が目に飛び込んできた。
つるりとした白くて長い虫の足がついているのだ。まんじゅうに。数にして六本。
それに、心なしか……まんじゅうが大きいような……。いや、間違いなくそうだ。よく見なくても徐々に大きくなっている。
ついでに、まんじゅうだけでなく、付いている足も併せて大きくなっている。
……足?
……足としか言いようがない。
まんじゅうが六本の足によって支えられ立ち上がった。大きさは……俺とまんじゅうで立って背比べしたら、まんじゅうは俺の胸あたりの高さだろうか。……こんな短時間で大きくなったものだなぁ。
まんじゅうをよく見てみると俺の齧った跡までそのままで中身の具が見えている。あぁ、でも今はもう具ではないのかもしれない。なんせ露出している具は力強く脈打っているのだ。うん、明らかに具じゃ無いな。
そして白い生地は足同様に白く艶やかで硬そうな何かに変わってしまっている。そして生地に切れ目ができたかと思えばそこから恐ろしい鳴き声がした。
ギギギッ! ガチガチ、グッギィィィ……
「……え? 何あのモンスター」
「オイ! さっさと謝レ!」
「……謝るって、え?」
謝るより先にあのモンスターについて教えてくれ。
俺はまんじゅうを落としただけなのである。
どうしてこうなったのかまるで分らない。
記憶のない俺にはわからないことだらけだ。しかし、折角くれたまんじゅうを落としたのは申し訳なく思い、謝罪の言葉をアールに伝えようとした時だった。
物凄い速さだった。まんじゅうが瞬きの間に俺たちに接近し、鋭い足を振り下ろした。俺は殆ど反射的にアールを抱え、紙一重でなんとか回避した。しかし、攻撃による余波によって2人無様に転がる。しまった。転がってしまった事でまんじゅうから目を逸らしてしまった。俺は慌ててまんじゅうの方、さっきまで俺たちがいた場所に目を向けた。そこには地面に長く深い溝が出来ていた。
あんなもの一撃でも食らえばひとたまりもない。一瞬で体が真っ二つになること間違いなしだ。
ギギギギギギッ!
まんじゅうは当たらなかったことに苛立っているのだろう。不快そうな鳴き声を発している。そして足を二本高らかに上げると、それらを擦り上げて甲高い音を発生させて威嚇のような行為をしていた。
「逃げるぞ!」
「早く謝ったほうが良いゾ」
「はいはい! ごめんな、アール!」
アールを小脇に抱えなおし、すぐさま俺は森の中に入って走った。木々を障害物に距離を稼げばそのまま撒けるかもしれない。
そうして俺たちとまんじゅうの命がけの鬼ごっこが始まったのだった。
***
一体どのくらい森の中を駆けまわったのだろうか。素足に何かが刺さって皮がめくれているが止まらない、止まれるはずがない。
「ハハッ、レストお前すげぇ足早ぇナ」
「遅かったら! あの鎌? いや足か!? そいつで真っ二つだろうがぁ! って、全っ然! 引き離せねえええええええええ!」
何なら俺たちとまんじゅうモンスターとの距離は徐々に縮まっている。まんじゅうが足を軽く振ると次々と障害物が吹っ飛んでいく。俺の背後で森林破壊が急激に進んでいた。偶に吹っ飛ばされた木や岩がこちらにも飛んでくるのが厄介極まりない。もしかしたら、まんじゅうがわざと障害物を飛ばして当てようとしているのかもしれない。
「このままだとじきに追いつかれるゾ。まぁ、ボクのまんじゅうは最強だからナ」
「でめぇどっちの味方なんだあああああ!」
アールは嬉しそうにまんじゅうを自慢している。というか自分で走れ。ふと、アールを落とさないように片手で抱えなおして気づいた。さっきの言葉から察するにまんじゅうがモンスターであることをこいつは元々知っているのではないだろうか。
「アール! あのモンスターのこと知っているのか!」
「至って普通のおまんじゅうだヨ。地面に落とされてちょっと怒っているだけダ」
「アレが普通なのか!」
まんじゅうが怒ってモンスターになるとは知らなかった。俺が失った記憶はあまりにも多いようだ。しかし記憶がないからといって今の状況がどうにかなるわけでもないのである。
「おい! あのまんじゅう倒せるか?」
「いや無理に決まっているだロ。物理及び魔法耐性がアホほど高いからナ」
「詰んでいるじゃねぇか! どうすればいいんだよ!」
「弱点があル。精神攻撃とか情に訴えかけるんダ。早い話今すぐ土下座して謝ればなんとかなル」
「俺に死ねってか!?」
「真摯な謝罪はまんじゅうに届くゼ? 手助けしてやるから、ホラ」
アールはどうやら冗談を言っているわけではなさそうだが……謝罪でまんじゅうが退くとは思えなかった。しかし、まんじゅうモンスターはもう既に背後まで迫ってきている。他に選択肢はないようだ。
「クソッ! やるっきゃねぇか!」
飛んできた樹木をしゃがんで躱し、今まさに俺たちに足を振り下ろす直前であったまんじゅうに向き合った。
俺は腹をくくった。
「まんじゅう様! 落としてしまい大変申し訳ございませんでしたあああ!!」
「あぁ、レストが落ちたまんじゅうも食べたいってヨ」
「え、食えんの!?」
アールが俺を親指で指してとんでもないことを言った。元はまんじゅうだとは言え今現在はモンスターになっているのだ。あの状態で果たして食えるのだろうか?
けれども今はこの場を収めるために食うしかないだろう。
「いやそうそう! 土は払えば大丈夫だから! 寧ろ美味すぎるまんじゅうにとっては良いスパイスにしかならないんじゃないだろうか!? より一層美味くなっちまうかもな! どんな味になっているんだろうな!?」
俺は無茶苦茶なことを言っている自信はあった。しかし、全裸でまんじゅうに土下座をしている時点でもうやけくそだった。本当に効果はあるのだろうかと俺はちらりとまんじゅうの様子を伺った。足を上に掲げた状態でギギギと鳴き声をあげ、小刻みに震えている。動きは止まっているが……失敗なのだろうか? やはり今からどうにかして逃げる手段を、と考えた時だった。
『……ギギッ、ヒロイグイ ヨクナイ ケド……。ツギハ オトサナイデ ネ』
そしてまんじゅうはゆっくりと振り上げた足を下ろし、ポンとモンスターから元の食べかけのまんじゅうに戻った。アールはそれを手で受け止め、土を払った後にまんじゅうを俺に手渡した。俺は呆然と受け取ったまんじゅうを見た。まさか、思いもよらなかったのだ。
「喋った」
まんじゅうに拾い食いを注意された。見た目はモンスターなのに常識的なことを言った。
あと普通にじゃりじゃりして土の味がするだけで美味いまんじゅうだった。
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