第5話
彼女との予期せぬ再会から一週間後。
父の検査入院の手続きを終え、大学病院のロビーを出口へと向かう途中で何気なく見上げた大時計、その真下に見知った横顔を見つけて足が止まった。
「トオル?」
こちらに振り向く驚きの表情。すぐさま微笑みに変わり、周囲の患者の間を縫ってこちらへ寄ってきた。
「意外な所で会ったな。カイト、調子悪いのか?」
「いや。父さんの付き添い。トオルこそ大丈夫か?」
「まあね。あのさ、このあと忙しい? もし時間が許せばお茶でもどうかと思って」
「いいね。大丈夫、三時までに戻れば問題ない。むしろ喜んで」
「よかった。そろそろ会計の順番が回ってくるはずだから、またそのときに」
「了解。出たところのベンチで待ってるよ」
間もなく合流し、トオルおすすめのカフェへ。窓際に、二人並んで着席した。
「そうか。カイトのお父さん、検査入院するのか」
「ああ。最近空咳が止まらなくて。しばらくかかりつけ医に診てもらったんだけど、改善せず、いよいよ今日って感じ」
「感じって。さてはまた事件につきっきりで、家に帰ってなかったろ」
「ちゃんと帰ってるよ。けど、寝に帰るような場所だから」
「カイト。大事な親だろう。お節介かもしれないが、もう少し積極的に向き合うことをおすすめする。後で後悔する前にな」
「うん、出来る時にしてる。これでも感謝はしてるし。こうなることは、ガーディアンを目指した時から両親も覚悟してたはずだ」
「あっそ。そういうとこだな」
「え? 何が?」
「彼女いない理由」
「大きなお世話だ!」
そして弾けたトオルの笑い声は、不思議と心を落ち着かせてくれた。
「そうそう、トオルの方こそ大丈夫か? もしや失踪事件の心労で、風邪でも引いた?」
「いや」
そう言ったきり、マグから立ち上る湯気を見つめるばかり。その横顔には何の感情も無く、ただただ、次の言葉を伝える勇気を溜めているようだった。その邪魔をせぬよう、行き交う通行人を適当に眺めながら待ってみる。
「今日は、俺自身の、定期検診の日だったんだ」
「定期検診? 持病があったなんて知らなかった」
「いや、持病じゃない。代償を払っているんだよ」
その先を聞くのが躊躇われた。でも、トオルは違った。その勇気に背中を押されて、言葉を紡ぐ。
「……何の?」
「自由の代償」
そう言ってコーヒーで喉を潤し、遠くを眺める姿はまるで別人。いつも未来を見ている瞳が、過去に戻されていくのが分かった。そして手繰り寄せられた、遠い記憶とその秘密。
「俺は、獣人だったんだ。子どもの頃に
獣人だった。その部分だけが切り取られ、頭の中でこだまする。
「両親が結婚したころ、約三十年前はまだ、人と獣人の結婚はレアケースだったらしい。そんな状況だったから、公には両親とも人ってことになってるけど、父親は人、母親が犬の獣人。俺はそのハーフ。今はこのとおり俺自身は人そのもの。獣能力も消えて無くなったけれど」
「Cメソッドを使ったのか?」
「御明察」
Cメソッドとは、獣人の獣能力を鎮静化させる唯一の治療法を指す。ただ、長年研究が続いているにも関わらず、未だに開発段階にあり、その効果は非常に不安定で完治が約束されるものでもない。さらには副作用の発症率も低くない。
俺がこの治療法に詳しいのは、弟がその研究に携わり、治療薬の開発を行っているからに他ならない。
「施術を受けた六歳当時は、現状より更に心許ない治療法だったけど、それでも受けることを選んだ」
「辛かったな」
「今となってはいい思い出だよ」
その時見せた微笑みは強がりでなく、それが彼の、過去への返事だった。
「俺は、母親から高精度の聴力を受け継いだ。だが、それが異常発達してしまって、望むと望まざるとに関わらず、半径十メートル範囲内の音を全て集音してしまっていたんだ。カイトも聞いたことあるだろう? ハーフの子の獣能力は、三パターンのいずれかになると」
「ああ。親の獣能力を完全かつ同質に受け継ぐ子、獣能力を一切受け継がず完全な人として生まれる子、受け継いだ獣能力が異常発達または異常衰退して生まれる子、だったかな。完全に受け継いだとしても、突発的に能力低下が起こることもあって、ハーフの子は成長図が把握できない存在と言われることもあると聞く」
「そのとおり。で、俺はその三番目に該当してた。獣能力が歪に遺伝し、精度コントロールが出来なかったんだ。だから、聞きたくもないことまで勝手に耳元に寄ってきて、毎日が苦行だった。身近な例でいけば、家のお手伝いさん達は目の前ではお世辞、裏ではいつも愚痴大会。友達は、根拠のない噂を振り撒いて。顔見知りだけじゃない。興味のない他人の罵り、怒号、蔑み、差別、悪口。笑い声や愛の言葉なんて、かき消されてた。そんな状態にあるとな、ゲームセンターから垂れ流される騒音とか、高架下で電車の走行音を聞いてる方がマシって本気で思えるんだよ。そこには感情なんてなかったから」
気づけば自分の眉間に刻まれる皺。当時の彼を思うだけで胸が痛む。
「でも俺は恵まれていた。父が専門医を探してくれたんだ。自宅に呼んで問診を受けたとき、医師は六歳の俺に言ったよ。Cメソッドは獣能力から自由になる代わりに、寿命を削る恐れがあると」
「嘘だろ。幾ら何でも、その副作用は聞いたことがないよ」
「今は研究が進んで、そこまで深刻な副作用は発症しないんだろう」
「そういうことか」
「多分な。嘘か誠か知らないけれど、さすがに両親も狼狽えてたっけ。でも、俺の意思は変わらなかったよ。不完全な治療法とはいえ、唯一の望みだと思えたから」
望み。またも軋むこの胸。
その幼さで、自分の命に向き合う覚悟が、当時の俺には出来ただろうか。
「望み、か」
「うん。今になって考えてみたら、当然の代償なんだよな。獣能力は血液に、いや、DNAに組み込まれている生存本能。治療とは言えそこに手を入れれば、無傷でいられる方がむしろ奇跡だ」
「じゃあ、トオルは本物の奇跡だな」
気恥ずかしそうに頬を掻き、やんわり否定するトオル。
「奇跡的な結果には感謝してる。でもこれは、人に成れたからじゃない。純粋に、自分の世界を生きられるようになったからだよ」
その瞳に映る世界は、君自身の世界。未来を待ち望む世界。
「治療を終えて目を覚ましたとき、世界はこんなに静かなんだって、驚いた。家族の声が、自分の声がよく聞こえて、嬉しかった。人生で一番幸せな瞬間だったな。だから、あと一年しか生きられなくてもいいって、本気で思って、笑った。その瞬間に聞こえた自分の笑い声と泣き声は、今でも鮮明に覚えてる」
「トオルらしい笑い方だったか?」
「ハハハ。まあな」
「ちなみに今日の検査も異常無し?」
「見ての通り、全くの健康体だよ。あ、気になるとすれば、臓器全体の機能が若干低下気味だってさ」
「そんな、人ごとみたいに」
俺は至って真剣に受け止めたが、本人は気にするふうもなく笑って先を続けた。
「いいんだ。俺はみんなに出会えた。治療を許してくれる優しい両親に育てられた。俺がいなくなっても、完全な人として生まれた優しい弟が両親を支えてくれる。それにな。楽しいって思える仕事をして、美味しいご飯が食べられる。帰る家があって、ふかふかの布団で一日を終えられる。俺は充分満足したよ」
「その言い方やめろ。その、何と言うか、白髪になるまで友達でいてくれるだろ?」
「へえ。意外と寂しがりやなんだな」
「ち、違う!」
「ハハハ。冗談はさておき、安心してくれ。主治医からは心配ないってお墨付きもらってる。まあ、でも、先が読めないのがCメソッドだ。タクトによろしく言ってくれ。完成を待ち望む人が、星の数ほどいるのだと」
「任せろ。ちょうど会う約束をしたところなんだ」
「それは何よりだ。カイト兄ちゃん」
「あのなあっ!」
こうやって、いつまでも、隣で笑っていてくれよ。
仕事に戻る道すがら、柄にもなく願いをかけた。
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