第三十八話 ブブ漬け来たーーっ!!

「何気に失礼ですね、先輩。私、食べ物では釣られませんよ」

「どの口が言いますかねえ、馬越まごしさん。言われた瞬間、真剣に考えたろ」

「そんなことないですよ」


 まあ一瞬だけ考えたのは認める。あくまでも一瞬だけだ。


「とにかくですよ。私はお客さんとして、常連化を目指しつつ、ここの売り上げに貢献する所存です」

「ということらしいよ、母さん。残念でした」

「はー……やっと片づく思うたのに。まだ息子の心配せなあかんのかいな」

「別に心配してもらわなくても、俺はちゃんと生活できてるからご心配なく」


 再び先輩がスン顔になる。


「ほんまかいな」

「そこいらの、下宿してる学生と一緒にしないでください。いや、今の学生だって、ちゃんと生活してる人間のほうが多いと思う。昔のままのイメージで考えないほうが良いよ」

「そんなもんなんかしらねえ……馬越さんはどうなん? 今は学生さんやないけど、去年までは学生さんやったんよね?」


 去年まで『今の学生』だった私に質問のお鉢が回ってきた。


「そうですねえ……実は私、片付けとか苦手なので、物を増やさない生活を、学生の頃からしてます」

「最近よく聞くようになった、断捨離だんしゃりとかいうやつなん?」

「断捨離しなきゃいけなくなる事態にならないように、可能な限り新しいものは増やさないと言いますか。もちろん、必要最低限の家具はありますけどね」

「ほらね。俺だって似たようなものだよ。足の踏み場もないような部屋に住んでるわけじゃないから、そこは安心してくれて良いよ」


 先輩はそら豆を食べながら言った。


「まあそこまで言うなら? 信じておくわ」


 と言いつつ、お母さんの顔からすると半信半疑といったところだろうか。


「そう言えば馬越さん、ここに来てから、ご飯は食べてへんかったね。ビールもそんなに飲んでへんようやし、もし良ければ、お婆さんのお漬物と一緒に、お茶漬けでも食べる?」

「お茶漬け!!」


 とうとう来てしまった! お茶漬けが!! 伝説のブブ漬けが!!


「変な顔して、どないしはったん?」


 お母さんが言うくらいだから、きっとその時の私は、ものすごい顔をしていたのだと思う。先輩がこっちをのぞきこみ、笑い出した。


「母さん、馬越さんにそれは禁句だ」


 先輩はくすくす笑いながら言う。


「それて?」

「お茶漬け食べるかって質問」

「ほな、どう言うたらええん。他に言いようがあらへんやん?」


 先輩はフヒッと変な声をもらした。


「どこで仕入れて来たのか知らないけど、ブブ漬けを食べろは京都では『早く帰れ』のサインだって、思いこんでるんだよ、馬越さん。だから今の馬越さんは、母さんに『さっさと帰れ』と言われたと思っているのさ」

「そんなこと言うたら、ご飯食べるとこはどないするん。最後の〆にお茶漬け出すとこ多いのに」

「そうなんだけどね。東京ではそんな噂が流れているらしい」


 単なる噂ではなく、テレビのバラエティー番組で言われていたのだが。


「そんな遠回しなこと言わへんよ? 帰ってほしい時はちゃんと、お帰りくださいて言うから」

「少なくとも、ここでお茶漬けの話が出ても、それは帰れってことじゃないから。安心して食べたら良い」

「そうなんですか?」


 一度だけならまだしも、何度もテレビで話題になっていたのだが。先輩の言葉を真に受けて良いものだろうか? なにせ先輩も生粋の京都人だし。


「まったく疑り深いねえ。じゃあ、俺も食べるから。それなら問題ないだろ? お婆さんのぬか漬けと白ご飯、二人分お願いします」

「はいはい。お店で出してるご飯、京都府産の京式部きょうしきぶってお米をつこうてるんよ。なかなかみやびな名前やろ?」


 お漬物をお皿に盛りつけて私達の前に出すと、ご飯をお茶碗によそう。そして大きめの急須。


「うちは煎茶をつこうてるんよ。ああ、お茶漬けにしなくても、お漬物とご飯だけでもかまへんからね。好きにお食べ」


 そう言うと、お客さんから追加注文の声がかかり、お母さんはカウンターを出て、お客さんの席へと行ってしまった。


「あの、本当に違うんですよね?」

「当たり前だろ? そもそもお客さんに早く帰れなんて、よほどのことがない限り言わないから」

「よほどのことって、今まであったんですか?」


 お漬物を取り皿にとりながら質問をする。


「一度だけだけど、歓迎会の二次会かなにかで来た客が暴れたことがあってね。その時はさすがに追い出した。あそこにいる常連、府警のOBでね。今は民間の警備会社の社長してるけど。あの人が追い出したんだよ」


 先輩がアゴでさしたのは、準備中の札を持って入ってきた常連のお客さんだ。注文を取りにいったお母さんと、楽し気に話をしている。その表情を見て、なにかピーンと来るものがあった。


「ほーん……」

「なに? なにか気になることでも?」

「あのですね。もしかして、先輩のお母さんとのことをお婆さんに邪魔されているのって、あの方じゃ?」


 ひそひそと話す。先輩の顔を見上げるとニヤッと笑った。


「まじっすか」

「さて、どうなんだろうね」

「えー、なんでそこで話をはぐらかすんですか」


 しかし正解なのは間違いなさそうだ。


「いやまあ、当人同士の問題ってのもあるからさ。俺は別にかまわないと思ってるけど」

「常連さんとして長いんですか?」

「かなりね。俺が中学生の時からここに通ってるから」

「うっわー、めっちゃ粘ってますね。応援したくなってきました」


 先輩が中学生の頃から? ということはもう何年? もしかして何十年?


「静かに見守ってあげてくれ。もしかしたら今の関係が、本人たちにとって一番なのかもしれないし」

「大人って色々あるんですねえ」

「そういうこと」


 先輩がお漬物をポリポリしてご飯を食べ始めたので、私もお箸をとった。キュウリを一口。スーパーで売られているぬか漬けとは全然味が違う。


「いいなあ、先輩。好きな時にこれが食べられるなんて。めったに実家に顔を出さないなんて、本当にもったいない。私が先輩のかわりに、ここの子になりたいぐらいですよ」


 そう言うと、先輩は笑った。


「実家のお母さんが聞いたら、悲しむんじゃ?」

「東京のお母さんのご飯と、京都のお母さんのご飯、どっちもおいしいですよ。おいしいご飯を作ってくれるお母さんが二人なんて、最高じゃないですか」

「だからって、うちの母親の申し出にはくれぐれも乗らないように」

「わかってますよ」


 先輩が私の返事に疑わしいげな顔をしたが、そこは気にしない。

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