第十四話 神の手、馬の手、丹波の手

「今日はいいお天気で良かったですよ」

「特に丹波たんばは黒いから、乾くのが早そうだ」


 丹波がお日様を浴びて自然乾燥をしている間、私はくらを抱えて厩舎きゅうしゃに戻った。


「ああ、そうだ。馬越まごしさんは明日、研修で一日不在なんだっけ」

「はい。本部の交通課での座学と実技研修なので、こちらには出てこれないかと」


 明日は交通課での研修がある日。騎馬隊は、登下校中の子供達の見守り任務をすることがあるので、この手の研修は必須だ。


「そうか。丹波が来て初めての、馬越さん終日不在の日か。丹波が大騒ぎしなければ良いんだけどな」

「先輩がいるから大丈夫ですよ」

「だと良いんだけどねえ」

「明日は丹波をよろしくお願いします!」


 片づけを終えて丹波のもとへと戻る。丹波は目を閉じてウトウトとしていた。


「よく立ったままで寝られますね」

「夜は体を横にして寝る子もいるけど、うたた寝程度なら立ったままが多いかな」


 そっと洗った場所をさわる。黒い毛並みは太陽光をよく吸収するので、もうポカポカだ。完全に乾くのも時間の問題だろう。汗を流した音羽おとわ号が、水野さんに引かれてやってきた。そのあとから愛宕あたご三国みくにもやってくる。4頭が横一列にならび、乾かすための日向ぼっこを始めた。


「丹波、洗ってる時に粗相そそうをしたんだって?」


 音羽の背中をなでていた水野さんが、笑いながら話しかけてくる。


「そうなんですよ」

「馬越さんの洗い方が、よほど気持ち良かったとみえますよ」

「へー。馬越さん、もしかして神の手の持ち主じゃ?」

「どんな手ですか、それ」

「天才外科医がゴッドハンドって言われるだろ? あれだよ、あれ」


 自分の手を見下ろしながらもう一度、首をかしげる。特に洗う作業の練習をしたわけでもないし、実家のハチマルをなでても、そこまで気持ちよさげな様子を見せてくれたことはない。もしかして馬に対してだけ特化した神の手とか?


「他の馬にも通用するんでしょうかね、それ」

「どうかな。音羽で試してみる? 今ならなでても噛みつかないと思うよ?」

「えー? 本当ですかー?」


 触ったとたん、目をむいて噛んでくるのでは?と警戒する。


「だいじょうぶだよ。長いこと相棒をしている俺が言うんだから」

「試すなら、愛宕か三国のほうが安心安全な気が」

「2頭はお爺ちゃんだから、どんな手でも気持ちよさげにするよ。試すなら、若い音羽のほうがはっきりする」


 納得がいくようないかないような。


「それ本当ですか? 音羽に私を噛ませようとする、水野さんの策略では?」

「なんで俺が、そんな策略を考えるのさ」

「自分だけが噛まれたのが納得いかないから」


 それを聞いた先輩や脇坂わきさかさん達が爆笑した。その様子を見て確信する。私が言ったことは、あながち間違ってはいないらしい。


「そりゃまあ確かに? 音羽に噛まれたのが俺だけってのは、いまだに納得いかないよ。だけどそれだったら、噛ませる相手は牧野まきのとか他を選ぶさ。わざわざ馬越さんを選んだりしないよ」

「そうですかあ? だったら……」

「え、ちょっと馬越さん。水野さんのその説明で納得するわけ?」


 先輩が異議ありと声をあげた。


「え? それなりに説得力あるかなって。ダメなんですか?」

「その話でいくと、そのうち俺は音羽に噛まれるってことじゃないか。俺は納得いかない」

「だそうです、水野さん」

「そんなのどうでも良いじゃないか。馬越さんの手が神の手かどうか、確かめてみたくないのか?」

「噛まれることがどうでもいいとか……」


 ブツブツと文句を言っている先輩をよそに、私は音羽に近づくと背中に手をのばす。それまで目を閉じていた音羽が、気配に気づいたのか片目をあけてこっちを見た。だが日向ぼっこが気持ちいいのか、今のところ噛みつきたそうな様子はない。そのまま背中に手をつけてなでてみる。


「毛並み、丹波より柔らかいですね」

「馬にもいろいろあるからね。人間の髪質と同じってやつかな。硬いのもいれば柔らかいのもいる」


 なで続けていると、音羽が大きく息を吐き目を閉じた。


「おお。注文が多い音羽が最初からうっとりしてる。これはまさに神の手というか、馬の手の証拠だな」

「そうなんですか?」


 しばらくすると、音羽がブルルッと鼻を鳴らし、首を私のほうにかしげてくる。


「これってどういう?」

「そっちばかりなでてないで、反対側もなでろってことだね」

「なるほど」


 移動しようとすると、後ろから強く引っ張られた。


「?」


 なにか引っかけた?と振り返ると、丹波が作業着の上着を噛んでいる。


「ちょっと丹波君?」


 上目遣いで私を見ると、グイグイと自分のほうへと引っ張り始めた。


「ちょ、なにしてるの」

「おやおや、行くなって言ってるのか? あ、もしかしてヤキモチか?」


 音羽が目をあけて軽くいななく。こっちはどうやら「早くしろ」と催促しているらしい。そのいななきに、丹波は前足で地面を一蹴りし、音羽に顔を向けると鋭くいなないた。予想外の反抗に、音羽がドキマギしているのが伝わってくる。二頭のやり取りを見ていた先輩たちが笑い出した。


「うっわ、音羽が押されてる」

「めちゃくちゃ珍しいことになってるな」

「もしかしてこれは下克上げこくじょうか?」

「やるなあ、丹波」


 先輩は笑いながら丹波の背中をたたく。丹波は腹立たし気に鼻を鳴らすと、再び前足で地面をかいた。


「とんだ甘えん坊だな。明日の馬越さんの不在が、今から心配になってきた」

「明日は全員で、丹波のご機嫌とりをするハメになったりしてなー」


 水野さんの言葉に、その場にいた全員が笑う。


「いやあ、そんなことないでしょ。……だいじょうぶだよね、丹波君?」


 丹波は返事をするかわりに、私に軽く頭突きをかましてきた。


「ま、とにかく馬越さんが馬の手の持ち主だってことが、今ここで証明されたわけだ。次に音羽が不機嫌になった時、ご機嫌とりのなでなでをしてもらうから、その時はよろしくたのむね」

「そんなことしたら、丹波が不機嫌になって大変なことになりそうですけどねえ」


 作業着のすそをかじっている丹波を見ながら、ため息をつく。


「ま、嫌われているより、好かれているほうが良いに決まっているけど」


 そう言いながら丹波の頭をなでた。丹波は私の手に頭をこすりつけてくる。そして小さくいななく。


「もっとなでろって? まったく、こまったお馬様ですねえ、君は」


 やけくそ気味に撫でまわしてみた。もしかしたらイヤがるかもと思っていたが、どうやらその考えは甘かったようだ。逆に喜んでて体を押しつけてくる。まいった。これでは収拾がつかない。


「もー、こうなったら! これでどうやー!!」


 なれない関西弁を使いつつ、両手で丹波の体をなでまくる。


「あー……これはますます、明日が不安になってきた」


 喜ぶ丹波とは反対に、先輩が憂鬱ゆううつそうにつぶやいた。


「先輩も同じようになでなでしたら良いんですよ」

「馬の手のマネなんてとてもとても」


 とんでもないと首を横にふる。


「あ、じゃあ、ニンジン人間の隊長を召喚するとか!」

「隊長はお助けモンスターじゃないよ」


 先輩はあきれたように言った。


「でも、どの馬にも好かれてますよね? 個人的には馬の手より、ニンジン人間のほうがすごいと思うんですけど」

「ニンジン体質で馬の手持ちってことが判明したら、ますます隊長はここから異動できなくなるんじゃね?」


 水野さんがおかしそうに笑った。


「退職するその日まで、ずっとここだったりして」

「それはそれですごいかも」


 隊長がどう思うかはわからないが、退職の日までここにいられたら、私にとっては天国だ。


「他人事みたいに言ってるけど、それは馬越さんも同じじゃ?」


 先輩の人差し指が私に向けられる。


「なんでですか?」

「だって馬越さんはすでに、万能の馬の手を持っていることが判明してるんだ。これから先、どんな問題児な馬が来ても、あっという間に手なずけることが可能かもしれない。だとしたら騎馬隊ですごく重宝ちょうほうがられそうだし」

「私はお馬さんLOVEなので、それは願ったり叶ったりですね!」


 本当にそうなればうれしいんだけど。もちろん、心配なことがないわけではない。それは目の前にいる黒いお馬さんのことだ。先輩もそれを察したのか、ニヤッと笑った。


「まあその前に、丹波のヤキモチをなんとかしなきゃいけないだろうけどね。今のままだと、馬越さんが他の馬をかまうたびに、その馬たちが噛まれて蹴られたりむしられたりで、水野さんみたいにひどい目にあうかもしれないし」

「そこで俺の名前を出さないでくれないか、たのむから」


 水野さんが真顔で言った。

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