第十三話 人も馬も清潔に
「
長い時間を馬場で歩き続けたせいか、めずらしく丹波が汗をかいていた。お馬さん行進に参加した他の馬たちも同様で、四頭とも馬専用のシャワー室(という名のシャワー付き馬房)につれていき、ポールに手綱をつないで
「先輩、私が準備している間に、顔だけでも洗ってきたらどうですか?」
汗をかいているのは人間も同じで、丹波に付き合ってジョギングをした
「ん? ああ、すまない。俺、汗臭いだろ?」
私が言ったことを誤解したのか、先輩は申し訳なさそうな顔をした。
「いえいえ、そういうわけじゃなくて。汗をそのままにしたら気持ち悪いでしょ? 私が同じ立場だったら、先輩に丹波を見ていてもらって、水場で顔だけでも洗ってきますよって話です」
「ああ、そういうこと。じゃあ、お言葉に甘えて、顔だけでも洗ってくる。一人で問題ない?」
「だいじょうぶです」
「じゃあ、よろしく」
そう言ってその場を離れた。
「さて、じゃあ丹波君もシャワーだね。良かったねえ、今日は暖かい日で」
蛇口につながれたホースを手に取る。丹波は私の肩越しにそれを興味深げにのぞいた。
「怖がらずにシャワーできるかな? ああでも、考えたら牧場でも洗ってもらってたんだから、初めてじゃないよね?」
ホースを下に向け蛇口をひねる。水がチョロチョロと出始めると、丹波は少し驚いたように顔をあげた。
「んー……ハチマルを初めてお風呂に入れた時のことがよみがえってきた」
ハチマルとは我が家にいる猫のことだ。初めてお風呂に入れた時、それはそれは大騒動で私と弟が大変な目にあった。まさかあんな感じになったりして? 以前にいた牧場の
「……いや、丹波君に蹴られたら、それこそ死ぬよね」
「ハチマルって?」
どうするか悩んでいると先輩が戻ってきた。髪の毛がめちゃくちゃ濡れている。顔を洗ったというより、頭全部を洗ってきたようだ。
「うちにいる猫です。初めてお風呂に入れた時に大暴れして、私と弟を後ろ脚で蹴り倒して逃げ出したんですよ」
「そりゃすごい。たしかにそれを丹波にやられたら、笑いごとじゃないね」
「ですよねー。ところで先輩、どう見ても洗ったのは顔だけじゃなさげなんですが」
「頭皮も顔の一部って、なにかの番組で言ってた」
先輩は真面目な顔でそう言ってみせた。
「いやまあ、それはそうなんですけど。そういうところだけは、男子がうらやましいですね。私だったら、髪が乾くまで大変ですよ」
「だって汗臭いのイヤだろ? 特に女性はそういうのに敏感だって言うし」
「私は弟がいるので、その手のにおいにはそれなりに免疫ありますよ。思春期の男子の臭さと言ったらもうね。特に運動靴とか。あれはちょっとした
先輩がおかしそうに笑いだす。
「いやいや、それこそ笑いこどじゃないですよ。きっと先輩のお母さんも、同じようなこと思ってたはずです。うちの母も言ってましたから」
「かもしれない。こんど帰省したら謝っておくよ。じゃあ、さっそく丹波の汗を洗い流してやろう。待ちくたびれてるみたいだし」
先輩の言葉に手元を見ると、丹波は水が出ているホースの先に鼻を近づけていた。鼻が水に触れてはねると、ギョッとなって顔をあげる。だが懲りずに再び鼻を近づけていった。そしてチラッと私を見あげた。
「ああ、ごめんごめん。お待たせだよ、丹波君」
水量を調節してからお湯になっていることを確かめ、話しかけながらゆっくりと体にお湯をかける。
「うちのハチマルはこの時点でダメでしたね。ものすごい勢いでお風呂場の中を走り回って、私達を蹴り飛ばして逃走しました」
「馬でも落ち着かないタイプがいるけど、丹波はだいじょうぶみたいだな」
ブラシで
「ちょっと丹波君。今は汗を流す程度なんだから、そんなにゴシゴシしないんだってば」
「丹波は風呂好きだってこと、覚えておかないとね」
「うちのハチマルにも見習わせたい……」
我が家の猫とは真逆な行動に押されながらも、なんとかブラシで背中をこする。丹波は小さくいなないて、頭を押しつけてきた。
「密着しすぎもやりにくいものが」
「
「そういうのありますよね。この人に肩もみしてもらうと超気持ちいいとか」
にしても密着しすぎだ。濡れたままだ体を押しつけてくるものだから、こっちの作業着もびしょびしょになってくる。
「私も乾燥が必要になってきました、よ?」
いきなり丹波の尻尾がピョンと上がった。このしぐさ、非常にまずいのでは?
「あ、イヤな予感が」
「あー、これはいけない」
私と先輩が言ったとたん、丹波のお尻から茶色い
「あー……やっぱりー……」
「ま、頭の上に落ちてこなかっただけ、運が良かったと思うしかないな」
「気持ちいいからって、なにもそこまでリラックスすることないのに。丹波君、君は赤ちゃんか」
清潔にするどころか、とんでもないものが出現してしまった。先輩は笑いしながら、横に置いてあったボロ取りに手を伸ばす。ここにこれがあるということは、この道具が必要なことがあるということだ。リラックスするとどこもかしこも緩むのは、人間も馬も同じらしい。
「馬越さんはそのまま洗ってて。丹波の落し物は、俺が捨ててくるから」
「すみません、お願いします」
先輩が落ちたボロを拾い、コンテナに捨てに行く。丹波は先輩が離れたので、どこへ行くんだろうという顔つきをしている。
「先輩は丹波君が落としたブツを捨てに行ったんだよ」
こういうところがハチマルと違うところだ。ハチマルはちゃんとトイレを覚えたが、馬はそうはいかない。覚えられないと言うよりは、覚える気がないといったところか。草や野菜しか食べないのが救いだけど。
「ま、気持ちよくてリラックスできてるのは良いことだけどねえ。あれはちょっとやりすぎだと思うよ?」
そう話しかけながらお湯を止めると、毛に沿って水切りを走らせる。
「お湯はもう終わりだよ。ちゃんと水を切って乾かさないと。ま、この濡れた感じがまた、
おとなしくされるがままになっている丹波。しばらくして先輩が戻ってきた。
「なにをニヤニヤしてるんだ?」
「え? 私ですか? それとも丹波?」
「どっちもだよ」
「どっちも?」
思わず丹波の顔をのぞきこむ。私にはニヤニヤというより、うっとりしている表情に見える。
「丹波はともかく、私はニヤニヤしてませんよ」
「いーや、してた。また黒豆とかそういうの思い浮かべてたんだろ?」
「え、あー……」
先輩はなにもかもお見通しのようだ。
「この濡れてツルツルしてる感じが、
「やっぱり」
「本当に綺麗ですよね、
「それ、どんな親バカ的発言」
私の手が止まっているのに気づいたのか、丹波が腹立たし気に催促をする。
「ああ、ごめんごめん。水切りの途中でした」
「もうすっかりお母さんだね、馬越さん」
先輩はあきれたように笑った。
「私がお母さんなら、先輩はお父さんじゃないですか。丹波君は本当にかわいい息子ですよ」
「その息子のことを、黒豆だとか
「あれ? よく言いませんか? 赤ちゃんのほっぺとか、食べちゃいたいぐらいかわいいって」
「それは言うけど……」
「あれと同じことですよ」
「そうかなあ……そうは聞こえないけど……」
ボロ取りを洗い片づけた先輩は、大きなタオルを持ってきた。そして私が水切りをした場所から、ていねいに拭いていく。
「考えたらこれ、今は私と先輩でやってますけど、本当は一人でやるんですよね」
「うちは、
横では
「丹波が王様気分に慣れてしまう前に、馬越さんには独り立ちしてもらわないといけないな」
そう言われ、おとなしくしている丹波の顔をそっとのぞきこんだ。
「あー、確かにこれは王様気分になっているかも」
「だろ?」
そんな王様気分のお馬さんを拭き終えると、乾いた場所へと移動させた。
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