89.★星が降る夜


 彼女を仲間達のところに飛ばした後、静かになった宿の一室で、たった今まで彼女が居た場所を見つめてしばらく過ごした。


 少し前まで彼女を殺して魔力を魂ごと頂きたいと思っていたのに、いざとなると出来なくて……記憶から消えて、一度他人になる事を選んでしまった。

 絶好のチャンスだったはずなのに手出しが出来なかった。

 何故なのかは分かっている。これはきっと本体の感情のせいだ。

 まさか俺が人間の感情に同調させられるなんて……思うほどには上手くいかないもんだな。


 記憶を封じたのだから、彼女はもうこれ以上俺を追い掛けて来ないだろう。来るとしても助けるためではなく倒すために来るのだと思う。

 構わない。人間など何人束になろうと負けはしない。

 そう思うのに――胸が痛い。忘れられたのが悲しい。これもきっと本体の感情が俺と混ざっているせいだ。

 自分以外の意志と混じり合うと、この程度の事で悲しくなるんだな。

 ずっと一人だったから知らなかった。

 

 知らないうちに頬を伝っていた涙を拭って、床に落ちた魔法銀の破片を踏んで窓際へと歩み寄る。

 窓の外――上空には俺が作り出した闇の雲に女神が開けた穴が開いていて、そこから夕暮れ色の光が覗いていた。

 眩しい。光は嫌いだ。早く全て遮断したい。

 あと少しなのに、あそこだけ聖なる魔力が一際強くて塞ぐことが出来ずにいる。

 おそらく、女神があそこに俺を誘い込もうとしているんだ。

 邪魔な女神。

 あいつの加護のせいで、いまだ思うように動けない。


 ……いや、加護のせいだけじゃないな。

 本体の意志も強かったんだ。彼女が近くに居る時は特に。

 彼女の前では本体の心に俺の入り込む隙が無かった。神にすがりたい気持ちなんてどこにも無かった。

 だけど今はもう彼女は居ない。

 お前は存在すらも彼女の記憶の中から消えたんだ。

 目の前で見ていたお前も知っているだろう?

 そう本体の心に語り掛けると、どこからか悲しみと怒りが湧き上がって来る。

 そうだ。それでいい。

 お前はもう、俺と運命を共にするしかないんだよ。

 その怒りや悲しみを女神にぶつけろ。女神さえ倒す事が出来れば、全てがお前の思うままになる世界が待っている。

 俺とお前が一緒なら何だって出来る。

 俺を頼れ。


 ――嫌だ。冗談じゃない。

 頭の中で勝手に並べ立てられる言葉に反発しているうちにようやく体の自由が戻って来た。

 おそるおそる、窓に映る自分の顔と睨めっこしてそれから手のひらをグーパーして動きを確かめてみる。

 良かった……。俺の意志で動ける。

 思わずため息をつくと、張りつめていた気が抜けていく。

 脱力するのに任せてベッドに倒れ込み、天井を見つめた。

 

“アイツ”はまだ俺を他人と認識している。自分の意思で動く事も出来る。つまり、まだ完全には乗っ取られていない。

 でもいつまで持つか……。正直、どこからどこまでが自分の意思だったのかはっきりしない。

 アリーシャが俺を忘れてしまったのは勿論、悲しい。

 だけど心のどこかで、これが彼女が一番楽になれる方法なのかなと思う気持ちがある。彼女に余計な傷を負わせずに済むのなら――これで良かったような気もしてくる。

 魔力で人の心に干渉するのを良しとするなんて、以前の俺なら絶対にあり得ない事のはずなんだけどな……。

 これも“アイツ”の影響かな。

 もう、分かんないや。


 寝っ転がったまま窓に目を向け、暗闇に閉ざされようとしている空を眺める。

 あの闇魔法の雲、俺が……っていうかアイツがやってるんだよな。

 止めたいのに止められないんだよ。こんな事に膨大な魔力を使うなんて、アイツは馬鹿なんじゃないかと思うけど……きっとアイツにとっては大切な事なんだ。

 魔力の属性が極端に偏るってそういう事なんだな。確かに、ひと通りの属性をバランス良く持つ女神様の元では生き辛そうだ。

 

 ……雲が出現してもうすぐ三日目が終わろうとしている。あの雲が世界の全てを覆い尽くすまであと少し。気温がかなり下がって来た。

 もう、すぐにでも雪が降り始めそうだ。

 このままいけば近い将来、地上は全て氷漬けになるんだろう。移動中に観察してきた限り、植物は既にかなり弱ってきている。


 女神様が俺にくれた時間はまだ残っているけど――もう、それに甘えるべきじゃないな。

 今夜にでも終わらせて貰おうか……。


 アリーシャが居なくなった上に彼女の中から俺に関する記憶が消えた。そのせいか、俺の中から生への未練のようなものが消え去っていた。

 女神様は俺を眠らせてから殺してくれるって言っていた。

“その時”を迎えるのはもちろん怖いけど、それだけだ。恐怖以外の感情は無い。

 彼女が――アリーシャが幸せに暮らしていけますように、って気持ちはあるよ。でもこれは祈りとか願いであって感情とは違う。

 大丈夫だよな。アリーシャは可愛いし強いし、近くで支えてくれる家族だって居る。

 女神様だって彼女を見守ってくれると約束してくれた。彼女は必ず幸せになれる。


 唯一の肉親――ラヴにだって既に家族が居るし、何より新しい命を授かっているから。不安定な時期にあまり心労を掛けられないよな。

 早く、光を返してやらなくちゃ。


 覚悟を決めた。

 起き上がり、もうすっかり夜になっていて真っ暗な部屋を片付け、廊下に出る。

 階段を降りると宿の主人が掃除をしていて、一人で出て来た俺を見付けキョトンとしていた。


「ちょっと出て来ます」


 声をかけて宿の外へ。

 真冬みたいに冷たい風が肌を刺すように吹き抜けていく。

 森に入る前にふと公爵がリディルの村長夫人の手作りクッキーを所望していた事を思い出して、村長の家を訪ねた。

 

「おや? 君は……」


 急な訪問だったけど夕食時だったおかげか村長は家に居て、扉を開けるなり俺の顔を見て目を丸くした。


「君はあの時の子じゃないか!? 数年前、村に魔物が居座った時に助けてくれたパーティに居た」


「覚えててくれたんですか? っていうか、俺が分かるんですか?」


「もちろん! よーく覚えているとも! なんたってあの時の子が我が村の新しい領主様になったって公爵から通達が来ていたからね! おい、婆さーん!」


 あの時とは頭の色とか違うんだけど、村長は分かってくれたらしい。

 村長に呼ばれて奥から出て来た夫人は、俺を見てぱぁっと顔を輝かせて駆け寄って来た。


「まぁまぁまぁ! あの時の子――新しい領主様じゃないか! こんな時によくお見えになりましたね! お一人? ああもう、そんなところに立ってないで中に入って下さいな!」


「お、お構いなく」


 村長夫人も覚えていてくれたらしい。領主様と呼ばれて戸惑っているうちに家の中に引っ張り込まれてしまった。

 そっか。俺、まだここの領主だったんだよな。

 女神様に死んでくれと言われて以降、すっかり返上したつもりになっていた。


「少し待っていて下さい! 今お茶をお淹れしますからね!」


「いえ、本当にお構いなく。すぐに出発しますので――」


「出発? どこに?」


「えーと……討伐、に」


 歯切れの悪い言い方になってしまったけれど、村長はあからさまにホッとした表情を浮かべた。

 

「ああ、なるほど! 真っ黒くて巨大な雲が空を覆ってこの先一体どうなるのかと皆不安がっておりましたが、領主様自ら討伐に! それなら安心だ。良かった……!」


 やっぱり皆不安だったようだ。……まぁ、当然だよな。


「で、本日は私めに何か御用があっていらしたんですよね? どのようなご用件で?」


「公爵がご夫人の手作りのクッキーを食べたいと言っていたので、それを伝えに」


 すると村長の横でじっと俺を見ていた夫人がその丸い瞳を瞬かせて頷いた。

 

「まぁ……公爵が。分かりました。作っておくので、お帰りの前にまたお立ち寄り下さいな」


「いえ、出来れば公爵家に直接送ってほしいんです。お願い出来ますか?」


「あら。村には寄らずにお帰りになるのですか? それは残念ですわ……」


「婆さん、無茶を言うな。領主様はまだ学院生なんだ。卒業するまでは王都に居なきゃならなんのだぞ」


「そうね。そうでしたわね。……では、お言い付けの通り公爵にクッキーを作ってお送りしますわね。それで領主様、来年か再来年か分かりませんけど――学院を卒業してご結婚なさったらこの地でお住まいになるのですよね。私達、その時を心待ちにしておりますのよ。色々大変だと思いますけれど、応援していますから頑張って下さいね」


 曖昧に笑ってやり過ごした。上手く笑えていただろうか。分からない。


 村長の家を早々に辞して森に入る。目指すは聖なる力に満ちた泉だ。

 村から離れたところで“声”に魔力を込め、女神様に呼び掛けてみる。


「女神様。もうじゅうぶんなので……今夜にしましょう。リディルの泉で待っています」


 声は届いたはずだ。

 暗い森の奥深くへ分け入り、闇魔法の雲にぽっかりと開いた穴の真下の泉へ。

 雲の向こうにはきらきらした星空が広がっていて、澄んだ水面に無数の小さな光が映り込んでいた。

 綺麗だな。


 当然ながら聖なる力に満ちたこの泉と今の俺はとんでもなく相性が悪く、相反する属性の魔力がぶつかり合って俺の周囲にパチパチと火花のような光が散る。

 ここまで強い魔力スポットは初めてだ。

 居るだけで体力が削られていく……。


 そうか、女神様はこれを狙っていたんだな。


“アイツ”を弱らせるために女神様は泉を聖なる力で満たしたのだ。

 そう思ってしゃがみ込み、協力するつもりであえて水に手を入れてみる。

 だけど出来なかった。お互いの魔力が強く反発し合って、まるで膜が張っているかのように水面で跳ね返されて中に手が入っていかないのだ。

 表面を撫でるに留まった水面は俺が触れたところから静かに波紋が広がり、星空をチラチラと揺らした。

 こんな事ってあるんだ……。

 常識外れの力がぶつかり合うと、常識外れの事が起きるんだな。

 感心して、足を乗せてみる。沈まなかった。両足で水の上に乗り、動くたびに波紋が広がるのを眺めながら歩く。

 泉のど真ん中で立ち止まって空を見上げた。


 静かだな。


 上も下も星空で、綺麗だけど怖かった。

 水面に寝っ転がり、星を眺めながら女神様を待つ。

 しばらくすると不意に強い眠気がやって来て、いよいよその時が来たのだと思って目を閉じた。

 ――閉じた、はずだった。

 眠ったはずなのにはっきりと星空が見える。真っ白いフクロウが上空を横切るのも見える。


 起きているのは意識だけのようで、体はピクリとも動かなかった。金縛りだ。

 その時、チカチカと瞬く無数の星がひときわ大きく輝いた。闇魔法の雲が割れて隙間から星空が覗く。

 星が流星となって俺に向かって一斉に落ちて来た。

 星が落ちて来る……?

 いや、良く見ろ。あれらは星ではない。剣だ。女神が創り出した剣がお前のところに落ちて来ているのだ。

 ああ、本当だ。白い短剣だ。たくさんの短剣が流星群みたいに降って来る。

 それを見た瞬間、誰にも言えずに押し込めていた恐怖心が堰を切ったようにあふれてきた。

 怖い。

 そうだ。怖いだろう。全て打ち砕け。


 恐怖心とアイツの声、それらと共に頭の中にこれまでの思い出が一気に浮かび上がって来る。

 家族、幼馴染、街で出会う顔見知りの人達。色々あったはずなのに、浮かんで来るのは皆の笑顔ばかり。

 そうか。俺、ずっと幸せだったんだな。

 思い出の中の皆は笑顔でそれぞれの居場所へ帰って行き、俺はそれを見送る。

 一人、また一人と去り、最後に残った人は――全然笑ってなんかなくて。

 顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

 

 ……アリーシャ。

 泣かないで。

 

 俺、本当は君に忘れられたくなんて無かったよ。また君に会いたい。明日も明後日もその先もずっと、君と過ごしたかった。

 無いものとしたはずの未練をはっきりと自覚した時、頭の中に声が響く。

 

 ――俺が力を貸そう。

 

 大きな力に呑まれる感覚がした。本能がヤバいと告げてくる。俺とアイツを分けていたものが壊れていく。

 眠らされたはずの体が動き、飛び起きた。目前まで迫って来た短剣を闇属性を纏った手で薙ぎ払う。短剣は砕け、飛び散って次々に水面に落ちて行きあちこちで水飛沫が上がった。

 女神が上空を横切ってから、ほんの僅かな間の出来事だった。


 あの白い鳥を倒さなければ。


 そう思って無数に降り注ぐ短剣の内一本を示指と中指で挟んで止め、切っ先を反転させて上空の女神に向かって投げ返した。

 一本目は避けられた。二本目は羽根に掠った。三本目は刺さった。

 続けて四、五本目を当てたら女神の姿がふっと消えた。

 

 逃げられてしまった……。


 まあいい。そのうちまた現れるだろう。決着はその時で。


 陸地に戻ろうとした時、足元の泉から急速に聖なる魔力が失われ始めた。うっかり沈みそうになって、慌てて黒水晶を創り出し足場を確保する。

 創り出したばかりの中州から周囲を見渡すと、森や草木がまるで時間を早めたかのように急激に枯れ始めていくのが見えた。

これは女神が弱っている証拠だ。

 俺は別に世界をめちゃくちゃにしたい訳じゃないから、枯れてしまうのは残念に思うけど……仕方ないのかなとも思う。


 ともかく、女神を退けた今、俺がするべきなのは居場所を創る事だ。

 ああ、そうだ。ちょうど良い。この泉にしよう。


 足場にした黒水晶の中州を更に大きく広げ、そこを土台に同じ黒水晶でステュアート公爵家を模した城を創り上げた。

 なぜ公爵家かって?

 だって、俺はアイツと約束したんだ。愛する彼女と、明日も明後日もその先もずっと一緒に過ごすって。

彼女が暮らす場所なら、慣れた家と同じ形が良いだろう?


 彼女は俺を忘れてしまったけれど、また出会うところからやり直せばいいんだ。

 なんの問題も無い。


 ……でも、さすがに少し疲れたな。再会に備えて体を休めておかなくては。

 

 泉に浮かぶ黒水晶の城に入り、間借りしていた客室と同じ部屋でベッドに体を横たえる。

 起きたら彼女を迎えに行こう。

 そう思いながら眠りについた。



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