72.旅立ち


 朝起きたら、世界が変わっていた。


 妙に薄暗いなと思ったら空が黒いのだ。貴族街の上空に黒い雲が広がっている。

 周囲の空の青さと黒い雲の境目がはっきりしていて、とても不気味。

 ただの曇り空とは明らかに違う、まるで視界を遮る闇魔法のような真っ黒い雲だ。

 一目で、異常事態だと分かる。


「ああ、おはようアリス」


「お父様。……お兄様も。どうなさったんですか? 朝からそのような格好で」


 外から邸内に戻ってきたお父様とお兄様は作業着姿だ。

 うちは生業の性質上、敷地内に鍛冶工房があるのだけど、そこにいたようにしか見えない。


「魔道具を作っていたんだよ」


「お父様がですか⁉ 珍しいですね。何の魔道具を?」


「前にアリスが作ったモンスターの遭遇率を上げるやつをね。ちょっと弄って、逆に下げるものを作ってたんだ。……今思うと、あれって画期的だったよね。正直、そういう事にまで魔道具の力が及ぶとは思ってなかった。ただ、ゼロには出来ないみたいだね。魔法銀でも耐えられないみたい。七十よりゼロのほうが負荷が大きいというのは新しい発見だったかな」


「そうですか……。あの、それってあの黒い雲と何か関係があるんですか?」


「あー……。まあ、そうだね」


「昨日ハヤトに来た依頼とも?」


 お父様は頷いた。

 何だかただ事ではない雰囲気だ。


「夜のうちに陛下とも色々話したんだけど、学院はしばらく休校にするってさ。どの家も有事に備えるようにって事で。だからアリスもお休みだよ」


 有事。

 昨日の今日で陛下がそう認めるほどの事なの?


「わかりました。私も何かお手伝いしましょうか」


「いや、今は取り敢えず大丈夫。もう生産ラインは整えたから、あとは職人達がやってくれる」


「そうですか。……じゃあ、ハヤトは? まだ帰ってきてないんですか?」


「……帰ってきたよ。でも今は町に出てる。用事があるとかでさ。その用が終わったらまたすぐに出るみたい。なんかね、ちょっと大変な敵が出たから討伐しに行かなきゃいけないんだって」


「え!?」


 大変な敵!?

 あの人が出直さなくちゃいけないような魔物が出たの!?

 お父様の後ろにいるお兄様は目がギラギラしていて、一刻も早くこの場を動きたそうだ。


「父上、僕は先に行きますね」


「ああ。一眠りしたらまたすぐに始めるから、起きたら作業場に来なさい」


「了解しました! さっそくノートに案をまとめてきます!」


「ちゃんと寝なさいって」


 お兄様は珍しく機敏な動きでさっさか歩いて自室に向かう。

 その背中を見送ってから、私はお父様に気になる事を訊ねた。


「いったいどのような魔物が出たんですか?」


「えーとね……。説明が難しいんだけど、とにかく影響力の強いやつみたいだよ。そいつを放っておいたらあの黒い雲が世界中の空を覆ってしまうんだって」


「まぁ! それは……大変ですね! 途方もない力の持ち主ではありませんか」


 思ってた以上のスケールの大きさ!

 絶句していると、お父様は少し悲しそうな顔をした。


「そう。だからハヤトなんだよね。きっと、他の人じゃ足りなかったんだ。……あの子、これから少し遠いところに行くんだって。ごめんね、アリス。ちょっと忙しいから私ももう行くよ。急いで作らないといけないものがあるんだ」


「……まだ何か作るのですか?」


「うん。隠しようがないから話すけど、うち、今日から武器や防具も作る事にしたんだよ」


「えっ!?」


「もう、陛下にも話した。色々言われたけど、必要性は分かって貰えた。まずは試作品を用意して、陛下にどんな物か確かめてもらってから本格的に開発を始める事になってる。今すぐ剣と盾を用意しなくちゃ」


 お父様はそう言って私の頭をポンポンして自室へ足を向けた。

 本当に昨日とは世界が変わっている。武器関連には手を出さないって言っていたのに、それを一晩で翻してしまうほどに。


 それって、ハヤトが該当の魔物を倒せば収まる話じゃないって事よね。

 何が起きているのかしら。

 詳しく知りたいけど、お父様もお兄様も忙しそうだし、ハヤトも今はいないし。

 誰に聞けばいいのか分からない。

 取り敢えずお母様に会ってみよう。

 何か知っているかもしれない。そう思って、お母様の部屋に向かった。


「……お母様。おはようございます」


「あら、おはようアリス」


 お母様は鏡台に向かって侍女に髪を整えてもらっているところだった。

 コテでくるくるに巻いて、その髪を結い上げるのがいつものお母様のスタイル。

 今日もいつも通りに、長い髪を巻いてもらっている。


「お母様、何だか大変な事になっているようですけれど、何か事情をご存じですか?」


 鏡台の横に腰掛けて訊ねると、お母様は鏡から目を逸らさずに暫く黙り込み、やがて小さな声で答えた。


「……知らないわ」


「……嘘」


「知らないの」


 お母様は目も合わさないまま、そう言ったきり口を閉ざしてしまった。

 何も知らないなんて絶対に無いはず。だけど教えてくれるつもりはなさそうだ。

 この状況、ひしひしと悪い予感に満ちてくる。


「そうですか……。分かりました」


 お母様は口を割らないって事がね。

 ハヤトなら教えてくれると思うけど、通信機、対で渡しちゃったから連絡の取りようがないな……。

 町に探しに行きたい。でも入れ違いになるかもしれないと思うと……帰りを待つしかないのかな。

 いつになるか分からない。そうだ。一応、お兄様にも聞いてみよう。


「お兄様、少しよろしいでしょうか」


 邪魔を承知で聞くだけ聞いてみようとお兄様の部屋に行ってみた。

 すると扉を開けてくれたのはラヴで、声を潜めて出迎えてくれた。


「おはようございます、アリーシャ様。クリス様はですね、たった今寝落ちしました」


「寝落ち? ついさっき異様に張り切ってたのに?」


「はい。昨晩遅くに公爵に呼び出されて……、それから今までずっとお仕事をしてなさっていたようなので、無理もないかなーと。もし私でも聞けるご用ならお伺いしますけれど……どうなさったのですか?」


「えぇと……昨夜、ハヤトが指名依頼を受けて出て行ったのはご存じ?」


「え? そうなのですか? ……申し訳ありません、今、それを知りました」


「そう……。じゃあ、あの黒い雲の事も何も?」


「はい。私もクリス様が戻られたら聞いてみようと思っていたのですが、声を掛けるのも憚られるような鬼気迫る表情で戻って来られて……。なにか書き物を始めたと思ったら突然気力が切れたように眠ってしまわれたので、まだ何も聞けていないんです」


「体力がないんですよね、お兄様って」


「それは仕方がない事ですわ。クリス様は私達兄妹のような野生育ちとは違いますもの」


「野生って」


 お兄様が温室育ちのもやしなら、ハヤトやラヴは野に咲く薔薇か何かだよ。

 もやしと野薔薇。何か凄い組み合わせだな。って、そんな事はどうでも良くって。


「じゃあ、ラヴも何が起きているのか知らないんですね」


「はい。お役に立てなくて申し訳ございません」


「いいんです。ところで、体調はどうですか? 食欲はあります?」


「はい。少し気持ちが悪い時がありますが、いちごだけは不思議といくらでも食べられるんです」


「あ、レモンじゃないのね」


「ふふ、私も噂では酸っぱいものを食べたくなるって聞いた事がありましたが、本当に甘酸っぱいものが美味しくって……たくさん用意してくださったクリス様や皆様には感謝しかありません」


「食べられるものがあって良かったです。……じゃ、お邪魔しました。ゆっくり過ごしてください」


「いえいえ! 良かったら朝食をご一緒に……と思ったのですが、ちゃんとした食事は今はちょっと食べられそうになくって……。粗相をしたら申し訳ないので、大人しくお部屋で過ごさせて頂きます」


「ええ。その方が良いと思ういます。お大事にね」


「ありがとうございます。では、クリス様が起きたら話を聞いてみようと思います。何か分かったらお伝えしますね」


「ありがとう」


 部屋を辞して、他に話を聞けそうな人は家令のジェフリーかしら、と思って会いに行ってみたものの、彼もお父様に用事を言い付けられて外出中だと聞かされ、当てを無くしてしまった。

 ハヤトの帰りを大人しく部屋で待とうかと思ったけれど、時間の進みが異様に遅く感じてそわそわしてしまう。


 せっかくだから、今のうちに魔道具を作ってみようか。


 以前改造に失敗した眼鏡、あれなら術式を書ける。

 けど、まだ眼鏡を買ってなかったな……。

 今手元にある素材を使うとなると、アクセサリーか衣類しかない。


 ……衣類か。

 ペチコートの裏側につけた影収納は良かったな。

 袋や鞄を持ち歩く必要がないのだから、利便性は高い。

 ただ、ペチコートは(私は)戦う時には身に付けていないだろうし、何より出し入れがしづらいと思う。

 スカートの裏側なんて、普通の神経の持ち主なら戦闘中に手を突っ込むんだりしない。それじゃ使い勝手が悪い。

 となると――マントの裏側かな。

 遠出する冒険者の必需品。

 男女の区別なく身に付けられるし、面積が広いからある程度大きなサイズのものも入れられる。


 いいじゃない。やってみよう。


 クローゼットから例の姐さんマントを取り出し、素材を確認してみる。コットンとウールの混紡だ。

 頑丈だけど、術式への耐性はあまり高くなさそうね……。

 防御力を少し上げるとかならこれでいいけど、影収納をつけるには心許ない。

 布だと絹が魔道具との相性が良さそうなのよね。ペチコートも絹だったし。

 でも普通のシルクは摩擦に弱いから冒険者用のマントには微妙かなぁ……。

 それでも、マントに影収納をつけるのは絶対に便利だから何とかならないかな。


 考えた結果、裏地としてシルク生地を縫い付けて、そこに術式を書き込む事を思い付いた。リネンにシルクのシーツがあるので、それを流用させてもらう。

 様々なカラーがある中からちょうど良い感じのブラウンを選び出し、マントのサイズに切り出す。多少雑ながら針と糸でちくちく縫い付けていると、いつの間にか時間が経っていたようで。

 ほぼ縫い付けが完成という頃に、コンコン、と扉をノックされて返事をした。

 するとハヤトが入ってきて。


「あら! お帰りなさい!」


 針を置いて立ち上がり、彼の元へ駆け寄る。

 両手を広げてくれたので迷わずそこに飛び込み、ぎゅうっと抱きしめ合った。


「……アリス、会いたかった」


「私もです。なんだか長いこと離れていたような気がしてしまいます。たった一晩、近くにいなかっただけなのに」


 少し体を離して顔を見たいのだけど、彼の腕が緩まなくて見られない。

 仕方ないので、胸板に顔をくっ付けたまま話をした。


「大変な事になっているみたいですね。とんでもない魔物が出たとか……。貴方が討伐しに行くとお父様から聞きました。大丈夫なんですか?」


「……どうかな」


「え、そんな不安になるような事言わないで下さいよ」


「……こればっかりは、終わってみるまで分からないんだよ。ねえ、アリス。もししばらく経っても俺が戻って来なかったら――俺の事なんてさっさと忘れて、幸せになるんだよ」


「やめて下さい。冗談じゃないです」


 無理やり体を引き剥がして顔を見上げる。


「貴方が帰って来なければ探しに行きます。見付かるまで諦めません。私から逃げられるなんて思わないで下さい。……っていうか、一緒に行きませんか? うち、武器や防具の魔道具化も始めるんですって。その力を借りれば、私だってそこまで足手まといにはならないと思うんです」


「え、そうなの? 公爵がそう言ったの?」


「はい。お父様から直接聞きました」


「そうなんだ……。武器や防具を……そっか、仕方ないのかな」


「陛下も現状を有事と認識しているようなんです。魔道具としての武器は、実際に使い始めれば課題も出てくる事でしょうけれど……きっと何とかなります。私も連れて行ってください」


「それは出来ない」


「どうしてですか?」


「……どうしても」


「そんなの答えになってないです……。じゃあせめて何が起きているか教えて下さい。貴方が受けた依頼と黒い雲に関わる魔物って、いったいどんなものなんですか? そんなに強いんですか?」


「強いっていうか……。特殊なんだよ。行くのは俺だけでいいんだ」


 彼はそう言って壁に手をつけた。

 そこに作り出した影から、何か黒いものを取り出す。


「なんですか、それ。……剣?」


 鏡のように光を反射する、艶のある漆黒の剣。

 美術品のようなそれをハヤトはじっと見つめ、私に差し出してきた。


「これ、アリスにあげる」


「どうして?」


「頑丈で凄くよく斬れるし、妙な呪いはくっついてないみたいで安心したから」


「妙な呪い? どういう事なんです?」


「これで、身を守ってほしい」


 質問には答えてもらえず、ぐっと半ば押し付けるようにして渡された。


「あと、これも」


 そう言って自らの首もとに手をやり、服の中から金色の鎖を取り出して――私のタグを、外した。


「返しておくね」


「え、ちょっと」


 しゃら、と頭から鎖を掛けられ、金のタグが私のところに戻ってきた。

 戻ってきたと言う割に自分でつけるのは初めてな気もするけど、それは置いといて。


「……どうして?」


 こんなの、別れの挨拶みたいじゃない……。

“そうだよ”と言われるのが怖くて、口に出せない。

 彼は何も言わず再び抱きしめてきた。私からも抱きしめ返したい。でもそれをすると、まるで別れを受け入れるみたいで出来なかった。

 何かを決定的に変えてしまうのが怖くて、動く事も話す事も出来ずにただ立ち尽くす。


 しばらくそうした後、彼は私から離れて


「……じゃあね、アリス。愛してるよ」


 そう言って、部屋から出て行った。私は剣を抱えたまま呆然とし、しばらく経ってふと我に返る。

 

 ……これ、良くないと思う!

 こんな別れ方ないって!


 いや、本当に今のが別れの挨拶だったかどうかなんて分からないけど!

 少なくともその可能性を意識はしていたと思う。じゃなきゃ私のタグを返してくるなんてしないはずだ。

 どんな強敵か知らないけど、これで終わりなんてない。


 ふつふつと闘志が沸き上がってくる。

 魔道具の力とハヤトの力を合わせれば、勝てない敵などこの世に存在しないのだ。絶対に。


 部屋を飛び出して、廊下を走る。

 

 追い掛けなくちゃ。


「お父様! まだいらっしゃいます!?」


「うわっ! 何、アリス。まだいるよ。どうしたの?」


「お金を貸して下さい!」


「は?」


「旅に出ます!」


 私、足手まといになんてならないよ!


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