68.★さよならの始まり
目を泳がせながら考え込むクリス様。
何だろう……。
女絡みかな。こっそり遊んでいたのがバレた?
……いや、それはない。クリス様はそんな人じゃないって、俺は信じてる。
だからラヴを嫁に出すと決めたんだ。
固唾を飲んで見守っていると、しばらくしてクリス様は首を傾げて降参の意を伝えた。
「……ゴメン、考えたけど分からなかった。教えてくれないかな」
アリスはため息をついてラヴの顔を見た。
ラヴも、思い詰めたような顔でアリスを見て小さく頷く。
ああ、何だか困った話になる予感しかしない。もし万が一、婚約を取り止めたいとか言い出したらどうしよう。
どんな事情があったのか、話を聞かないと何とも言えないけど。
俺の見ている前で、アリスはラヴに声を掛けた。
「ラヴ、言いづらいなら私から話しましょうか?」
「……いえ、自分で話します。申し訳ありません、アリーシャ様。こんな事に付き合わせてしまって」
「いいんです。大事な事ですから。お兄様の反応によっては叩きのめすつもりで」
「それはいけません。私も悪かったのです。クリス様だけの責任ではないのですから」
え。ちょっと、話が見えてきてしまった。
おいおいマジか。これって、もしかして。
「クリス様、私」
ラヴが、クリス様に膝を向ける。
「赤ちゃん、出来たみたいなんです」
その瞬間、クリス様は石になった。
クリス様の受けた衝撃は察するけど、俺だってショックだ。
妹が未婚のうちに母に……。
でも……そうか。あのちっちゃかったラヴが母親になるのか。
地続きだった子供時代が、突然足元から切り離されて遠ざかっていくような感覚だった。
どんなに力をつけても酒を飲める年になっても、何だかんだ子供扱いされる事は多かった。それに甘えてもいた。
でも、これからは本当に大人にならなくちゃいけないんだ。立派な、伯父として。
伯父か……。
伯父さん。
ショックだ。
それはさておき、庶民ならまぁよくある話でも、貴族としては汚点じゃないのかな。
……この二人、大丈夫なのか?
「お兄様、何か言う事はないのですか?」
目を開いたまま気絶していたクリス様は、アリスのその言葉にはっと意識を戻して瞬きを繰り返す。
「えっ、えーと、その」
どぎまぎしながらソファーから下り、床に膝を突いてラヴの手を取った。
「ぼ、僕と結婚して下さい」
「それはもう決まっていますわよ。しっかりして下さい、お兄様。どうするんですか? これからお医者様にちゃんと診てもらうにしても、先にお父様とお母様に話をしてからじゃないといけませんのよ」
「それは分かってるよ。ごめんね、ラヴさん。不安だったよね。気付いてあげられなくてごめん。……ああ、どうしよう。名前、まだ考えてなかった。急いで決めないと」
「それはまだ何ヵ月か先で大丈夫です。それより、この事をお兄様の口からお父様達に説明出来ますか? 私、それが一番心配なのです」
「だ、大丈夫」
「なるべく早く……今日中にお願いしますよ。それと、これから誰に何を言われたとしても、ラヴの盾となり味方であり続けて下さいね。私も協力しますけれど、一番肝心なのはお兄様の態度なんですよ」
「……うん。わかってる」
「本当ですか? まったくもう……。人とあまり話せない性格だと思っていたら結婚前に父親になってしまうなんて……極端すぎます」
「ごめん……。でも」
「……何ですか?」
「嬉しい。……自分でもびっくりだけど、ただ、嬉しいんだ。ありがとう、ラヴさん。これから僕達の時間があと何十年あるか分からないけど……僕と一緒に老いていってくれる?」
クリス様の手の甲に、ぽたりと涙が落ちた。
ぐすぐす泣き出したラヴの隣に座り、そっと肩に手を置く。
「アリス、ありがとう。もう大丈夫だから……ちょっと二人にして貰えるかな?」
俺とアリスはお互いに目を合わせ、頷き合って立ち上がった。
サロンから出て、並んで廊下を歩く。少し気まずい。
「……身内のああいった話は、進んで聞きたいものではありませんね」
アリスはぽつりと溢した。
「そうだね」
それに関しては完全に同意だ。
まさかあの二人がもうそういう関係になっていたなんて。
結婚後なら当たり前の事として受け止められたと思うけど、まだ婚約中だったしな……。
兄妹が入れ替わる形の結婚を決めたおかげで、こういう時は気まずさが倍増だ。
俺とアリスは何となく顔を合わせられずに、前だけを向いて歩いた。
「それにしても、貴方は冷静でしたね。てっきり怒るものかと思っていたのですが」
「俺が? どうして?」
「だって……結婚するまではそういう事はダメっておっしゃってましたから」
「あぁ……。それは俺がそうしたいって言うだけの話で、他の人にまで押し付ける気はないよ。逃げようとしたらそりゃ怒るけど、クリス様はそうじゃないし」
俺は、置いていかれた小さい子が夜中に寂しがって泣くような事にならなければそれで良いんだ。
その点クリス様と家族の人達がいるこの環境には、何の不安もない。
公爵夫妻は頭を抱えるかもしれないけど、そこはもう、ごめんなさいと謝るしかない。そのぶん俺が頑張るから許してほしい。
彼女は立ち止まって俺の顔を見上げた。少し、安心したような表情だった。
「そうですか。ホッとしました。貴方が本当に怒ったらこの家が蒸発するんじゃないかって、ちょっと心配していたんです」
「何それ。そんな訳ないでしょ……」
「ふふ。……でも、これからは貴方も私も、伯父と伯母になるんですね。私、産着でも作ろうかしら。お母さんになるラヴを少しでも応援したいですし」
「うーん……ていうか、あいつ大丈夫かな。俺もなんだけど、あいつは母親ってどんな感じか知らない、か……ら」
ぽた、と涙が零れた。誰が。俺がだ。何で。どうして。
何かの蓋が開いたみたいに、急に目の奥が熱くなって止まらなくなった。アリスはびっくりした顔で見ている。俺もびっくりだよ。
「あの……お部屋に行きましょう? 私が手を引きますから」
そう言って俺の手を取り、客室に向かって歩き出すアリス。
これじゃ俺、まるで子供じゃないか。意地で涙を止めて、彼女の横に並んで歩く。アリスは何も言わずに客室までついて来てくれた。
今、初めて気が付いた。
俺、母に会いたかったんだ。そして、妹にも会わせてやりたかった。
色んな思いがぐるぐると渦巻くけど、この気持ちを端的に表すとそういう事だ。
産後の熱で亡くなったという母の朧気な記憶に、ラヴが少し重なったのもある。自分の心の中にこんなナイーブな部分があるなんて知らなかった。
母の事はほとんど覚えていないけれど――改めて向き合ってみると、俺の中では母という存在は悲しさや寂しさ、喪失の象徴だったのだと感じる。
でもそれは普通の母親像とは全く違うもののはずだ。
悲しみなんて無縁じゃないといけない。
そうなるように――妹が無事に母親になれるように、女神様に祈ろう。
客室に着くと、アリスは一緒に入ってきて扉を閉めた。
俺の腕を引いてソファーに並んで座り、俺の目元をハンカチでおさえてくる。
「もう大丈夫だよ。ありがと」
「そうですか? 誰だって泣きたい時くらいあるんですから、別に我慢する必要なんてないじゃないですか。ほら、ここに頭を乗せてみて下さい」
そう言って彼女は俺の頭を引き寄せ、自分の肩に額を置かせた。
本当にもう大丈夫なんだけど、情けないくらい安心感でいっぱいになってしまって離れる事が出来なかった。
アリスの背中に腕を回すと彼女も同じようにして返してくれる。
喪失感を補って余りある幸福が、ここにはあった。
心の中が温かい。本当に、君に会えて良かった。
しばらくして、アリスはぽつぽつと話し出した。
「……私ね、ラヴから相談された時、とんでもない事になったなぁって思って……あの二人を叱ろうと思ったんですよ」
「うん」
「でも、よく考えたら、私だって貴方といつそうなっても構わないと思ってるなって気付いて何も言えなくなっちゃいました」
返事に困る話だな……!
そっか、と言って曖昧に笑い、身体を起こして彼女の顔を見た。
俺達もいつかあの二人みたいに、新しい家族がやって来て戸惑ったり喜んだりするんだろうか。
まだ現実味がないけど、きっとそうなんだろうな。アリスは笑みを浮かべて言った。
「ラヴは絶対いいお母さんになりますよ。皆もついてますし、大丈夫です」
「そうだね」
不安は無い。俺達兄妹は、本当に良い人達に巡り会えた。
貴族を苦手がっていた以前の自分に教えてやりたい。こんな良い人達がいるんだぞってね。
その時アリスはふと視線を机の上に向けて、そこに置いてあるものに気が付いた。
「……あら? ラベンダーですか? 珍しいですね、花を飾るなんて」
「あー、それね……。ジェームスさんに貰ったんだ。好きな子に渡してやれって」
見付かってしまった。
飾りはつけられなかったけど、もう渡してしまおうかな。
大奥様がくれたのと同じ花を持っているなんて、理由を話して今渡さないとあらぬ誤解を招きそうだ。
ティーカップに手を伸ばして、水に濡れたラベンダーの細い花束を引き抜いた。
「あれ?」
カツン、とカップの縁に硬質なものが当たる音がした。
不思議に思って見ると、茎の部分に何かがくっついている。
――え、何これ。
何本かの茎をまとめるように、リボンの形をした紫の透明な石が巻き付いていた。
こんなもの、入れた時にはついてなかったはずだ。
「何ですか、それ。……えっ、アメジスト……? 変わった形ですね」
宝石か。本当に変わってる––というより、リボンがそのまま石になったみたいな形で、ちょっと異様な感じだ。
石ってこんな細長く複雑な形にカット出来るんだ?
金属ならまだわかるけどさ。
誰かがこの部屋に入ってつけていった……?
いやいや、それどんな変人だよ。何なんだこれ。不気味。
「アリスにあげようと思ってたんだけど、この石は知らない。何か変だね。これはこのまま置いておこうかな」
妙ないわくが付いたものをアリスに渡すのは何だか気が引ける。
石を引き抜いて、花をカップの中に戻した。
するとアリスは不服そうな顔をしてこちらを見上げてくる。
「どうしたの? もしかしてこれ、欲しい? でも俺のじゃないんだ」
そう言ってアメジストを持って見せると、彼女は首を横に振って花を指差した。
「あれ、好きな子に渡すって」
「欲しいの?」
「欲しいです」
結局、ラベンダーはアリスの手に渡った。
花を持って嬉しそうに笑うアリスは、想像していたよりもずっと綺麗だった。
「ありがとうございます。大事にします。……それにしても不思議ですね、その石。形もですけど、誰が置いていったんでしょうか」
「ねー。多分そう安くはないものだよね。よく分かんないけど、とりあえず公爵に報告しとこうかな」
その日の夜、ちょうど公爵から俺達に呼び出しが入ってアリスと二人で書斎に向かった。
書斎の扉を開けると、そこにはなんだか疲れきったようなオーラを放つ公爵がいて。
「あら、お父様。どうしたんですか? 一気に十歳くらい老けたように見えますわよ」
「……バカップルの空気に当てられた。あんなの見せられたら老けもする」
素が出ている公爵はきっとクリス様から例の話を聞いたのだと思う。
頭を抱えた痕跡が乱れた髪に残っていた。
「だから君達にも本当は会いたくなかったんだけどさ」
「どういう意味ですか?」
「分からないならいいんだ。多分知ってると思うけど、クリス達の結婚式の予定がずれた。お産の後、ラヴの体調を見て改めて日程を決める」
「……妹が、申し訳ございませんでした」
「いや、それはいいんだ。クリスが初めて家族以外の人と懇意になれて、浮かれていた私達にも責任はある。想い合う二人が一緒に暮らしていればそうなる事もあるだろう。……私はむしろ君達がそうなると思っていたよ。なのに実際になったのはクリス達で、意外ではあったけどね」
「え? 俺達がですか?」
「親としてはそうなるだろうという覚悟がなければ二人で暮らすなんて最初からさせないよ。でも、今となっては出来れば勘弁して欲しいかな。さすがに兄妹揃って子連れで結婚式はちょっと」
「そうですよね……」
「別にね、貴族としてふさわしくないとか今さら言うつもりは無いんだ。クリスは元々変人で有名だし、アリスだって随分前からまともな令嬢ではないし」
「お父様……。その通りですけど」
「そうだよねアリス。学院でも男爵家でもずいぶん暴れたらしいじゃない。色んなところから話が入ってくるけど、もう苦笑いするしかないね。ハヤトと一緒ならどこで何をしててもいいけどさ」
「えっ」
うそ、俺、保護者みたいな感じに思われてるの!?
……マジか。アリスが飼い主だと思ってた。
俺がアリスとの間にある上下関係について認識を改めていたら、公爵は背もたれに背中を預けてため息をついた。
「私はクリスを勘違いしていたようだ。女性には奥手とばかり思っていたのに……。いや、もうその話はいいか。君達を呼んだのは別件だ。これが、冒険者ギルドから届いた」
そう言って、机の上に置いてあった一通の封書を渡してきた。
「指名依頼、だってさ。ハヤトに」
そうなんだ。
何だろうと思って早速封を切ると、至急と書かれた赤い文字が真っ先に目に入った。
「急ぎか……。公爵、こういう場合は学院とどちらを優先するべきでしょうか」
「今回は依頼かな。いいんじゃない? 模擬戦は出禁だし、学業に遅れは無いし。ちょっとくらい休んでも問題ないでしょ。……というか、その依頼の件については、私もちょっと気になっているんだ」
「?」
「まあ、読んでみなよ」
公爵に促されて、依頼書に目を通す。そこには“王都周辺に出没する未知のモンスターの退治、及び調査の依頼”と書かれていた。
見覚えのありすぎる依頼内容だった。
数か月前に全く同じ内容の依頼を受けた記憶が甦る。
でも今回は王都周辺だ。昨晩のアレといい、この辺りで一体何が起きているんだ?
「公爵はこの件について何かご存じなんですか?」
「少しだけ。まだ噂程度の事しか聞いてないけどね。詳しい事はまだ何も。……なんかね、姿形は既存のモンスターと大体同じなんだけど、色が全体的に黒っぽくて強いんだって。その黒い奴らを倒すと、ギルドの記録には“未登録”って表示されるらしい。つまり、新種扱いって事になる」
砂漠のやつらと同じだ。
「新種も一種類や二種類ならたまにある事だけど、そんなお気楽な規模じゃないみたいなんだよね。この辺りに出るやつらが軒並み変異しているって話だよ。……そうそう、私は新種というより、既存のモンスターが突然変異したものと見ている。これは現場のギルド長も同じ見解」
ピートさんもか。
ピートさんが心配しているのはアレだよな。
「……最近、この辺りに隕石が落ちてきたっていう話はありましたっけ?」
「ないね。地上に落ちるほどのものなら誰も気付かないなんて事は無いはずだ。もっとも、ギルド長はそうは思っていないみたいだけど」
「どこかにあるかもしれないという事ですね。分かりました。今すぐ行きます」
踵を返すと、背後でアリスが公爵に詰め寄った。
「私も行っていいですか?」
「いや……今回はやめておきなよ。もう夜だし、ギルド長がわざわざハヤトに頼んだ意味を考えるとこの件はどうしたってアリスには荷が重いでしょ。それを分かってもらいたくてアリスもこの場に呼んだんだよ。ハヤトの足を引っ張るような事になったら、嫌じゃない?」
「……わかりました。では、ハヤト、ちょっとだけ待ってください」
アリスはそう言ってこちらに駆け寄り、首から鎖を取り外して、ずっと身に付けていた魔法銀のタグを俺の首に戻した。
「別に戻さなくてもいいのに」
「でも、調査でしょう? 入る情報は少しでも多いほうが良いじゃありませんか。タグじゃ何も分からないかもしれませんけど、ここで待っているだけの私が持っているよりは有益なんじゃないかなって思います」
ああ、これ、絶対引かないやつだ。
言っている事は正論だし、仕方ないか。
「……わかった。終わったら、すぐに戻る。そしたらまた着けてね」
「はい。もちろんです。あ、そうそう。これも、使えそうなら使って下さい」
そう言ってアリスは耳から通信機能付きイヤーカフを外して、手に握らせてきた。
「いいの? これ借り物でしょ?」
「大丈夫です。ルークは、特に思い入れがある訳じゃないし全然使ってないから返さなくてもいいって言ってました」
そっか。正直、これは有り難い。
ルーク君には悪いけどもうしばらく使わせてもらおう。
お互い頬にキスをし合って、出立の挨拶をした。
アリスの背後で公爵がまた五歳くらい老けた気がするけど、このくらい普通でしょ? アリスの体温が移ったタグを服の中にしまって、書斎から廊下に出る。
「お気を付けて、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
微笑んで見送ってくれるアリスの姿が、閉まる扉の向こうに消えた。
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