67.★いつの間にかオタク兄と友達になっていた婚約者視点
「……ねえ、アリス」
「なんでしょう」
「手、繋いでもいい?」
「いいですよ」
了解を得て、そっと手を握った。
正直に言う。この時この瞬間まで俺は手を繋ぐという事を軽く考えていた。
だって今までも普通に触れていたし、なんならそこらのオッサンとでも必要があれば握手で触れ合う事がある、それが手と手の触れ合いというもののはずだった。
触れたい欲求を手を繋いで紛らわせて、そのまま寝落ち出来ればいいなと思ったのだ。
だけどそれが間違いだったと気付くのに時間はそう掛からなくて。
ぎゅっと握り返されて、心臓が跳ねた。
手を繋ぐなんて日常的な事すらこの密な空間ではするべきじゃなかった。
後悔する間もなく、少し開いた手のひらの隙間に細い指が入ってきて、皮膚の感触を確かめるようになぞっていく。
ちょっ、どういうつもり!?
以前、石鹸で手を洗いっこして戯れた時のことを思い出す。いや、あれはほとんど冗談、ただの遊びだった。だけど、これは――。
こそばゆさと共に触れたい気持ちが膨れ上がり、手に全ての神経が集中していく。
ヤバい。絶対にヤバい。
焦る気持ちはあるものの、この誘惑に抗えない。
握り返して、先ほど自分がされたのと同じように指先で手のひらを撫でた。
するりと指が絡まり、お互いに思うように触れ合う。しばらくそうやって戯れ、最終的に恋人繋ぎにおさまった。
良かった。ようやくこのまま落ち着いて眠れる――訳が無いだろ。じりじりと積もりに積もった我慢はとっくに限界を突破していた。
アリスの頭に腕を伸ばし首の下に挿し込んで、先日やったのと同じように腕枕をする。頭を引き寄せると、あっさり体をこちらに向けてくれた。
もう目が暗闇に慣れていて、彼女がどんな表情をしているのか見える。
少し、緊張しているような表情。
きっと本当は怖いんだ。
そんな顔をするなら、カモンベイビーとか言わなきゃいいのに。
なんだか胸が締め付けられて、腕枕じゃないほうの腕を背中に回して引き寄せ、ぎゅーって抱き締めた。温かい。いい匂い。柔らかい。ああもう、ホント駄目だ。
「……絶対こうなるって思ったから、嫌だって言ったのに」
「やめても良いですよ」
「無理。もう、頭の血管切れそう」
ひざの間に脚をねじ込む。今回はダメって言われなかった。
脚で柔らかな内腿を撫でるセクハラをかましながらこれ以上はアウトだと必死に頭の中でストップをかける。
なのに手が勝手にアリスの夜着の胸元のリボンを引っ張る。するりと簡単に解けてしまった。なんでだよ。嵌め殺しの窓みたいに飾りじゃなかったのか、それ。飾りであってほしかった。なんで実用的なんだよ。
ヤバいヤバいヤバい。
少しずり下げただけでなんとか止められたものの、開いてしまった背中につい触れてしまう。背中にじかに触れ、滑らかで手のひらに吸い付くような感触に全部持ってかれた。うなじから背骨を指で撫でると彼女はくすぐったそうに背中を反らし、小さな声を上げてしがみついてきた。反応が良くて心が喜んでしまう。
あっ、これ。もう自力で止めるのは無理だ。アリスにも協力して貰わないと。
「アリス、お願いがあるんだけど」
「なんですか?」
「俺に闇魔法かけて。眠らせるやつ」
改めて、口にはキスをしない主義を貫いてきて良かったと思った。じゃなきゃこんな事をしゃべる余裕すら無かった。
いや、余裕なんて無いんだけど。全く無いんだけど!
「え!? 貴方にですか!? 効くんですか!?」
「分かんないけど抵抗しなければ大丈夫だと思う。早く!」
ふと気付くと夜着の裾を捲り上げ太腿を触っていた。嘘だろ。そんな命令、脳は出してなかったはずだ。アリスは肩からずり落ちた夜着が鬱陶しかったのか腕を引き抜き、本当にカモンベイビーしてくる。
「私は別にこのままで構わないですけど」
「だからそういう事言っちゃダメだって!」
誰のためにこんな必死になってると思ってんだよ!
ほとんど涙目になりながらアリスの放つ眠りの魔法を受ける。
黒い霧のような闇魔法は、俺に当たると同時に弾けて消えてしまった。
「全然効いてないよ! もっと力を込めて! もう一回!」
「抵抗するからじゃないですか! もう自分でかけたらどうですか?」
抵抗なんてしてない。してないったらしてない。
体を起こして、アリスの上に覆い被さり剥き出しの白い肩に噛み付いてしまった。
太腿から手が離せない。この悪い手が勝手に――いやごめん嘘。俺の意思だよ。分かってる。でも止められないんだ。
彼女は俺の首に腕を回してきて、完全に受け入れるつもりのようだ。
愛しさに胸がぎゅっとなる。嬉しいけどやっぱりダメだよ。
ああでも大好きだ。愛してる。辛い。
「なおさら効かないと思う。アリスのなら受け入れようと思えるはず……」
「しっかり跳ね返してるじゃないですか。もう一回かけますよ? ちゃんと受け入れてくださいね」
何だかんだ言いながらアリスは俺に甘い。頼んだ事は大体聞いてくれる。
だからこそ俺はそれに甘えちゃいけないんだ。と言いつつ今思いっ切り甘えてるけど、今回だけは勘弁して欲しい……。
心身共に無防備な状態を意識して作り出し、再度放たれた眠りの闇魔法を受け止める。
今度はちゃんと効いた。急激に意識レベルが下がり、体から力が抜けていく。
アリスの上で寝落ちしないように、重くなった手足をなんとか動かしてごろんと横に転がった。
「……ありがと、アリス」
おかげで君を守る事が出来た。眠気でぼんやりとしながら夜着が乱れた彼女を見つめる。
――君は、本当に可愛いな。
俺の女神だ。
女神は夜着を直しながら、心配そうな顔で覗き込んでくる。
「眠れそうですか?」
「ん……、でも念のためもう一回、かけて下さい……」
そうお願いすると、アリスは俺の目元に手を置き、今一度眠りの魔法をかけてくれた。
「おやすみなさい、ハヤトさん」
その呼び方、なんか新婚さんみたい。
ふ、と笑いが込み上げて、俺も新婚っぽく答える。
「おやすみ。愛してるよ、アリーシャ」
そういえば、本当の名前で呼ぶのはこれが初めてな気がする。
反応を見たいと思ったけど、もう瞼は開きそうになかった。
ふと目を開いたのはそれほど時間が経っていない頃だったように思う。
しんと静まり返った真っ暗な部屋の中、妙に凪いだ気持ちで体を起こした。
隣で眠るアリスを見て、今がチャンスだ、自分のものにしてしまえという気持ちが湧き上がってくる。女神は邪魔なんだ。
取り込んで、自分の一部にしないと俺はずっとこのままだ。仲間が欲しい。孤独で寂しくて、耐えられない。
アリスの首にそっと手を掛ける。とくとくと脈を打っているのが伝わってくる。
ここをしばらく押さえていればいい。やがて彼女の体から魔力が零れ出して、女神の元に還ろうとするはずだ。それを全て俺がもらう。彼女の魔力は膨大だ。きっと美味い。欲しい。
ぐっ、と手に力を込める。だけど心の裏側から必死の抵抗があって、ああ、まだ早いのか、と思って手を弛めた。そこではっと目が覚めた。
なんって夢だ……! 信じられない!
冷や汗が首筋を伝う。荒い呼吸を整え早鐘のように鳴る心臓を落ち着ける。
ふと心配になって、隣で眠るアリスを見た。大丈夫そうだけど、全然身動きしないから不安が消えない。
悪夢と同じように首筋に指先を当てて、脈を確めてみる。とくとくという感触があって、そこでようやくほっと胸を撫で下ろした。
いくら夢でもあれは無い……。
何だろう、欲求不満が限界を超えると人はああいう夢を見るんだろうか。
いやもうおかげさまでそんな気分消し飛んだよ……。
深く息をついて目を閉じる。無理にでももう一回寝よう。
そう思ったけど、どこかで強い魔力の歪みが生じているのを感じてパッと飛び起きた。
魔力とは人だけが持つものじゃなく、物質から空気に至るまで世界中どこにでも満ちている。水や森、人などさまざまなものの影響を受け、属性を変えながら万物を巡る。
その流れが滞ったり強い属性のぶつかり合いが生じた時に魔力が歪み、魔物が生まれると言われているけど――街中、特に貴族街ではそんな事が起きないようにコントロールされているはずだ。
一体、どうして。
急いで父さんの上着を羽織り、窓から抜け出して屋根の上に上り街を俯瞰した。
異変があればここから見えるはず。しばらく観察していたけど、夜の街はいつまで経っても静かで平和そのものだ。騒ぎなんて起きておらず、いつも通りの夜にしか見えない。
気のせいか……?
いや、絶対に何かあるはずだ。ピリつくような危機感がはっきりと感じ取れる。
だけど異変の方角すら掴めない。
……こんな事ってある?
不思議に思いながら、歪みの出た場所を探すため屋根を下りて街に出た。
でも結局、異変は何も見付からなかった。
翌日、色々あって昼前には公爵家に戻ってきた。
色々思うところはあれど、俺達に出来る事など元々そう多くない。
人の家庭はその家の人のものだし、魔物だって姿を現してこなければ倒す事が出来ない。
どんなにトラブルが目に見えていても、今はただ出来る事をするしかないのだ。
幸い魔物の気配は朝が来ると同時に消えたのでひとまずは安心しても良さそうだ。
公爵家に着き、間借りしている客室でジェームズさんにもらったラベンダーの花を水を張ったティーカップに入れた。
アリスも大奥様からラベンダーを貰ってしまうとは思わなかった。
いかにも女の子が好みそうな可愛らしい感じに飾られたサシェを見て、俺からのやつはなんとなく渡せなくなってしまったのだ。
せめてリボンくらいは巻いたほうが良いな。
そう思ったんだけど、リボンなんて持ってない。後で買いに行かないと。でもどこで売ってるんだ……?
誰かに訊いてみるか。カルロス姐さんなら知ってるよな。
なんなら持ってそうだし。
よし、姐さんに訊こう。カルロス姐さんの顔を思い浮かべながらベッドに腰掛けると、ラベンダーの香りにやられたのか急激に眠気がやって来た。
そういえば、昨晩はほとんど眠っていなかった。
――少しだけ、寝る。
そのまま転がって目を閉じるとすぐに意識が落ちた。
どのくらい眠ったのか、ノックの音でふと目が覚めて起き上がる。ボーッとしながら扉を明けるとそこには義理の兄(予定)クリス様の姿が。
「あ……ごめん。いつものやろうって思ったんだけど……寝てた?」
「寝てません」
嘘。思いっきり寝てたけど。でも気遣われても嫌なので起きてた事にする。
というのも、クリス様って一緒に遊ぶと面白い人なんだ。
最初の頃は俺の顔を見るだけで他人の家の猫みたいにビクッとして隠れたりしてたけど、なんだかんだ毎日顔を合わせるうちに慣れてくれたみたいで。
今じゃこうして時間を見付けて遊びに誘ってくれるくらいには打ち解けている。
「そ、そう? でも、眠いなら休んでても……」
「眠くないです。本当に」
段々目が覚めてきた。しゃきっとしてきたところで、クリス様と連れ立ってサロンへ向かう。
別にあの客室でも良いんだけどね。いつものアレは広い場所のほうが良いから。
広さを重視するなら外のほうがもっと良いと思うんだけど、クリス様は太陽の光をあんまり浴びたくないんだって。だから、サロン。
この遊びが終わってからリボンを買いに行こう。アリスとラベンダーに一番似合うやつを。
「義弟氏は今日は何がいい? 僕はもう決めてる」
サロンに入ると義兄氏は早速ワクワクした顔で選択を迫ってくる。
ちなみにクリス様はまだ俺の名前を呼んだ事がない。いつも義弟氏と呼ぶ。他人行儀っぽいけど義理の家族として認めてくれてはいるから、きっとそういう文化の中にいる人なんだろうなと思ってスルーしている。
その代わり俺は親しみを込めてクリス様と呼ばせてもらっているんだ。いつかハヤトと呼んでもらって、酒でも酌み交わせたらいいなと思う。酒、あんまり飲めないけど。
「じゃあ、“雷”で」
そう答えると、クリス様は頷いて雷の属性をつけたドラゴンの模型を俺の前に置いた。そして自分の前に炎の属性をつけたドラゴンの模型を置く。
「僕はね、炎」
やっぱり。クリス様はラヴの属性を選びがちだ。これで何をするのかというと“ドラゴン対決”。
彼が趣味で作った、魔力で自在に動かせるドラゴンのオモチャで対戦する遊び。かつてこの玩具を元にしてアリスが作れと言い出したのが、ラヴの義手だという話を以前聞いた。
本当、二人には感謝してもしきれない。俺はこの家の人達に一生ついていく。そう決めた。
で、話を戻すとこのドラゴン。最初はただ歩いたり翼をパタパタさせるだけだったらしいんだけど、改良に改良が重ねられ、今じゃ弱い威力ながら魔法が使えるし、ブレスだって吐くようになった。宙に浮かせる事だって出来る。
これを動かして戦うんだ。面白くない訳がない。
ルールは単純。先に攻撃を十回当てた方の勝ち、ただそれだけ。
しかし、いつ見てもキラッキラの模型だな。
これ、さすが公爵家の跡取りの趣味だと思わずにはいられないほど高価な素材ばかり使われている。
例えば俺が選んだ雷のドラゴンは体が全て銀の鱗で覆われていて、瞳の部分はカナリートルマリンという黄色の宝石が埋め込まれ、爪と牙に至っては本物の雷ドラゴンの爪(倒すとドロップされる)を削り出したものになる。
更に体内の核になる部分には魔法銀が使われているらしいけど、見えない場所に使われているそれにどういう意味があるのか、俺にはまだ分からない。
ただ、オモチャにここまで情熱と財力を注げる環境は素直に羨ましいと思う。
「じゃ、始めるよ」
クリス様はそう言うと模型に手をかざして自分の魔力を通した。
これを“同期”と呼ぶらしい。同期する事である程度離れても魔力が模型に届くようになるんだとか。
どうしてこの技術を家事用の魔道具に使わないんだろうと思って訊いてみた事があるんだけど、「これを入れられる素材が貴重で、量産には向かない」んだそうで。
そっか、としか言えなかった。
ともかく、俺も雷ドラゴンに手をかざして同期する。
するとうっすらとカナリートルマリンの瞳が光り、まるで生きているかのような生命力を放ち出す。
同時に自動的に結界が発生し、室内の調度品に傷を付けないように覆っていった。
ただ魔力を通すだけでいくつもの魔法を同時に展開できる魔道具の力はいつ見ても凄い。
どうやっているんだろう、と思うけど、実は俺なりに考えた仮説があるんだ。
「あれ? クリス様、また数字いじりました?」
そう言ってみると、クリス様は肯定はしないけど否定もせずにただ苦笑いをした。
当たりか外れか、どちらとも取れるけど、実際のところそう離れていないと思う。
いつ誰が使っても同じ威力の魔法が使えるなら、出力の調整が絶対に必要になるもんな。
今まで魔道具を作ったり改造した時のアリスの言動を見た限りだと、調整とは構造をいじるとか部品を替えるとか、そういう事じゃないなと思った。
であるなら、数字による指定があるのかなと思う。魔力が魔法に変換される時に数字を使っているんだ。とは言え数字だけで魔法が出てくるものでもないんだろうから、他にも何か記号を使うはず。
つまり、物質に魔法を与えるステュアート独自の技術とは“文字”だ。文字そのものが魔法になる。
それが俺の考えた仮説。
あまり魔力が多くない人でも魔道具は長時間使えているものだ。
これは本来魔法を使うのに必要な魔力の量を数字を使って減らして――いや、数字と魔力と素材、この三つの要素を関連付けるなら、魔力は減らすと言うよりも増やしていると見た方が納得がいく。
素材を通る時に数字に応じて使用者の魔力が増幅されるんだ。記号と数式を組み合わせて色々な魔法を極少ない魔力で使えるようになるのが魔道具の力。
もしこれが当たってるとしたら――凄い事だ。何でもありじゃないか。
製法を隠し、武器は作れないと言い張る公爵家の姿勢は正しいと思う。
それにしても、過去色んな人が同じような手法を試したはずだけど、ステュアートだけが成功したのは何故なのか。それは、魔法とは元々女神と呼ばれるあいつがこの世界に分け与えた力だ。きっとこれも、あいつが気まぐれを起こした結果なのだろう。神はどいつもこいつも皆、身勝手で気まぐれなものだから――。
――俺は、何を考えているんだ。ミナーヴァ様以外の神様なんて知らないし、身勝手で気まぐれだとかそんな知り合いみたいな評価した事ない。
やっぱり俺、最近ちょっとおかしい。
何だろう、環境が変わりすぎて疲れているのかな。
身体を動かさずに考え事ばかりしていると思春期特有の思考の癖が悪化するっていうから、もしかしたらそのせいかもしれない。
最近、勉強ばっかりしてるもんな。
頭を切り替えてオモチャの操作に意識を向けた。
心のどこかに引っ掛かるものがあったけど、それは今は無視する事にする。クリス様の炎ドラゴンが放つファイアボールを、俺の雷ドラゴンが空中で旋回して避ける。いくつもの火の球をくぐり抜けて炎ドラゴンに突進、急旋回で尾を叩き付ける。
同時に雷撃を当てて、俺、二ポイント先取。
「義弟氏、ちょっと手加減してほしい」
「嫌ですよ。クリス様、ちょっと油断したらすぐハメ技決めてくるじゃないですか」
そう、クリス様は強い。今のところ勝率は半々くらい。
今、俺にとって最も油断ならない相手がアリスとクリス様の兄妹になる。この二人にはなんだか色々と敵わない。
公爵もそうなんだけど、あの方はちょっと別枠というか。父親に近い存在だ。そもそも勝とうと思わない。
バチバチと雷が走り、炎の壁が立ち上る。その中を二匹のドラゴンが飛び回ってぶつかり合う。雷と炎の対決、今回は十ポイント対六ポイントで俺の勝ちになった。
「あー負けたぁ~! 悔しい!」
ドラゴンを着地させ、同期を解除したクリス様はソファーに仰向けに転がって足をパタパタさせた。
「楽しかったです。ありがとうございました」
俺もドラゴンを着地させ、同期を解除してメイドさんが運んできてくれたお茶で喉を潤す。
クリス様も同じようにカップを手に取り、一気飲みして立ち上がった。そしてピアノの椅子に座り、ポロンポロンと音を鳴らし始める。クリス様は負けるとああしてピアノを叩いて鬱憤を晴らす人なのだ。育ちが良いなといつも思う。
ちなみにこの人、ピアノが非常に上手い。俺なんかよりずっと正確に弾く。俺は曲によっては楽譜に無い事も結構やってしまうけど、クリス様は譜面を正確に再現するタイプ。拍がずれないし、ミスタッチもほとんどしない。
きっと、作曲家にとってこれこそが理想的な弾き手の姿なのだと思う。
教養の差ってこういうところに出るんだなぁと考えていると、クリス様ぽつぽつと話し出した。
「対戦相手が義弟氏しかいないのがなぁ。操作の練習したくても一人じゃいまいち気が乗らないんだよね……。ラヴさんは“実際に戦ったほうが面白いじゃありませんか”って言うし、アリスも似たようなものだし」
「ルーク君は?」
「ルークはね……僕には理解できない人種。オモチャより女の子と遊んでるほうが楽しいって」
「あぁ……」
そうだな。確かに。
「だからこの遊びに付き合ってくれるのは義弟氏だけなんだよ……。何で皆、このロマンがわからないんだろう。ドラゴンになりきって戦うなんて、夢があると思うんだけどなぁ」
「俺もそう思います。なりきれる度合いをもっと深めればアリス達も面白がってくれそうじゃないですか? 例えば、ドラゴンの目と自分の目を同期するとか」
「それは絶対に面白いと思うんだけどさ……。多分、使用者の脳に負担が掛かりすぎると思うんだよね。自分の視界とドラゴンの視界を同時に処理するの、ちょっと大変そうでしょ。多分それって、目を瞑れば済むような話でもない気がするんだ」
「そっか……」
「それに、思い通りに手足を動かせるドラゴンと視界まで同化したら――戻って来られなくなりそうじゃん」
そう言ってクリス様は笑った。
本気なのか冗談なのかちょっと分からなくて思わず真顔になる。
「そんな事ってあるんですか?」
「まさか。本体のほうに自我がある限りそんな事にはならないよ。もっとも、どんな素材を使ったとしても人間の中身が丸ごと入る魔道具なんて作れるとは思えないけどね。義手に感覚を与える程度の事ですら苦戦しているんだ。きっと、どんなに素材と相性が良くてもキャパオーバーですぐに壊れる」
冗談だったみたいだけど、理論上出来ないとは言わなかった。
素材があれば出来るとでも言いたげだ。人の中身が丸ごと魔道具の中に……なんだか恐ろしい話だな。
「あれ? 義弟氏、怖くなっちゃった? 大丈夫だよ。魔道具は使用者の中身を全部持っていかないようにちゃんと設計してあるから」
「はは……」
冗談がエグい人。
とりあえず、ドラゴン模型と視界を共有する機能は付かない事は理解した。
――さて、そろそろ町に行ってくるか。
そう思って立ち上がった時、コンコン、とサロンの扉がノックされた。
こういう時クリス様はあまり返事をしない人なので代わりに返事すると、かちゃりと静かに扉が開いた。
向こう側にはアリスとラヴが並んで立っていて。
「あれっ、どうしたの」
心なしか二人の表情が固い。
こういう顔をした女子が二人連れ立って会いに来る時は、何かの爆弾が炸裂する時だ。間違いない。
警戒しつつ女子達をサロンのソファーに座らせ、頭の中ではいったい何をやらかしたのかと記憶を必死に探る。
一方でクリス様は呑気にラヴの隣に座ろうとして怖い顔をしたアリスに撃退されていた。
クリス様、この空気の中でそれをやるなんて勇気あるな……。
内心で感心しながら、もしかしなくても爆弾はクリス様に持ち込まれたんじゃないかとピリピリしたアリスの様子から当たりを付ける。
気配を消し、そっと退室しようとすると、アリスから「貴方にも聞いて欲しいので座って下さい」と言われてしまった。
言われた通り、黙ってソファーに腰掛ける。
アリス、いつの間にか視界の外の人間の動きが読めるようになっている。
手強い……。
人払いもされ俺達四人だけになったサロンで、さすがのクリス様も彼女達から発せられる異様な空気を察してこちらに救いを求めるような視線を寄越してきた。
残念だけど、助けてやる事は出来ない。
小さく首を振って見せると、クリス様は泣きそうな顔をしながらアリス達に向き合った。
謎の緊張に満ちた数秒間ののち、アリスはラヴの手を握ってクリス様に険しい視線を向ける。
「お兄様。私達がこうして改まって話をしに来た事に、なにか心当たりはありませんか?」
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