60.前兆

 私より背が高い彼女はこちらを見下ろし、じろじろとすっごく嫌な視線を送ってくる。

 なんだよ、と思っていたら彼女はおもむろにワゴンの上のティーポットを持ち上げ、あろう事かそれを私の頭上で傾けてきた。


「熱っ……!」


 とっさに声が出なかった。

 まさかそこまでするなんて思いもしなかったから。

 彼女はクスクス笑いながら“あらぁ”と口元に手を当てる。


「あらぁ。ゴメンなさい。手が滑ってしまいましたわ」


 とても、楽しそうな声。貴族のティーポットはお茶を淹れるのに最適な温度にキープできる魔道具な場合がほとんどだ。つまり六十から七十度くらいの温度。

 それを冷ますこともせずノーガードで浴びれば当然火傷する。

 いくら回復魔法が存在していても、Bランク冒険者としてそれなりに防御力が高く攻撃を受け慣れていると言っても、熱いものは熱い。

 あまりにあからさまな嫌がらせの仕方に絶句してしまった。

 これって実は昼ドラなの!?

 私の昼食だけフライの代わりにタワシが乗って出てきたりしそうじゃない!?

 彼女はクスクス笑いながらティーポットを置いて言った。


「ああ、そうだわ。大奥様、貴女が来るの待っていたみたいよ。どうやって取り入ったのか知らないけど、早く行ったほうがよろしいのではなくて? ああでも教会へ駆け込んで回復魔法をかけてもらう方が先かしら。――言っておくけど、私の父はとある伯爵家で筆頭執事をやっているの。告げ口しても無駄よ」


 そう言って立ち去ろうとする先輩メイドに「お待ちになって」と声を掛けた。

 ここまでされて黙っている筋合いはない。

 それに、こんな事を笑いながら出来るという事は相当イビリ慣れているという事だ。

 きっと私の前にもこのような目に遭った新人がいたに違いない。

 今後来るであろう人のためにも、ここはやり返しておかなければならない。


「なんてことするんですか。火傷したんですけど」


「あら、それは大変ね。早く冷やしたほうが良いんじゃないかしら」


「もう冷やしてます」


 ピキピキと凍り付く音を立て、頭から顔、肩にかけて薄い氷を魔法で作り出していく。

 ついでに彼女の手元にも。

 反撃されていると気付いた彼女は、ツンとしていた顔に怯えの色を浮かべ始めた。

 イビリ慣れている割に反撃には弱いようだ。

 今まで歯向かってきた新人はいなかったのかもしれない。


「ち、ちょっと! 手! 凍ってる! 冷たいわよ!」


「そうですか。私はちょうど良いですけど。ああ、貴女は火傷していないから冷たく感じてしまうんですね。少し温めて差し上げましょうか」


 そう言って左手で炎の球を作り上げる。

 初めて、相反する二つの属性を同時に展開できてしまった。

 けれど今は喜んでいる場面ではない。二度とこういう事をして来ないように、きっちり釘を刺しておく必要がある。

 魔力を流し込み炎をひときわ大きく燃え上がらせると、彼女は両手で頭を守るようにしてしゃがみ込んでしまった。


「ひいぃっ! ご、ごめんなさい!」


「もうしませんか?」


「しない! しま、しません……っ!」


「その言葉、信用します」


 炎と氷の魔法を解除し、自分に回復魔法をかける。

 痛みが落ち着いたので水膨れは防げそうだけど、まだ少しヒリヒリするので赤みが残ってしまっているのだと思う。

 後でもう一度回復魔法をかけなければ。

 とりあえず、急いで服や髪を乾かさないと。

 でも熱風の魔法は痛そうだから使いたくないな……。加減を失敗したら燃えるし。


「私、着替えてきますね。貴女、お友達にも伝えておいて下さい。次は燃やしますよ、と」


 ――何をだろう。

 自分で言っておいてなんだけど、何を燃やすのかまだ決めてなかった。

 ハヤトはユリウス様の後ろ髪を燃やしてたけど、女の子の髪を燃やすのはダメだよね。

 服もちょっとなぁ。男爵家の備品だし。

 うーん……。彼女達の何を燃やせばいいのかしら……。


 決めかねているうちに使用人部屋に着き、きっちりと扉を閉めてからクローゼットにある替えのお仕着せを取り出した。

 仕事に入る前に荷物を影に入れておいて良かった。

 あの調子なら絶対に何か悪戯をしようと企んでいたはず。

 令嬢スキルが仕事をしてくれたおかげで荷物を荒らされるのは回避できた。

 影の術式に素材が耐えられるか不安だったけれど、ドロップ品の特殊な絹(とても滑らかで丈夫)を使ったペチコートだったおかげか術式を受け入れてくれたのだ。


 ――薄々気付いていたけれど、ドロップ品に限らず人が高級だと感じる物、綺麗だと感じる物は魔力を多く宿せる物の場合が多いようだ。

 人の心を惑わす美しいもののことを世間では“魔性”と呼ぶけれど、確かにその言葉通りなのだと思う。

 ……それを思うと、ハヤトが規格外の魔力を持っているのはこの世の法則に則っていると言えるのかしらね。ウフフ……。


 さっそく思考が逸れていく中でエプロンの紐をほどき、脱いで洗濯物入れのバスケットへ入れる。

 次いで黒いワンピースの胸元のボタンをぷつりぷつりと外していく。おへその辺りまで外してためらいなく脱皮すると、突然ガチャッと音がして扉が開いた。

 扉を開けたその人は中にいた私と(多分)目が合い、ドアノブに手をかけたまま固まってしまう。その人とは黒の組織ならぬ煙突掃除屋さんだ。

 あちらも固まっているけれど、私も固まっている。

 お互いにたっぷり数秒間石のように停止したあと、彼は一言も言葉を発さず、部屋に入ってくる事もなく、パタンと扉を閉めて出ていった。

 私は頭の中が停止したまま、取り敢えず替えの服を着てボタンを留めていく。

 そうしている間に少しずつ思考能力が戻ってきた。


 ええと――別に、いいんじゃないかしら。


 そりゃ恥ずかしいしびっくりしたけど、他の人ならともかくハヤトだし。

 大体あの人、お兄様のメガネを誤装着した時に一回は下着姿を見てるからね。

 見られて恥しかないような体ではないし(ここ重要)、少なくとも騒ぎ立てるような事ではない。

 カモンベイビーと言った以上はカモンベイビーなのだから不問だ。


 ……それより、何の用でここに来たのかしら。

 着たからもう大丈夫と伝えないと入って来られないよね。

 そう思って外開きの扉を開けると、何かにガッと当たった。人だ。ハヤトだ。

 彼は扉の外でうずくまっていたらしい。中身は百ルクス男子とはいえ黒い布で顔まで覆った黒尽くめの人が座り込んでいる光景は単純にホラーなので、腕を掴んでひとまず室内に引きずり込んだ。

 抵抗らしい抵抗もなく大人しく引きずり込まれてくれた彼は、扉を閉めると同時に背中を預け、ずるずると座り込んで項垂れてしまう。

 そ、そんなに落ち込まなくたっていいじゃない……。


「……ごめんね、アリス……」


「別に気にしてないです。むしろ貴方で良かったなって。それで、どうしたんですか? ここに何か用事でも?」


 私もしゃがみ込んだ。彼は顔を伏せたまま話をする。


「ああ、上からのスス落としが終わって、次は暖炉側の掃除なんだけど……。もうお昼が近いから、室内の作業は食事の後にしてくれって言われてさ。時間が空いた今のうちに巣箱を作ろうと思って、メジャーを借りに来たんだ」


「そうだったんですか。ええと、メジャーですね。確か道具入れのようなものがどこかにあったような……」


「アリスはどうしてここに? なんで着替える必要があったの? 執事さんは今の時間は誰もいないって言ってたのに」


「ちょっとずぶ濡れになってしまいまして」


 そこで初めて彼は顔を上げた。

 ゴーグルの奥の目が私を捉えた時、明らかに目付きが変化したのが分かる。

 それもあまり良くない方向に。


「なんか少し赤くなってない? 髪まで濡れてるし」


 彼はそう言ってゴーグルを外し、手袋を脱いで顔の布も引き下げた。

 素手で赤毛のウィッグを触り、厳しい視線でじっと私の目を見つめる。


 先輩メイドに嫌がらせを受けました、なんて言いたくないな……。

 格好悪いし、それに、次は燃やすって言ったから。

 あれだけ脅したんだからきっともう何もして来ないよね。

 私だって、次に近寄る時は魔物を相手にする時と同じ警戒度で近寄るつもりだ。

 二度と大人しく攻撃を受けたりしない。

 だから、本当の事を言う必要もない。


「ちょっと失敗して、お茶をひっくり返してしまいました」


 頭に手をやり、濡れたウィッグを外す。

 ……これ、あとで乾かさないとね。


 ひとまずメジャーを探しに行こうと思い腰を浮かすと、彼は「ちょっと待って」と言って立ち上がり、私の頬にそっと触れた。

 彼の手から澄んだ温かい魔力が流れてくる。回復魔法だ。


「もう自分でかけたので大丈夫ですよ」


「まだ赤みが残ってるよ。どんだけ熱いお茶だったのさ。それ、本当にただの失敗? 普通、お茶を頭から被るなんてないよね」


 明らかな疑いの眼差しを向けてくる。

 深追いされたくなかったので、目を真っ直ぐに見て堂々と頷いて見せた。

 これは女同士の戦いだ。男性の出る幕は、無い。


「こういう失敗も、新人にはよくある事のようです。もう二度とないようにするので、心配は無用ですよ」


 彼は納得はしていない表情ではありながら、あくまでも失敗と言い張る私の強情っぷりに追及を諦めたようだ。


「そっか。……でも、何かあったら必ず俺に言ってね」


「はい。本気でまずいと思ったらすぐに助けてって言います」


 話ながら思う。

 彼の回復魔法に少し、違和感があった。

 頬のヒリヒリがおさまらない。

 彼の魔法が……効いて、いない……?


 回復魔法は少し扱いが難しいところがあって、どんなに魔力を注ぎ込んでも最大で九割程度しか怪我の治療は出来ないと言われている。

 これは術者側の問題ではなく、生きている体がそこまでしか魔法による治癒を受け入れないのだ。

 他人の魔力による干渉から自我を守るために、聖属性の回復魔法であっても無意識に跳ね返してしまうのがその残りの一割の部分ではないかと言われているけれど――自分で自分に回復魔法をかけても同じようなものなので理由は他にあるのだと思う。

 治癒できる九割も一度で達成できるものではなく、時間を置いて数回に渡ってかける必要があるのだ。

 なので、大怪我を負えばそのぶんだけ回復まで時間が掛かる。

 私はこの火傷もそのパターンかと思ったのだけど――ハヤトはそれとは違う違和感を抱いたようだ。

 眉間に皺を寄せて手のひらを見下ろし、青銀色の光––聖属性の魔力を浮かび上がらせる。

 それはいつもと何も変わらず、いつも通りの輝きを見せた――と思ったら、まるでエネルギー源を失ったかのように小さくしぼみ、フッと消えてしまった。


「えっ……?」


 これは、魔力切れの時の消え方だ。

 通常、魔力が切れれば人は気を失う。だけど彼はちゃんと立っている。目が開いているし、意識もある。ましてハヤトだ。こんな日常に近いような場面で魔力が切れるなんて事、あり得ない。


 ……どうしたんだろう?


 彼は光の消えた辺りをしばらく見つめ、ぽつりと呟いた。


「あれっ……。回復魔法って、どうやるんだっけ?」


 えっ!? 何それどういう意味!?


「わ、分からなくなっちゃったんですか……?」


「うん……急に。俺、今までどうやって聖属性を使ってたんだっけ」


「なんですかそれ……。魔法の使い方自体忘れちゃったって事ですか?」


「いや、そんな事は無い……と思う。アリス、ちょっとそのカツラ貸して」


 差し出された手に赤毛のウィッグを渡す。彼は魔力を込め、風と微弱な炎を混ぜた熱風の魔法にほんの少しの水属性を加えた、トリプル属性の魔法を難なく発現させた。

 一瞬で乾いた上に艶々になったウィッグを見るに、魔力も操作能力も全く問題ないように思える。


「大丈夫みたい、ですね」


「うん。もう一回やってみる。今度はいけるはず……」


 そう言って再び手を頬に当ててくる。

 少し時間が掛かったものの、いつも通りの回復魔法が現れ傷を癒してくれた。

 今度はちゃんと効果があって、ヒリヒリ感が大きく軽減していく。

 私もハヤトも同時に安堵を顔に浮かべた。


「ありがとうございます。痛いのがおさまってきました。赤いのも消えました?」


「かなり薄くなったよ」


「良かったです……。実は肩や背中も火傷していたのですが、どうなっているかしら」


「待って! 脱がなくていいってば」


「脱ぎませんよ。少し首元を開くだけです」


「そっか……」


 ハヤトはしょんぼりと眉尻を下げた。さっきのが余程ショックだったのね……ごめんね。

 心の中で謝りながら首元のボタンをいくつか外し、少し開いて肩を見てみる。


「……まだ少し赤いですけど、このくらいなら大丈夫そうですね」


「大丈夫じゃないよ。後でもう一回、回復魔法をかけるからね」


「はい。良かったです。本当、何事かと思いましたよ。……一瞬、魔法が使えなくなったのかと思いました」


「ね、俺もびっくりした。こんな事ってあるんだね」


 ある……のかな。

 実際に今それを目の当たりにした訳だけど、私の感覚からするとちょっとあり得ない感じがする。

 例えるなら、ついさっきまで誰よりも早く走れていた人が突然歩き方を忘れてしまうような感じのあり得なさだ。

 とは言え、また使えるようになっているのだから、確かに“こんな事ってあるんだね”と言う他にない。


「そうですね……。どこか体調が悪かったりしませんか? 疲れているなら先に帰っていても構わないですよ」


「ううん、全然大丈夫。むしろ元気すぎて発散したいくらい。アリス、自分の髪も乾かすんでしょ? やっておくね」


「ありがとうございます」


 ぽんと頭に手が置かれ、温かな風が吹き抜ける。何度やってもらってもこれは凄いと思う。

 つい先ほど初めて二つの属性を同時に扱えたばかりなだけに、三つ同時になど遠い領域の話に思えてならない。脳がもう一つ必要だと思う。


「さて。俺はメジャーを探そうかな。アリスは戻らなくて大丈夫なの?」


「あ、そうですね。あんまりのんびりしていたらお昼になってしまいますね」


「大奥様と奥様がかち合うとしたらそこなんでしょ。もうそろそろお昼になるから、急いだほうがいいんじゃない?」


「はい。そうします。じゃ私行きますね。ありがとうございました」


「ううん。頑張ってね。あと、何かあったら絶対呼んで」


「はい」


 ウィッグと新しいエプロンを着け、足早に使用人部屋を後にする。

 今度は誰にも足止めされずに大奥様の部屋に着けた。コンコンとノックして、返事が聞こえてから扉を開ける。


「おや、エリーじゃないか。待っていたよ。ずいぶんと遅かったね」


「少し手間取ってしまいました。何をお手伝いいたしましょうか」


「これをやって欲しくて」


 そう言ってテーブルの上の裁縫箱を指差す。


「頼みたいのはこれの糸通し。もう、目が霞んで針穴が見えなくてね」


 ピンクッションにはたくさんの針が、色とりどりの刺繍糸を残したまま刺してあった。糸の残りが少ないのがいくつか見える。


「かしこまりました。同じ色を通せば良いのですか?」


「そう。お願いね。沢山あるから、ここの椅子に座ってやんなさい」


 椅子を勧めてくれたので言われた通りに腰掛け、裁縫箱から針に残されたものと同じ色の刺繍糸を取り出し針穴に通していく。


「長さはこのくらいでよろしいでしょうか」


「そうね。糸切り鋏はそこにあるから使っても構わないわよ」


 なんとハサミを持つ許可を得て、糸を切らせてもらった。主人の前で刃物を持つ事を許されるのは信頼の証だ。

 ついさっき顔を合わせたばかりにも関わらず、なぜこんなに信頼してくれているのか。


「大奥様は少し不用心ではありませんか?」


「何を言っているんだい。こんな老いぼれがどうなったところで誰が得する訳でも無いのに。……おや? アンタ、顔が少し赤いね。どうしたんだい?」


「あ、まだ赤いですか? 先ほど少しトラブルに遭いまして。その時に」


「トラブル?」


「はい」


 言うべきか迷ったけれど、大奥様には話す事にした。

 使用人の間で起きている事を、女主人は把握しているべきだと思った。


「熱湯を掛けられました」


 すると大奥様は息を呑んで、信じられない、といった表情で私の顔を見た。


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