61.それでいいのだ

「ずいぶん思い切った事をする人間がいるもんだね。誰がやった?」


「お名前は存じ上げませんけれど、ティーポットのお湯を直接流されたので相当でしたよ。大奥様、今までにもこういう事はございませんでしたか? 普通はここまでの事はなかなか出来ないと思うんです。やり慣れていない限りは」


「そうね……。新人のメイドが怪我をしてすぐに辞めたりはよくあったけれど……もしかして、そういう理由だった……?」


「どうでしょう。ですが屋敷内でこういう事がしょっちゅう起こるのだとしたら良くないですし、それに、放っておけばやがて規律の低下に繋がります。バレなければ何をしても良いと思われると厄介です」


 彼女は顎に指先を当て考え込み、「一度、家人の持ち物を調べたほうが良さそうね」と呟いた。

 そう、メイド達の規律の低下の行き着くところは物品の横流しや金銭の誤魔化しだ。

 原因は言うまでもなく主人――特に女主人が舐められているところにある。

 この屋敷の場合、本来の女主人はないがしろにされている上に、メイド達が女主人扱いしている大奥様は高齢者。これは、なるべくしてなった状況とも言える。


「アンタ、こっちに顔を向けなさい。お薬塗ってあげるから。……全く……ヘレンったらいつまでうぶなお嬢ちゃんのつもりでいるのかね。女主人がしっかりしていないからこういう事になるんだ」


 大奥様は私に薬を塗りながら苛立たしげに呟いた。

 ヘレンとはアンナ嬢のお母様の名前だ。

 問題の嫁姑関係が、初めて実体として私の前に姿を見せる。嫁と姑の間に割って入るチャンスだ。

 この機会は逃がせない。


「大奥様は奥様の事があまりお好きではないのですか?」


 あえてオブラートに包まない剥き出しの言葉を選んだ。

 上手くいかない家人との関係を本人がどう捉えているのか、知りたかったから。


「好きも嫌いもあるもんか。あの子にはメイプル男爵家の女主人としての躾をしてやらないといけないのさ」


 うわっ。これはあかん。

 躾って。


 孫が十五歳になるくらいの年月を一緒に暮らしているのに、いまだにそんな事を言っているなんて。

 もう代替わりしてるんだから、あんまり口出ししない方が良いと思うんだけどな……。


 他人として雑談するくらいの関係ならお世話好きおしゃべり好きなお婆さんで好印象だけど。

 目上の家族としてならこれは辛い……。


「躾……ですか? 確か、奥様も男爵家の出身の方ですよね。お作法などは問題ないのではありませんか?」


「上っ面はね。ただ、グズグズしてばかりいるからもっとしゃんとして欲しいのさ。昨日だってあの子が考案したホールに飾る新しいタペストリーの図案について少しばかり意見を言ったら泣いちゃって。私は何で泣かれたのか分からないけれど、その後息子に“あまりヘレンを苛めないでくれ”なんて文句を言われちゃってね……。全く、私に言いたい事があるならその場で自分で言いなさいよと思うんだ」


「それは無茶ですよ。大奥様、怖いですもの」


 無礼は承知でブッ込んだ。これを許してくれるなら、私はこの後とてもやり易くなる。

 許してくれないなら謝るけど多分大丈夫な気がする。

 案の定、大奥様は目を丸くしてから苦笑いを浮かべた。


「怖い? そう? 私はただ思った事を口にしてしまうだけなのだけれど」


 そう言いながらも少し嬉しそうなのは何故なのか。

 王妃殿下もそうだったけれど、どうも“偉い立場の人”というのは、偉さを弄られるのを喜ぶ人が案外多い気がするのだ。

 もちろんそうじゃない人だっているし、言葉選びや声のトーンなど言い方にもコツがあるし、何より絶対に越えてはいけない一線があるけれど――そこさえ見極められれば、王妃殿下にだってある程度は言いたい事を言っても許してくれるようになる。


「ほら、そういうとこですよ。偉い人が言いたい事を言いたいように言っていたら周りは萎縮してしまいますって。もう少し奥様に優しくしてみても良いのではありませんか?」


「優しくぅ~? 今さら? 家族なのに遠慮したって仕方ないじゃない」


 ああ、そうか。この人は家族だと思って何でもズケズケ言ってしまうけれど、奥様は“家族とは違う”と思っているから何も言えずにいるのだ。

 この認識の違いと性格の違いが相俟って、ただ時間ばかりが過ぎてしまった。


「家族だからなおさらですよ。奥様と大奥様は親子も同然なのでしたら、奥様は娘様という事になりますよね。娘の躾は大事でしょうけど、それと同じくらい認めてやる事も大事ではありませんか」


 すると大奥様は黙ってしまった。

 少し言い過ぎたかな。軌道修正が必要そうだ。


「……アンナお嬢様も、お祖母様とお母様のご関係を心配しておられるようですし」


 必殺、孫アタック。これに弱くないご婦人はあまり居ない。


「アンナが……? あの子、いつも知らん顔しているけど、外ではそんな事を言っているの?」


「いえ、私が聞き出しただけです。普段は大人しいお嬢様ですよ」


「そう……」


 大奥様はしばらくのあいだ遠くを見つめ、それから私に強めの視線を寄越した。


「アンタ、なかなか油断ならない女だね。つい色々と喋り過ぎてしまったけど、公爵家のお嬢様は何を考えてアンタを送り込んできた?」


「何も考えてないと思います」


 完全にただの勢いだ。

 そうでなければ誰が恋のライバルの家に本人を連れて乗り込むなどバカな真似が出来るものか。

 すると大奥様は吹き出して口元を手で抑えた。


「本当に失礼なメイドだこと。……ちょいと、ツィギー! 来てちょうだい!」


 そう大きな声を張り上げて、大奥様はテーブルの上に置いてある呼び出し用のベルを鳴らす。


 ありゃ。もしかして、追い出される?

 ちょっと口が過ぎたかな、と反省していたら、現れたツィギー家政婦長に彼女はこう言い付けた。


「この子に上級メイドの制服を渡して」


 出世した。




 使用人内に細かい階級がある家は多く、ここメイプル男爵家も例外ではないようだ。

 仕事を分担している訳ではないと最初に言っていたけれど、それでも客人や主人のお世話に出るのは主に上級メイドの仕事になるらしい。

 上級メイドの制服は普通のものよりも布がきめ細かく上等になり、エプロンにフリルがついたり、胸元にカメオやオキニスがついたベルベットのリボンを飾るようになる。

 いわばその家のメイドの顔役だ。

 私にお湯をかけてきたメイドも上級メイドに当たる。


 早々と着替えて大奥様の部屋に戻ると、大奥様は昼食に行くために身支度をしているところだった。


「あら、いいじゃない。アンタは見栄えがいいから人前に出さない手はないわね。なんだかうちの格が上がるようだわよ」


「光栄でございます」


「じゃあそろそろお昼をいただきに行こうかしら。エリー、そこの水色のショールを取ってちょうだい。……今日のお食事は何が出るの?」


「燻製肉とキノコのパスタにじゃがいものポタージュ、それとフランボワーズのムースでございます」


「そう。困ったわ。キノコは嫌いじゃないけど少し飲み込みにくいのよね」


 出た。一言文句を言わないと気が済まない症候群。

 王妃殿下と一緒だ。これをいちいち真に受けていると、とんでもなく振り回される事になる。


「こんどお医者様に相談してみましょうね。杖はこちらをお使いですか?」


「ええ。これね、お気に入りなのよ。持ち手が花の蔦みたいになっていて」


「あら、素敵ですね」


 キノコが飲み込みにくい話など、洒落っ気の前では塵に等しい。

 みんなゲーミングブラザーズのキノコを食べてパワーアップして、元気になれば良いんだ。

 そうすれば口喧嘩のひとつやふたつ、どうって事なくなるはず。


 杖をついてゆっくり歩く大奥様の横について私もゆっくりと歩く。

 ダイニングまで時間がかかりそうだ。

 この時間に、何か話す事は無かっただろうか。


 あ、あった。


「そういえば大奥様、私の夫がですね。煙突の中にスズメの巣があったから屋根に巣箱を取り付けて良いか聞いてくれと言っておりました。よろしいでしょうか?」


「あら、そうなの。いいわよ。外す時も彼が来てくれるのよね?」


「え? さあ……どうでしょう」


 外すだけなら庭師に任せてもいい気がするけど。

 ……大奥様、ハヤトに会いたいのかな。私はいいけどでもそれって私が決める事じゃないよね……。


「聞いておきます」


「ええ。お願いね。そうだ、アンタ明日も入るのよね。うちはメイドがすぐ辞めるおかげで住み込み用の使用人部屋がいくつか空いているのよ。今日は泊まって行きなさいな」


「えっ」


「だって、その方が楽でしょう? メイドの朝は早いんだから」


「それはそうですけど」


「ご主人も泊まれるように言付けておくから、そうしなさい。ね? ああ、久し振りに話し相手が出来て嬉しいわ」


「あの、ちょっと」


 私が口を挟む間もなく彼女は突然姿勢が良くなり、スタスタと歩いてダイニングに入って行ってしまった。

 突然足腰が頑丈になった。

 もしかしたら、杖は飾りだったのかもしれない……。

 何となく一杯食わされたような気分で大奥様の後についてダイニングに入り、彼女が座る椅子を引いてあげた。



 それは私が配膳の仕事のため厨房に行った時に起こったようだ。

 厨房では、上級メイドとなった私を例のメイド達が面白くなさそうな顔で見てきた。

 撃退済みとはいえ、三人揃うと強気が戻るらしい。彼女達と視線でバチバチとバトルを交わしながら料理の乗ったワゴンを押してダイニングに戻る。

 すると、仕事で不在の当主以外の家人――大奥様とアンナ嬢と奥様、それと妹と弟がテーブルに勢揃いしていて。

 ちなみに兄が一人いるが、既に結婚していて現在は敷地内の別邸で生活している。いずれ跡を継いだら本邸に入るらしいけど、それは今は関係のない話。


 家人達の空気がピリついているのはきっと気のせいではないと思った。

 奥様は肩を縮こまらせてうつむいているし、アンナ嬢と妹君と弟君は“またか”とでも言いたげなウンザリした表情で虚空を見つめている。


「お待たせいたしました」


 あえて声を張り、よく響く声でその空気に割って入る。

 他のメイド達はぎょっとした顔で私を見たけど、ここで怖じ気付いていたら何も変わらないのだ。

 新人が空気を読めないなどよくある話だし、ここは天然という事で行かせてもらう。


 真っ先に奥様の前に料理を置きに行くと例のメイドのうち一人が小声で「ちょっとアンタ! 大奥様が先!」と注意してきたけど「え? そうなんですか?」とすっとぼけて奥様を優先した。

 別にお年寄りを大事にする気持ちがないとかそういう事ではない。

 ただ、奥様が現当主の妻。女主人は奥様。今はそれを優先するだけだ。

 これを覆せるのは当主か女主人の命令のみ。

 奥様の前にお皿を置こうとすると、奥様はうつむいたまま蚊の鳴くような声で「お義母様に先に持って行って頂戴」と言った。


「かしこまりました」


 手を引っ込めて別の皿を大奥様の前に置く。

 大奥様は意味ありげな視線で私を見上げてきたけど、素知らぬ顔で少し肩をすくめて見せると“やれやれ、しょうがないねぇ”みたいな顔で苦笑いを浮かべた。


 ほら、そこまで気にしてないじゃない。

 今までの私の無礼を許してくれるくらいなのだから、これも大丈夫だと思っていた。

 使用人の大奥様ファーストも、きっと使用人側の忖度だ。

 命令されてやっている訳ではない。


 配膳を終え、壁際に控える。

 私を見る先輩メイドの目がつり上がっていたけど、にらみ返すとスッと目を逸らした。


 ふっ……。他愛もない。

 この程度の悪意、子供の戯れのようよ。


 学院時代、マリアはじめ攻略対象一同から向けられた視線に比べればこんなものどうという事はない。

 あの頃は辛かったけれど、あの経験は確実に今に生きている。

 人生に無駄な事などないのだなぁと変なところで感心していたら、静かな食卓からぽつぽつと会話が聞こえてきた。

 大奥様が、アンナ嬢に話しかけている。


「アンナ、学院はどうなの?」


「どうって、別に何もないよ」


「そう……。ステュアート家のご令嬢とはいつお友達になったの? 貴女、去年はそんなお付き合いがあるなんて全然言ってなかったじゃない」


「え? ステュアート家のお嬢様? あの、噂の? アンナお姉さま、お友達なの?」


 十歳の妹が食い付いた。噂ってどんなのだろう。

 きっとろくなもんじゃないな。我が身を振り返ればまともな噂が立たない事くらい分かる。

 だけど後悔するような事はしていない。

 全て、必要な事だったのだ。今のこれだってそう。

 壁際に控えたまま姉妹の様子を見ていたら、アンナ嬢は静かに首を振った。


「ううん、仲が良い訳じゃないよ。わたしが仲が良いのは、あの人の婚約者。隣の席なの」


 仲良くない! 別に仲良くないって! 毎日見てるから知ってるよ!?


「えー? それってアンナお姉さまが最近よく話に出してくる人?」


「なぁにそれ。どういう事?」


「ううん、何でもないの。それよりお婆ちゃん、午後になったらまたクッキー作ってもいい?」


「また? 貴女ねぇ、趣味がお菓子作りなのは構わないけれど、ルイージの邪魔だけはしないようになさいよ」


「はい」


「全く……厨房で遊ぶ事を覚えるなんて、誰に似たのかしら。貴族の娘らしくもない」


 その発言で空気がピリッと緊張を孕んだのがわかった。

 奥様がまた肩を縮こまらせてうつむき、十三歳の弟君がぽつりと「またかよ……」と小さな声で呟く。


 またかよじゃないよ!

 自分ちの事でしょうが!


 アンナ嬢は面倒そうな顔をして知らん顔でスプーンを口に運んだ。

 そんな彼女に強めに視線を送ると、気が付いた彼女は私の顔を見て困ったように眉尻を下げる。


“いいから、言え”


 口の動きでそう伝える。

 約束したじゃない。どんな時でもお母様の味方をするって。

 波風立てたくないのは分かるけど、立てなきゃ今までと変わらないんだよ!?


 圧力を送り続けると、アンナ嬢は覚悟を決めたかのようにスプーンを置き、少し震えながら小さな声を発した。


「お婆ちゃんはママに厳しすぎるよ」


 小さいながらも声はしっかり届いたようだ。

 言ったあと彼女はテストの問題を解いた子供のように不安げな顔でこちらを見てきたから、しっかりと頷いて見せた。

 奥様はうつむいたままアンナ嬢を横目で窺っている。

 そして大奥様は、「あら、そう?」とさして気にしてもいない様子。

 そう、こういう婆さんは多少噛みつかれた程度では大して動じたりしないのだ。

 しかも頑固だし本人は何も困っていないのだから、今さら言動を改める訳もない。

 だからといって、ただ黙って耐える必要も無いはずだ。嫌な事は嫌って言わないと、これからどこかに嫁いだとしても結局は縮こまった生活を送るようになる。

 今のお母様――、奥様のように。


 アンナ嬢は思い切って言った苦言がさらりと受け流された事を意外に思ったようだ。

 怒られると思っていたのかな。

 拍子抜けしたような顔をした後、しばらくして急に早口で喋り始めた。

 まるで堰を切ったかのような勢いだった。


「……そうだよ。いつもいつもチクチク嫌味ばっかり言って! わたし、聞いててすごくいや。もうやめてくれない? こんな空気でご飯たべたって全然おいしくない。わたし、もう何年もここで食べるご飯がおいしいって思った事ないよ!?」


 突然牙を剥いた娘に奥様は驚いているようだ。

 おろおろしながら「ア、アンナ……わたくしの事はいいから、あんまりひどい事を言わないで……」と止めに入る。

 そんな奥様にアンナ嬢はますますヒートアップしていく。


「ママもママだよ! なんでいつもすぐ泣いちゃうの!? わたくしさえ我慢していれば丸くおさまるの……みたいな顔して! おさまってないからね? ママが泣くたびにわたし達みんな辛い気持ちになってるんだからね? あんな年寄りの言う事なんていつも大した内容じゃないし、何も怖くないじゃない! なんで言い返さないの!? もうちょっと強くなってよ!」


 普段おとなしい子がキレると怖い――全くその通りだ。

 突然、大奥様を“あんな年寄り”呼ばわりして奥様を罵倒し始めたお嬢様に、ダイニングにいる全員がついていけずポカーンとした表情で見ていた。

 言いながら泣き出してしまったアンナ嬢はナフキンをぐしゃっとテーブルに叩き付けて席を立ち、ダイニングから出ていってしまう。

 奥様はおろおろして動けずにいるようだ。

 私はスッと近寄って、背後から「後でアンナ様のお部屋にお二人のお食事をお運びします」と伝え、椅子を引いて無理矢理立たせた。

 食事はまだ終わっていないけれど、今以上に母子で会話をするべきタイミングはなかなか無いだろう。

 というか普通に食事が出来る空気でもないし。


 扉を開けてやり、半ば追い出すように奥様をダイニングから追い出した。


 ふぅ、とため息をついて振り返ると、ダイニングにいる全員の視線が私に突き刺さっているのに気が付いた。


「あ……えーと……。フランボワーズの、ムース。そろそろお持ちしましょうか?」


「まだ早いわよ」


 すかさず大奥様のツッコミが入った。


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