55.義弟による女の子の扱い方教室その②
「そんな事ばかり言っていたらいつか刺されますよ」
「おや、それは怖いですね。気を付けましょう」
そうこうしているうちにホールに着き、始業の鐘が鳴るのを待つ。
そして鐘が鳴った時にきちんと集合してきたのは、クラスの半分程度の人数だった。
「思った以上にひどいですね」
「そうでもありませんよ。今年はこんなものです。まあ、残りは見回り担当の先生が連れてきてくれるでしょう。では始めましょうか」
ちゃんと集まってくれた生徒達に声をかけて、ペアを組ませる。
一年生は便宜上はまだ習い始めたばかりという事で、同性同士で組むのが基本。二年生になると、より実践度を高めるために男女――主に婚約者同士で組んだりもする。
私も在学時は殿下と組まされていたけど、殿下がマリアに入れ込んでからはひたすら放置され、見かねた先生が相手役をしてくれたという苦い思い出しかない授業だ。
「では、一番簡単なものから行きましょう。エリー先生、見本をやるので私の手首を掴んで下さい」
「はい」
言われた通りにローレンス先生の手首を掴む。
「皆さん、しっかり見ていて下さいね。こうして手首を掴まれた時は、力任せに振りほどこうとしても難しい場合が殆どです。ここから逃げるためには、まず手のひらをパーに開いて、こうして手首を捻るように回転させて
下さい。すると抜けやすくなります」
手首をぐりっと回転させられると、掴んでいる側は手を離さざるを得なくなる。先生の手が私の手からスルッと抜け、「おおー」と感嘆の声が上がった。
「ではペア同士でやってみて下さい。私とエリー先生で見回っていきますので、質問などあればその時にお願いします」
はーい、と返事がされて、各自実践に取り組む。ローレンス先生は男子を、私は女子を見て回る事になった。
男子はさすがにある程度戦いを学んでいる子も多く、すぐに実践出来ているようだけど、女子はそもそも他人と攻撃的な触れかたをした事がないという子の方が多いのもあって、手首を掴む方もおっかなびっくりだ。
こんな時は積極的に介入するに限る。
「やりにくいですか? では私が掴んでみるので抜けてみて下さい」
「は、はい」
箱入り令嬢の細い手首を優しく掴み、安心してもらったところでぐりっと手首を回してもらう。
見本の通りにスルッと抜け、令嬢の目に達成感の光が宿るのを見て「お上手ですよ。では今度は貴女が相手の方を掴んでみて下さい」と伝える。
頷いてくれたので、次のペアにも同じように最初の一歩を促す。
何事も、最初の一歩が一番大変なのだ。そこさえ乗り切れば後は慣れと勢いで何とかなる。
「慣れてきたら、暴漢になったつもりで強く掴んでみて下さいね。かなり抜けにくくなりますから、そういう時は空いている手を補助に使うと出来るようになります」
「はい!」
そうこうしているうちに、やがて脱走中の生徒も見回りの先生に連れて来られ、授業に加わり始めた。
全員がある程度慣れてきた頃、終業の鐘が鳴った。あっという間だった。
最後にローレンス先生はこう言って授業を締め括る。
「こうして実技を学んだとしても、一番大切なのは“そもそも危険に近寄らない”という事です。例えば––従者を撒いて遊びに出るなど、自ら危険に会いに行くようなものですから、決してしてはいけませんよ。もしも誘拐されてしまった場合、自分だけでなく家族にも危険が及ぶものと覚えておいて下さい。そして、いざという時に優先するのは自分の命か、名誉か、という事も考えておいて下さいね。相手が複数だったりすると、逃げきれない事もじゅうぶんに考えられますから。では、また明日」
さりげなく重い言葉を投げかけて解散を宣言するローレンス先生。
私と先生はホールに残り、退出していく生徒達を見送った。次の授業もここでやるので、私達は移動する必要がないのだ。
「……次は二年生ですね。義弟のクラスです」
「ああ、ルーク君ですか。彼は優秀なのですが……どうも気持ちが学習に向いていかないようですね。優秀だからこそ、かも知れませんが」
「お恥ずかしいお話です……。もう少し、真面目になってくれると良いのですが」
「大丈夫でしょう。きっと彼にも彼なりの考えがあっての事でしょうから。大体、本当のおバカさんなら家庭学習すらまともに受けて来ませんよ。残念ながら、そういう子は学院にたくさんいます」
彼には彼なりの考えがある――。
確かにそうなんだろうけど、サボって女の子と遊ぶなんてやっぱり良くない事だと思う。
自分だけじゃなくて、女の子まで巻き添えにしてしまっているのだから。
予鐘が鳴り、Ⅱ–Bクラスの生徒達が集まりだす。
その後、始業の鐘が鳴ってもルークの姿は見えなかった。
Ⅱ–Bの生徒の集まり具合は三分の二といったところ。残りの子達は今回も見回りの先生が回収してくるでしょう、という事で早速始める事になった。
「では今日は男女のペアでやりましょうか。婚約者がいる方はその方と、そうでない方は私が順番に入りますので、それまで適当な相手と組んで様々な手を試していて下さい」
これ(男女ペア)は主に女子のための取り組みだ。というのも、女子は女子ばかり相手にしているとどうしても真剣みに欠けてくるし、いざという時に身がすくんで動けなくなりがちになる。
なので、体格で勝る男性を相手に実践の経験を積むのだ。
魔法での護身ももちろん出来るけど、相手との魔力比べになりがちな上に魔力切れを起こしたら終わりなので、授業ではあくまでも体捌きによる護身術に特化している。
男子は男子相手のほうが練習になるので異性相手の実践にメリットがある訳ではないけど、そこはまあ女子に付き合ってあげましょう的な感覚で女子と組んだりする。
そこから恋が始まってしまう事もあるらしいけど、私には無縁な話だ。何せモテないので。
クラス内に婚約者がいるのはおよそ三分の一程度。他は年齢が違ったりまだ婚約者が決まってなかったりして、ローレンス先生だけでその女子達の練習相手をするにはどうしても時間が足りなくなる。
自然と、男子が女子に声を掛けて各自練習が始まるのだけど(多分ルークのせいで)女子が少ない。
男子が余ってしまう。脱走中の女子が連れて来られるまでの間、手が空いている男子は男子同士で組んでもらい、ローレンス先生の代わりに私が皆の練習の様子を見守った。
「エリー先生、手が抜けません」
女子が手首を掴まれて引っ張られる設定の男女ペアが助言を求めてきた。慣れてきても、力に差がありすぎると技が通用しなくなるのはよくある事。
「そうですね。掴まれている方の手のひらを空いている手で持って、手首だけでなく、上半身全体を捻るつもりで動作を大きくしてみて下さい。このように」
「こうですか? ––あ、抜けた! ありがとうございます」
「抜けたら逃げる前に肩を思いっきり押して、相手の体勢を崩せると尚良いかと思います。コツを掴むまで何回かやってみて下さいね」
「はい!」
ただの男女ペアだとお互いに遠慮があって想定するシチュエーションも先ほどのように可愛らしいものがほとんどだけど、婚約者ペアになるとシチュエーションがもう少し本気のものになってくる。
例えば、後ろから羽交い締めにして連れ去ろうとするシチュエーションとか。
「ちょっとぉ! 離しなさいよ!」
「誘拐犯が言う事聞く訳ないだろ。何とかして脱出してみろ」
羽交い締めの状態からの脱出を試みて一生懸命もがいている女子がいる。どうやらパニックになってしまっているようだ。
「落ち着いて下さい。攻撃するのは確かに有効ですけど、当たらなければ意味がないですからね。足が床についているなら、まずは相手に背中を押し付けるようにしてみて下さい。すると腰を落としやすくなるので、そのまま重心を低くします」
「は、はい」
「そしたらすぐに両手首を内側に回転させながら腕全体で相手の腕を跳ね上げて、脇の下をくぐって抜け出して下さい」
「……よく分かりません。やって見せて下さい」
「そうですね……ではどなたか、私の相手役をして頂けませんか?」
「ハイっ!」
間髪入れずにあちこちから返事が聞こえてきた。
「ではブライアン君、お願いします」
「やった……!」
婚約者いない組から一人来てもらった。後ろからぐっと抱え込まれて、反射的に一連の流れを実行して抜け出す。
女子は目をぱちくりさせてキョトンとしていた。
「えっ? 早すぎてよく見えませんでした。もう一回お願いします」
「わかりました。では次はゆっくりやってみましょう。ブライアン君、もう一回」
「いや、先生! 次は俺が!」
「誰でもいいですよ。では貴方、お願いします」
「はいっ!」
再び抱え込まれて、一つ一つの動作を女子に確認してもらいながら抜け出して見せる。
「こう、上着を羽織る時のように腕を回すのが結構重要です」
「こう、ですか。やってみます」
動きを理解してもらい、実践する様子を見守る。今度はちゃんと抜け出せた。
「上手ですよ。体が勝手に動くようになるまで何回もやってみて下さいね」
「はい」
すると、今度は男子ペアから声が掛かった。
「エリー先生。足が地面に付かないパターンはどう対処しますか?」
「それは持ち上げられちゃってるって事ですか? そこまで行くともう痛みを与える以外にありませんね。握り拳を作って、中指を少し突き出して相手の骨を打つと有効かも知れません」
「それちょっとやってもらってもいいですか?」
「えっ」
十五歳にもなった男子が持ち上げられてしまう事ってそうそう無いと思うけど……でも、絶対無いとも言い切れないか。
彼らもそれなりに戦いの技術は習っているはずだけど、勝つためではなく逃げるための技術なんてこの授業でしか習っていないとしてもおかしくはないし。
「……いいですよ。では、持ち上げてみて下さい」
「はい!」
やたら元気な返事と共にお腹に手が回り、ぐっと持ち上げられた。足が浮いて不安定な体勢。
この状態では後ろ蹴りを入れても、大したダメージは与えられない。
さっき話したように、中指の関節を突き出した握り拳を作り、手の甲の骨を打つ。すると「痛ってぇー!」と声が上がってパッと手が離された。
「本当だ。これはとても持ち上げていられないですね」
「そうでしょう? これ、打つ時の角度が重要なんです」
「先生、俺にもやって」
返事をする前に背後から持ち上げられて、少しびっくりした。さっきと同じように手の甲を打とうとした時、ホールの扉が開いてルーク達が入ってくる。
「あ、ハーレムの貴公子だ」
背後の男子が謎の二つ名を呟いた時、ルークの視線がこちらを捉えた。
驚愕の表情を浮かべ、風を切るような凄い早さで私達のところへ向かってくる。
「な、何してるんですか!?」
「何って、護身術の授業ですが」
「それはローレンス先生の仕事でしょう⁉ ご夫人にこんな事をさせるなんて!」
それはそうなんだけど。
私だって不純な動機で学院に潜り込んでいる以上、仕事くらい真面目にやらないと色んな人に対して悪いなって思っているのだ。
抱え込まれたりとかは他の女子だってやってるし。
とりあえず手の甲を打ち、手を離してもらってからルークに向き合った。
「お心遣いは有り難いのですが、これは授業です。貴方は軽視しているようですけど。やはり真面目に受ける気持ちにはなれませんか?」
う、とルークが言い淀む。
「か、簡単すぎて……あまり意味を感じられないというか……」
「簡単ですか。どのくらい出来るのか見たいです。見せて下さい」
とりあえずクラスで一番体格の良いマックス君に協力を頼んで、ルークと組んでもらう。
当然、ルークが仕掛けられる側だ。大柄とはとても言えない義弟の体格は、今は私より少し背が高い程度。
本人に言うと怒られそうだけど、護身術がその辺の男子よりも必要なタイプに思える。
「では、始めて下さい」
掛け声と同時にマックス君がルークに掴み掛かる。
男子同士だと仕掛ける側も結構本気で、女子相手の時とは違って手首など掴まずにいきなり胸ぐらを掴んでマウントポジションに持ち込んだりする。
誘拐を想定した動きとは少し違うけれど、まあ、これはこれで必要かもしれない。
見ているとルークは胸ぐらを掴まれる直前に両手をパンと跳ね退けて片腕を掴み、その腕を引きながらマックス君の顎を掌で押して傾けた。
引くと押すを同時に行う事でより効果的になっている、見事な捌き方だった。
義弟め、思ったよりやりおる。
感心していると、ルークは何だか嬉しそうな顔をしてマックス君に次のシチュエーションをおねだりした。
……なーんだ、ずいぶん楽しそうじゃない。
そんな顔が出来るなら普通に授業を受ければいいのに。
「先生! 見てて下さい! 今からマウントポジションを引っくり返して見せます!」
「見てますよ」
なかなかのお調子者ぶりね。あれって誰に似たのかしら。
マックス君にマウントポジションを取らせ、重心を崩してから片方の手足をロックするとゴロンと上下が入れ替わる。
拳で殴り掛かる動作を寸止めしてから満面の笑みをこちらに向けてくるのが大変可愛らしかった。
「確かに凄いですね。簡単だと言ってしまう気持ちも分かります。が……そこを何とか抑えて、授業には参加して下さると嬉しいです」
「エリー先生がいるならちゃんと受けますよ」
好意が駄々漏れな顔で微笑まれて心が苦しい。
こういう時はどうしたらいいんだろう。いっそ義姉だと打ち明けた方が親切なんじゃないのかな。
いやでもエリーは半年で帰国するけどアリーシャはずっと家族だし……。
知らなかったとは言え、義姉にいきなり結婚を申し込んだなんて黒歴史を一生抱えていくなんて可哀想だ。
知らないままでいけば青春の一ページのうちの一行以内に納まるはず。
「……私がいなくても受けて下さい。きっと貴方の糧になります」
それだけ言うのが精一杯だった。
Ⅱ–Bの授業はそこで終わり、次にⅠ-A、Ⅱ-Cと続いた。二-Cが一番たちが悪くて手を焼いた一方で、一年生の初な感じにはとっても癒される。
色んな意味で、去年と同じ学院とはとても思えない異世界ぶりだった。
そしてお昼休み、エリザベス姉貴に誘われてご一緒したランチルームで彼女はため息をついた。
「はぁー……疲れた。働くって大変なのね」
確かに、高位貴族のご令嬢のお仕事一日目なんて疲れない訳がないよね。
「お疲れ様です。授業、どうでしたか?」
「どうもこうもないわよー。何で今年の学院ってこんなに荒れてるの? まともなのAクラスくらいだったわよ」
「あ、Aクラスの授業に入ったんですね」
「入った入った。アリ……エリー先生の婚約者くん見たわよ! 何あれ、めちゃくちゃ格好いいじゃない! 周りの空気までキラキラしてたんだけど!」
エリザベス先生はテーブルに身を乗り出して言った。
「そうでしょう? 私が心配してしまうの、分かって頂けます?」
「まあねー。貴女のお相手達って何かとランクが高い人ばっかりよね。まあ、貴女自体が高ランクのご令嬢なんだけど」
「何ですかその言い方。私のお相手達って言っても二人だけじゃないですか。たくさんいたみたいな言い方しないで下さいよ」
アネキは笑ってランチに手を付けた。
「その二人がどちらもとんでもない相手だって言ってるのよ。普通じゃないのばかりじゃない。そりゃ虫だって寄ってくるわよね。何かマリア二号みたいなのもいるっぽいし……。貴女、注意しておきなさいよ」
「注意しましたよ。でもあんまり効果がないんですよね」
「あら、そうなの? うーん……。私も去年そういう目に合ったから、あまり強く出られない気持ちは分かるのよねぇ。嫉妬は醜いとか、弱い者苛めだとか。そう言われちゃうともうこっちは何も言えなくなっちゃうって」
「そうなんです……。私、彼にだけは幻滅されたくないんですよ。あまり嫉妬を見せない方がいいんでしょうか」
「知らないわよ。私だって前の婚約者に愛されてた訳じゃないもの……。でも、男性には気持ちを伝えるくらいはした方がいいのは確かよね。私は不安に思ってます、とか。じゃないとスタートラインにすら立てないんだわって去年思ったもの」
「スタートラインですか」
「ええ。人間関係の、スタートライン。私ね、前の婚約者に好意をちゃんと伝えたことが無かったの。なんだか、女性のほうからそういう事を口にするのってはしたないような気がしちゃってたのよね。それでも付き合いは長かったから、分かってくれてるって思ってた。でも――」
一呼吸置いて、更にたっぷり間を開ける。
「全っっ然! わかってなかった! びっっくりするくらい伝わってなかった! 私がそれなりに大事に思ってたって、知らなかったんですって! 花言葉を使った手紙のやり取りとか、お茶会で服装を誉めた時の会話とか、全部形式に則った社交辞令だと思われてたの! 私、前の婚約者と終わったんじゃなかったの。始まってすらいなかったのよ」
一気に言い切ってお茶を口にするエリザベス姉貴。
「離れて行ってから気持ちを口にしても遅いのよね……。もう、始める事すら出来ないの。どんなにこっちが新しい関係を築こうとしても、あちらの中では既に終わった関係だから。何を言っても届かないのよ」
「何だか納得しがたいですね。エリザベス先生は良き妻になるために色々な事を努力していたではありませんか。そういうところを見ずに社交辞令と思い込むなんて」
「良き妻となる努力と、良い人間関係を築こうとする努力は別物なのよ。私はそこが足りなかった」
そこまで話したところで、背後からよく知る声が掛けられた。
「あれ? エリザベス先輩とエリー先生。お二人でランチですか」
振り返ると、ルークとハヤトが連れ立ってランチルームに来ていた。
「ちょっとルーク。私、もう先輩じゃなくて先生よ。貴方こそ義理の兄とお二人なの? 仲良くなったのね」
「仲良くというか、保護してあげないと、と思いまして。義兄となる人は女性のあしらい方があまり上手で無いようなので」
そう言ってルークはさりげなく私の隣に座ろうとして来た。エリザベス姉貴はそれを制して「ルーク。貴方、こちらにお掛けになって」と自分の隣に座るよう促す。
「何ですか?」
「貴方、サボり魔らしいじゃない。一度説教しなきゃと思っていたのよ」
アネキによるお説教が始まり、私の隣に座ったハヤトは苦笑しながら口を出した。
「先生、ルーク君は毎回授業を受けなくても既に大体は理解しているそうですよ。あまり叱らなくても」
「いえ、良くないですわ。ここで楽する事を覚えてしまうと卒業後も引きずりますから。ルーク、貴方は卒業後には亡きお父上の爵位を継いで御家を立て直すのでしょう? 今そんな事では先が思いやられますわよ」
「参ったな……。エリザベス先輩には敵わないや」
そう言いつつ満更でもなさそうな表情で運ばれてきたランチに手を付けるルーク。
デザートの小皿から苺をフォークで突き刺し、お説教中のエリザベス先生の口元に「はい、あーん」と放り込んだ。
咄嗟の事にアネキは素直にそれを口に入れながら目を白黒させる。
「美味しいですか? 先輩、フルーツ好きでしたよね。以前うちでお茶会を開いた時にチョコレートファウンテンの側から離れなかったのを覚えています」
ボッ、と音を立てそうな勢いでアネキの顔が赤くなった。
おや?
おやおや?
これは––。
ちら、とハヤトを見ると、彼も同じ事を考えたようで、面白そうな顔をして目配せしてきた。
「へえ、チョコレートファウンテンなんて俺、噂でしか聞いた事がないなぁ。今度見せて下さいよ、ルーク君」
「あら、それは良いですわね。せっかくですから、エリザベス先生にも召し上がって頂くのはいかがかしら?」
ちなみにチョコレートファウンテンは、大の甘党だった幼き日のクリス兄が最初に作った魔道具である。チョコの滝に打たれたい、という願望のなせる業だったらしいけれど。理系に甘党が多いのはこちらの世界も同じようだ。ルークは私達から妙な圧力を感じ取ったのか、怪訝そうな顔で笑みを浮かべる。
「別に……いいですけど。あ、それならエリー先生もご一緒にいかがですか?」
「私は遠慮いたします。休日は夫と過ごす事にしているので」
「そうですか」
かく、と頭が項垂れて、すぐに気を持ち直してエリザベス姉貴に向き合うルーク。
その横顔は、私達が卒業した時よりも随分大人っぽくなっていた。
「じゃあ先輩、こんどお休みの日に遊びに来てください。クリス兄様にファウンテン用の魔道具を借りておきます」
「は、はい……」
いいなぁ。チョコレートファウンテン。
私も今度借りようっと。ベティとのお茶会で使うんだ。
「いいですか、ハヤト義兄さん。女性が怒っている時はこうして甘いものを食べさせると大抵おさまるんですよ。覚えておいて損はないです」
「なるほど。でも、女性の前で言うセリフじゃないですよね、それ」
本当だよ。お前は太宰治か。
その後、妙に何か言いたげなオーラを出してくるハヤトに気が付いたものの、お昼休み終了の鐘が鳴ると共に解散になってしまい話ができないまま私はエリザベス先生と一緒に教員室に戻った。
その時、彼女に顔をじっと見られたから「何ですか?」と聞いてみる。
「……貴女とルークって従姉弟だけあって少し似てるわよね……。あー、嫌だ。すっごい複雑」
と言われた。
「なんて失礼な事をおっしゃるんですか。それよりアレですか、やっぱりルーク、ありですか?」
すると、少し頬を染めてうつむいた。やだ可愛い。
「ありならそう仰って頂かないと分かりませんよ。さっきそういうお話をしたばかりではありませんか。気持ちをちゃんと伝えないとスタートラインにすら立てないって」
「そうだけど……私なんて年上だし、マリアに婚約者を取られる程度の女だし」
「あれは特殊な例すぎましたから気にしなくていいんです。それに、ルークは年上が好きらしいですよ。あの子がまだ婚約者を決められずにいるのは、その辺りが関係しているのかも知れません。うちのお父様が持ってくる縁談は、同い年か少し年下の女の子ばかりですから」
そう、お父様はよかれと思ってそういう選び方をしているのだろうけど、それで今までルークが乗り気になった事は、無い。
どうしてかな、と思っていたけど、先日理事長が言った年上好きという言葉がその通りなら、エリザベス姉貴はむしろ武器を持っている事になる。
「女の子と遊び回っているのはなんとしてもやめさせますので、私の方からもお父様にそれとなくお話をしておきましょうか。婚約がだめになった経験については、私も同じなのでお父様から何か言われる事はありません」
「そうかしら……。でもそれは早すぎるわ。今はまだあの子が子供じゃなくなってたって気付いただけだもの」
「……それもそうですね」
いきなり婚約は気が急きすぎだったかな。少し様子を見た方が良さそう。
教員室に着き、私はローレンス先生と合流して午後の授業に向かう。次はⅡ–Aだ。ハヤトのクラス。
私の少し前を歩きながらローレンス先生は言った。
「ハヤト君は護身術必要なんでしょうか? どう考えても要らない気がするのですが」
「私もそう思いますけど、一応そういう授業ですし……受けてもらう他に無いですよね」
「フフッ、彼はシャムも出禁になってしまったし、もう何のために学院に来ているのか分かりませんね」
「本当ですね。同世代との繋がりを持つくらいしかする事がなさそうです」
「ええ。結局のところそれが一番大事ですね。ここでの繋がりは一生ものですから、しっかり友人を作って行って頂きたいものです」
そうだね。
お茶会や夜会よりも、学院で過ごす時間の方がずっと濃ゆいと思う。
卒業した後も同期生だけのパーティーとかあるし、お父様もお母様もいまだにそういう集まりには欠かさず顔を出している。
正に一生の付き合いだ。
「特にハヤト君は初代の当主になる訳でしょう? ここで信頼出来る家臣候補を見付けておくと後々楽になるでしょうね」
「家臣候補ですか。……そうですね、確かに」
お父様のサポートがあるとは言え、全てをやって貰う訳にもいかない。
自分で選んだ家臣に気心の知れた貴族出身の人が一人いれば、かなり楽になりそうな気がする。
でも卒業まであと半年位しか無いんだよね……。
もうすぐ夏の長期休暇も入ってくるし。
卒業後の人生を預けてもらうには、ちょっと在学する期間が短すぎるかも。
そんな事を考えてながらホールに入った。
中には既にほとんどの生徒が集まっていて、それぞれが気の合う同士で固まって雑談しながら待機していた。
ハヤトは先日ランチルームでお疲れ様会をした時のメンバーにプラス一名、ユリウス様も加わったグループの一員になっている。
何だかんだで馴染んでいるようでひと安心だ。
一方アンナ嬢は……あまり仲が良い人がいないようで、一人で所在無さげに佇んでいる。
今まではユリウス様が構っていたのだろうけど、先日の件があってからはさすがのユリウス様も距離を置いている様子。
まるで社交パーティーのような光景だ。
力関係と人間味模様が一目瞭然。
この機会にアンナ嬢と少し話が出来ないかな。
どんな人なのか、知りたい。
私は本鈴が鳴る前に彼女の側に近寄り、声を掛けた。
「アンナさん」
「は、はい!」
ビクッと肩を跳ねさせてこちらを向くアンナ嬢。
少し怯えたような表情ながら、アリーシャの時よりは会話に応じてくれそうな雰囲気がある。
「護身術は得意?」
「い、いいえ。苦手……です……」
「そうですか。今日は男子と組んでもらう日のようですけれど、大丈夫ですか?」
「はぁ、それは……はい。大丈夫です……」
会話が続かない予感をひしひしと感じながら彼女を観察してみる。
目をやや下に向けながらも視線はあちこちをさまよい、前で揃えた両手は指がそわそわと落ち着きなく動いている。
ハヤトと話す時はこんな風になっていなかった。
彼女は本当に女性が苦手なのかもしれない。
ふと、指先の爪が貴族の令嬢とは思えないくらい深く切られているのに気が付いた。
彼女の家は男爵家ではあるけれど、特に困窮しているといった話は聞いた事が無い。
家事労働のために深爪をしている訳では無いと思う。
であるなら、これは精神的なものかしら。日常的にストレス過多な人は、指先に現れやすいと個人的に思っているのだけど。
「ねえ、アンナさん。貴女、大丈夫?」
そう声を掛けると、しばらく沈黙した後、彼女はずず、と鼻をすすった。
瞬きが増え、手が小刻みに震えていて。
涙を堪えているように見える。
何となく、彼女はマリアとは違うという確信を得て、もう少し歩み寄ろうかなと思った。
きっと、男子としか打ち解けられないから安易に婚約者持ちと仲良くなってしまうのだ。
ここで女子との関わりを持てるようになれれば、略奪なんてするもんじゃないって気付いてくれるかも知れない。
略奪はする方もする方だけど、される男も大概なのだから。
そうやって身近な人を裏切る事が出来る人は、いつかまた裏切る。
偏見だけど、そんなに間違ってないと思う。
「ねえ、明日のお昼休み、良かったらランチをご一緒しませんか? 先生、貴女とお話をしてみたいの」
アリーシャよりはエリーのほうが話がしやすいはずだ。
身分詐称、案外便利。彼女が小さく頷いた時、本鈴が鳴った。
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