36.別人みたいって言われる
アリスと暮らし始めてもう三ヵ月ほど経つ。
最初の二ヵ月くらいはただ楽しくて、浮かれているだけだった。だけどここ最近は少し苦しい。
「好きだよ」
と伝えて、タグを交換した時からだ。
もう遠慮しないと思ってした事のはずなのに、そこから身動きが取れずにいる。
普通なら“好きだよ”の後には“恋人として、俺と付き合って下さい”と言うものなんだろうけど、出来なかった。
アリスも俺を好意的に思ってくれているのは分かっている。
それでも、迷ってしまう。
彼女は婚約の前に恋人期間を置くなんて事が許される人じゃない。なんたって公爵家のご令嬢だ。本来なら一生口を聞く事も無く、まして二人きりで暮らすなんてあり得なかったはずの人。
これ以上お近付きになりたければ“結婚して下さい”以外に言うべき言葉は無い。
だけど、彼女は本当にそれでいいんだろうか。
たった数ヵ月、一緒に暮らしただけの男に“貴族の籍を抜けて下さい”なんて意味合いの事を言われたら困ると思うんだよな。
考えるほど分からなくなる。
アリスにとっての幸せって何だろう。
今ひとつ勇気が出なくて、本人に訊けずにいる。
芝居や物語なんかでよく出てくる“愛があれば身分なんて関係ない”は、下の身分の人間が言う事じゃないなって当事者になってよく理解した。
俺と一緒になるには、彼女が失うものは大きすぎる。
アリスといると、とにかく目立つ。
前みたいに握手して下さいって言われる事はほとんど無くなったけど、逆に遠巻きにじろじろ見られる事は増えた。
普通なら凄くストレスになる状況だと思う。
でもアリスはいつも平然としていて、自分のペースを崩したりない。
注目され慣れているんだ。さすが俺のアリス。いや違うけど。でも俺のって言いたい。
現にタグを交換してからは、あの目立つ場所に俺の名前が乗っているおかげか、アリスにちょっかい出そうとする男はいなくなった。実は結構苦心してたんだ、下心のありそうな男が近付くのを止めるのをね。
一番下心があるのは俺なんだけど、それはまぁ置いといて。
そういう目的でアリスに近付こうと話し掛けてくる男に背後から睨みを効かせ続ける必要が無くなった。
そういう奴はタグを見た瞬間ぎょっとした顔になって、そそくさと立ち去ってくれるのだ。
これはとても助かっている。
別に彼女の人間関係を全て取り上げたい訳じゃなくて、普通に友人と楽しく話すぶんにはどんどん交流すればいいと思う。
現に今も彼女はベティとギルド内のコーヒースタンドで立ち話をして笑っている。
楽しそうで何よりだ。
「……ハヤト、顔がニヤけてる」
「お前ホント誰だよ。中身入れ替わったんじゃねーの」
こんな風に言われる事も増えた。
自分ではそんなに変わったつもりはないけど、他人から見ると以前とは別人らしい。
「前の俺ってどんなだっけ」
「なんつーか……壁があったかな」
「あったあった。雰囲気が固かったな」
「そうかな」
「まぁ、そういうのって自分じゃ分からんよな。今もだらしない顔してんの自分で気付いてないだろ?」
今話してるのはキースとロニーと言って、同一パーティーに所属しているAランクの奴ら。
結構強くて、巷では氷の魔術師とか獄炎使いの剣士とか呼ばれている。
……いいな。カッコいい。何で俺はカメレオンなんだろう。他にもトイプーのテッドとか羊のジョージとかの動物シリーズがいるからいいけど。
「いいだろ別に。俺は今幸せなんだよ」
「うっわ。隠しもしないってこりゃ本気だ。そんなんで大丈夫なのか? あの子アレだろ、あの魔道具の家の」
「社会勉強、だっけ? 最初は何だそりゃって思ったけど、よく考えたらラヴ繋がりだよな。ラヴに出会って庶民を知りたいって思ったんなら大した行動力だよ。俺、ステュアート家ちょっと見直したもん」
「だな。本当に庶民思いな人達なんだろうな。ハヤトは会ったんだろ? 公爵ってどんな人なの?」
「……結構怖い人だったよ。優しいけど」
一見して何でも許してくれそうな柔らかい雰囲気と少し抜けたような発言で、相手の本音を引き出すのが上手い人だと感じる。
これ、アリスも同じ性質持ちだと思っている。
「へー。いかにも貴族って感じだな。良い方の」
「お前達一緒に暮らしてんだよな。もう付き合ってんの?」
ストレートにきた。首を振って否定する。
「いや。まだそういうんじゃないよ」
すると氷の魔術師キースは苦笑いして言った。
「まだ、ときたか。こりゃ明日には結婚します報告が来てもおかしくないな」
「半年後にはパパになってそう」
そう言ってケラケラ笑う二人を睨み付け、ハイテーブルに肘を乗せて寄り掛かった。
「……変な事言うなよ。俺が一方的に片想いしちゃっただけだ。まだとか言ったけど、アリスはあと九ヵ月もしたら実家に帰るんだから、実際にどうにかするつもりは無いよ」
ああ。断言してしまった。弱気が出ている。
アリス本人は、このまま行けばいずれ実家に戻る事になるとまだ知らずにいる。
庶民として暮らしていくんだと、本気で思っているんだ。
そのうち話さなきゃな、と思うけど、言った時がこの曖昧な関係が終わる時だと思うと――少し怖くて、なかなか切り出せない。
「そうなの? ふーん……。じゃあその後は? ハヤトはまたソロに戻るのか? お前がレアドロップ持って来なくなったお陰でレートが上がってこっちは助かってるんだけど」
「そういやいくらお嬢様の護衛とは言え、今さら王都周辺のモンスターの相手なんてよくやるよな。退屈じゃないのか?」
「全然」
むしろ楽しい。
成長著しいアリスとしょうもない話をしながら気ままに郊外を歩き回ったり、一緒に夕焼けを見て“綺麗だね”と言ったり、ドロップ品を見つけて嬉しそうな顔をするアリスを眺めたり。
三年前、孤児院から出て初めて自分達の力で郊外に出た時のようなワクワク感がまた味わえている。見慣れた景色も、アリスがいるとこんなに色鮮やかだったのかと思う事ばかり。
もう、一人に戻ったところで以前のように楽しめる気がしない。
一人じゃない事の楽しさを思い出せたのは、アリスのおかげだ。
ふぅん、と相槌が返ってきて、何となく微妙な顔で微笑まれた。
家に帰って、一通りのルーティンを済ませるともうすっかり夜が更けていた。
あとは寝るだけだ。アリスがお風呂上がりにカモミールのお茶を淹れてくれた。
薄手の黒い夜着がちょっと目の毒なんだけど、良いものには違いないのであえて何も言わずにいる。
明日、アリスに正式なランクが付く。
その話をしながらお茶に口をつけ、尋ねられた事について自分の経験を交えて答えた。
すると頭の中で何がどう繋がったのか、彼女は急に慈愛に満ちたような表情になり、小さい子どもにするような手つきで俺の頭を撫でてくる。
「なんだよ、アリス。やめなさい」
「いいじゃないですか。今までよく頑張りましたね」
ああ、そういう事。
俺の嫌いな同情……とはまた違う、全てを肯定してくれたような感覚が不意にやって来る。
誰だって頑張ってるし、俺だって自分の力だけでやってきた訳じゃない。色んな人に助けられてきた。
独りだけど妹や幼馴染達、父親との思い出だってある。
なのについ目の奥が熱くなってしまい“今まで頑張ってきた”の意味を“アリスと暮らし始めてからの話”にすり替えて答えた。だって、こんな事で泣きたくなんてなかった。
「別に、普通だって。三ヶ月なんてあっという間だったし、残り九ヶ月だってきっとすぐに……あっ」
言っちゃった。気が緩んでいたせいだ。
“いつか言わなきゃ”と思っていた“いつか”が今来てしまった。
アリスは説明を求めてじっと見つめてくる。もう、この流れに乗るしかない。
姿勢を正して座り直し、真っ直ぐにアリスと向き合った。
「……公爵は、アキュリス様が結婚する時くらいまでをアリスの自由時間と考えているんだって」
「そうなんですか!?」
目を丸くするアリス。少しの沈黙のあと、ティーカップに添えていた手が離れ、力なくテーブルに置かれた。
「……じゃあ、九ヶ月後には私はどこかの後妻か修道院に入るかして、貴方と離れなくちゃいけないんですか?」
後妻でも修道院でもなく、別邸で自由に暮らすって選択肢だってある。
それを口にしようとした時、アリスは言った。
「……ねえ、ハヤト。……私、貴方と離れたくない。修道院は構わないけど、後妻は嫌ですね……。貴方に、二度と会えなくなりそうで」
少し震えている彼女の手元には、昼間、俺が髪に挿した秋桜が一輪挿しに挿して置いてあった。
アリスが生けてくれた秋桜。ただ道端で見付けただけの、野草と変わらない花だ。
家に着いたら捨てていいよ、って言ったのに。
胸の奥から熱い気持ちが込み上げてくる。
俺は何をうだうだ悩んでいたんだろう。どうしたいかなんて、最初から決まってたのに。
二度と会えないなんて冗談でも言わないで。
一度も離れずに生きて行きたいんだ。
アリスの手に、自分の手を重ねて言った。
「俺と、結婚しよっか」
顔を上げて俺の目を見るアリス。
伝わったのかな。
突然こんな事を言われて、君はどう思っているんだろう。
「アリスが平民として生きるのを悪くないと思っているなら、俺と……結婚してほしい」
綺麗な瞳から涙がこぼれた。
ぽろぽろ涙がこぼれ、やがて止まらなくなる。
「泣かないで、アリス」
だってまだ一番聞いてほしい事を言えてない。答えはひとまず置いとくとしてもさ。
何よりも分かってほしい事があるんだ。
「大好きだよ」
口にすると、もう答えてもらえなくてもいいかな、と思うくらい心が満たされた。
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