21.★アリスに乗りたかったから


 人の第一印象は最初の三秒で決まる、という話がある。

 その話は実際に結構合っていると思っているんだけど、まさか三秒経っても『可愛い』以外の感情が浮かばない事があるなんて思わなかった。


(かわいい……)


 いやいや、自分は何をしに来たんだったか。

 そうだ、 お礼がてら釘を刺しに来たんだった。

 初めて会ったステュアート家の深窓のお嬢様は、このとんでもなく失礼な男を不安げな顔で見上げてきた。

 怖がらせてごめんね、と思いながら公爵夫人と話をする。

 妹の言っていた通り、平民だからと無体を働く気持ちは無さそうな様子だ。全くの取り越し苦労に安心半分、拍子抜け半分。


 本当に……、本当にただの親切心で妹を助け、仕事を与えたというのか。

 信じられないけど、結界を抜けてきた以上、そういう事になる。


 やがて話が一段落して、夫人は「また遊びに来て頂戴な」と言って朗らかに笑った。

 ジェフリー氏に少し小言を言われた以外、大して怒られなかったのが不思議でたまらなくて、俺の中の貴族像が彼女達に塗り替えられてしまったのを感じた。


 その日の夜、帰ってきた妹が楽しそうに公爵家での出来事を語るのを聞いた。


「アリスお嬢様ったらね、いきなり私をドレスに着替えさせて、お茶を飲む練習をしましょうなんて言うのよ。お茶を飲むのに練習が必要なんて、びっくりだよね」


 それは仕事なのか? と思ったけど、貴族の、特にお嬢様の考えている事など理解できる訳がないので、ただ頷いて聞いてみせる。

 妹から聞く話と、あの可愛らしいお嬢様の姿を頭の中で組み合わせるとやけに微笑ましい気持ちになった。

 そんな事が二~三日続いた頃、妹の話す内容に公爵家嫡男の名前が出てくるようになる。


「アキュリス様がね、廊下ですれ違ったりするといつも、ピンッ! て直立してご挨拶して下さるの。もう、とっても可愛らしくて」

「可愛い?」


 何言ってんだコイツ。男だぞ?


「ラヴ、お前大丈夫か? 可愛いっていうのはお嬢様みたいな人の事を言うんだぞ」

「そうだけど……。っえ!? 兄ちゃん、今なんて?」

「あのお嬢様みたいな人の事を可愛いって言うんだって言ったの」


 妹は口をパッカーンと開いて椅子ごと後ずさった。


「兄ちゃんが……戦闘以外はアホの兄ちゃんがとうとう……女の子の顔を認識した……」

「アホって言うなよ。人の顔くらい認識してるって」

「そういう事じゃないの!」


 座り直して、ふぅとため息をつく。


「ねえ兄ちゃん……初恋が公爵家の人なんてさ、私達バカだよね」


 さりげなく俺も入れてくるのはどうなんだと思うが、妹はどうやらアキュリス様に恋をしてしまったらしい。


「……そうだな。不毛だ。すごく」


 俺はただお嬢様が可愛くて結構優しい人……らしいと知っているだけで、好きとか嫌いとか、そういう感情を持てるほど親しい訳じゃない。

 だけど手の届かない人達だという事くらいはわかる。

 本来なら口をきく事すらあり得ないような身分差だ。あのくらいの家になると、使用人すら貴族かその縁者だというじゃないか。

 妹はテーブルに突っ伏して呟いた。


「あーあ、兄ちゃんでもわかるくらい不毛かぁ……」

「さっきから何なんだよ。俺だって人の心の機微くらいわかるってのに」

「そうだけど、兄ちゃんの場合、自分の事として受け取る機能が壊れちゃってんのよね。全部他人事って感じで」


 否定は出来なかった。

 俺だって、自分に好意を寄せてくれる女の子がそれなりにいるって薄々は知っている。

 だけどお断りするのが地味にしんどいのだ。傷付けたい訳じゃないのに傷付いた表情をさせてしまうと、しばらくの間は罪悪感でいっぱいになる。そんな事が日に何回かあれば尚更。

 ただ遊びに誘われるくらいなら「ごめんね、今は忙しいんだ」で済むけど、思いつめたような顔で「恋人になって下さい」と言われると……しんどい。

 だから鈍くなる事にしたんだけど、段々そっちが素になってきている。

 結果的に、良かった、と思う。深刻に考えなくなって初めて、彼女達も別に本気じゃなかったと気付けたのだから。彼女達は大抵すぐに新しい恋をして、恋人と楽しそうに過ごしている。俺じゃきっとあんな幸せそうな顔はさせてやれない。恋とか、愛とか、俺には関係ない話。


 ただ、気持ちを憧れに留めておけなかった妹を気の毒に思った。



 それから数日後、公爵家から呼び出しがあった。何事かと思ったら、妹とアキュリス様が婚約したという話で。


「はっ⁉ どういう事⁉」


 青天の霹靂すぎて、公爵家の人間が勢揃いしている応接間でつい大声を出してしまった。

 だって身分差はひとまず置いておくにしても、勤め始めてまだそんなに経ってないし。

 妹がアキュリス様に好意を持ってしまった話だって聞いたのはつい先日だ。


「いくら何でも早すぎない!?」

「お気持ちはよく解りますわ。ですが、兄はラヴ––妹さんの事を、本当に大切に思っておりますの。私、ずっと隣で見ておりましたが、手を握るより先に結婚を申し込みましたのよ。私も驚いてしまいました」


 お嬢様の可憐な声に意識を引っ張られて、少し冷静になる。

 それはつまり、貴族の男にありがちな、使用人へのお手付き後のような話ではなく、ただ好意を伝える手段が婚約だったという事。


 ……ちょっと不器用すぎない?


 当事者の二人は未だ照れを感じる距離感で寄り添っていて、よく見ると妹の右腕が本物のような色や質感に替わっていた。

 自然すぎて気付かなかった。

 新しい義手だ。


「その義手は貴方が? アキュリス卿」

「ひゃいっ! そっ、そ、そうです!」


 声を掛けると、公爵家嫡男は硬直した姿勢のままソファから飛び上がらんばかりの反応を見せる。

 妹が可愛いと言っていたのはコレか……。

 全く理解できないけど、この人ならきっと妹を悪いようにはしないだろう。


 左手の薬指にやたらでかい石のついた指輪を嵌め、幸せそうに微笑む妹を見ていたら、もう俺からは何も言う事は無いと思った。


「そっか。……幸せになれよ」


 そう言って微笑むと、二人とも恥ずかしそうに笑った。

 アキュリス様に感謝の意を伝え、その日は公爵家を辞する。

 詳しい話はまた日を改めて席を設ける事になった。


 その日の夜、公爵家の馬車で帰宅した妹は、ひとしきり惚気話をした後にこんな事を言った。


「兄ちゃん、これからは私達にとってアリスお嬢様は義妹になるんだよね。そう思うとなんか不思議ね」


 あの天使が義妹に?


 脊髄反射的に浮かんだフレーズはなかなか強力で、一瞬で自分の中のお嬢様像が白い羽で飾られていく。

 ああ、これはまずい。

 ろくに話もした事がないのに、どうしてこんな事になってしまうのか。

 もしこれが恋だとしたら、本当に不毛だ。妹が公爵家に嫁ぐのとは訳が違う。

 あのお嬢様に"平民だけど結婚して下さい"なんて言える訳がないのだから。


 数日後、当人達を交えて公爵と面談をした。

 当たり前だけど結婚なんて経験も知識もほとんどないので、余程の無茶振りでない限りはあちらの言う通りに事を進めるつもり。


「結婚式は、アキュリスが十八歳になる来年を目処に考えていきたい。具体的な日程や場所については、調整のちお伝えする。それまでに、ラヴ嬢には早急にマナーを身に付けて頂き、ある程度形になり次第いくつか夜会や茶会などに参加してもらいたい」


 妹夫妻(仮)の頬が引きつる。妹は当然のこと、アキュリス様もそういうのが苦手なようだ。

 ……おいおい、大丈夫か?


「不安だろうが、心配しなくても大丈夫だ。最初のうちは私の妻の横にいれば大体の事はフォロー出来る」

「はいっ! ありがとうございます! ですが、あの、アリーシャ様は……ご一緒して頂けないのですか?」


 ぴくりと耳が動く。名前を聞いただけで勝手に身体が反応するとか、何なのホント。


「ああ……、あの子は、そうだな。時勢によるが、可能そうなら、といったところかな。いれば心強いだろうが、醜聞の当事者には変わりないから」


 ――醜聞!?


「何かあったんですか?」


 思わず身を乗り出して訊いてしまうと、公爵は"おや?"といった表情を浮かべたのち、苦笑しながら教えてくれる。


「元婚約者がね……平民上がりの令嬢に入れあげて身を滅ぼしてしまったんだ。もう婚約は破棄したけど、ほとぼりが冷めるまでは静養させようかなって思っている」

「元婚約者……」


 その言葉に少なからずショックを受けてしまった。

 貴族は平民とは違う理由で早くに結婚するのは知っているけど、それでも。

 結婚するはずだったけど、他の女とのいざこざで無しになった……。

 じゃあ、お嬢様は元婚約者に浮気された挙げ句傷物扱いって事? 何で? あのお嬢様の何が不満だったんだ?

 理解できないけど、もし何か気に入らないところがあったとして、不満があったら傷付けてもいいのか?

 そんな訳ないだろ。ふざけんな。


 コホン、と公爵の咳払いで血が上りかけていた頭がふっと冷静さを取り戻す。

 妹と目が合うと、奴は表情を引き締めて"ウン"と頷いた。何で頷かれたのか分からないけど取り敢えず頷き返して、公爵に向き直る。


「……よろしいかな? では、ラヴ嬢の今後についてなのだが––」


 その日から、ラヴは公爵家に住み込みになる事が決まった。いわく、早く貴族の生活に慣れたほうがいいとの事で。

 それもそうだ。

 他に話したのは、まあ、金の事や正式な婚約発表の時期。それと、俺自身の公爵家での扱いなど。

 一般的に、嫁に出す側は支度金や持参金を用意するものだという知識くらいはあったのだけど、貴族間ではどのくらい用意するものなのか見当もつかないので公爵に訊いてみた。

 すると「君のような子供に負担させられる訳がないだろう。こちらで必要なものは用意するから、君はラヴ嬢に持たせたいだけ渡せばいい」と言われてしまった。

 だからといってはいそうですかと引き下がる訳にもいかず、この件は後でジェフリー氏に訊く事にした。彼ならきっと教えてくれるだろう。

 俺自身については、姻戚という事になるけど、本物の平民と公爵家の跡取りの婚姻など前例が無いので扱いが難しくまだ何とも言えない、だけど事業に関わる事以外ならどんな事でも義家族として力になると力強く言われてしまった。

 公爵いわく、国中の話題になる事必至のこの身分差婚。

 市井からも貴族社会からも相当な注目を浴びるだろうから、義家族も大切にしていると積極的にアピールしていかないと余計なトラブルを招きかねない、と言う事だ。

 今さらながら、とんでもない家と誼を結んでしまった。

 なぜ平民との結婚など許したのだろう。

 それを訊くと、公爵は肩をすくめた。


「これも一つの政略結婚だよ。私はじゅうぶんにメリットのある縁談を組めたと思っている。君を身内に引き込めた事も含めて、ね」


 悪戯っぽくウインクして、窓際に向かう公爵。そしてやや大げさな仕草で外を覗きこんだ。


「おや? アリスが庭にいるね。もうすぐ夕方になるから、そろそろ中に入るよう伝えてきてもらってもいいかね?」

「…………俺がですか?」

「もちろん。他に誰がいると?」


 妹達も視線で"行ってこい"と促してきた。


「……では、行って参ります」

「そのまま嫁に貰ってくれても構わないのだけどね」

「ご冗談を」


 真に受けたらどうするんだろう、そう思いながら邸を出て、庭に下りた。

 お嬢様がこちらに気付く。ちらりと邸を見てみると、窓から妹が冒険者ジェスチャーで「仕留めろ」とハンドサインを出してきた。その横で公爵もアキュリス様も頷いている。

 この状況で何を仕留めろと言うのか。

 本気でそう言っているのなら、見るのを今すぐにやめて欲しいんだけど。


 でも親しくなるチャンスなのは確かだ。

 今を逃したらきっと二人きりで話せる機会などもう来ない。


 意を決して、声を掛けた。

 そして、お互いに名前で呼び合える権利を得た。その日の夜は妙に気分が高まって、王都郊外の森に出て少しばかり狩りをした。

 それからそう日にちも経たないうちに、また公爵家から呼び出しが入る。


「アリスがね……庶民になるって言い出したんだ」


 俺は公爵の執務室でそんな話を聞かされていた。


「庶民? 無理があるんじゃないですか?」

「私もそう思うよ」


 公爵は苦笑しながら椅子に深くもたれる。


「本当はね、もう結婚なんてしてもしなくてもいいから別邸で自由に暮らしなさいって言おうと思っていたんだ。でも、さすがにそれは甘すぎるかなって気持ちもあって……。最初に少し厳しい事を言って脅したら、じゃあ庶民になるって言い出しちゃってね。本来ならそんな危ない事はさせないんだけど、もし君がついていてくれるならいいかなってふと思ったんだ。それでさ、」


 公爵が何を言おうとしているのかを察して、心臓の音が高まる。

 いや、だけどまさか、そんな事って。


「アリスが"社会勉強"のためにしばらく市井に下りるから、君にはお目付け役としての仕事を依頼したい」

「やります」


 前のめりで即答すると、公爵は声を上げて笑った。


「そう言ってくれると思っていたよ。いや嬉しいね。報酬は言い値で払うからよろしく」

「よろしくお願いします。だけど、報酬なんてなくてもやりますよ。俺は公爵家に恩がありますから」

「まあまあ。やるからにはきっちりやって欲しいから報酬は受け取って。で、アリスの自由時間はアキュリス達が結婚式を挙げる頃か、家に帰りたいと言い出すまでと考えている。すぐに帰ると言い出しそうではあるけど、最長で一年前後かな。それ以降はさすがに説得してでも連れ戻すつもりだけど……一年間付きっきりは君もさすがに辛いよね。君の他にもう一人くらい付けて交代制にしようと思うんだけど、どう?」

「不要です」


 付きっきり。

 願ってもない幸運に胸が震える。


「本当に?」

「はい。例え眠っていても、害意があればすぐに気が付く事が出来ます。大丈夫です」

「そうか。じゃあ物件と日時が決まったら連絡するよ」

「はい」

「……君がアリスと結婚してもいいんだよ?」


 また冗談を言っている。そういうからかいは好きじゃないので、何か強めに言い返そうと思って公爵の顔を見た。

 ぎくりとした。

 眼光が鋭く、口元は笑みの形になっているけど、実のところ少しも笑っていない。

 ――冗談では、なかった?


「……本気に、しますよ……?」

「私は、あまり冗談を言わないたちだ」

「そうでしたか……」


 さすが世界に名だたる公爵だ。柔和で打ち解けやすい雰囲気を出しつつ、ここぞという時には気迫で押してくる。


「彼女の、気持ち次第です」

「それもそうだね」


 ふっと眼光を和らげて、公爵は手のひらを組んだ。この話はそこで終わり。

 すると報酬の前金と称して金貨百枚が出てきた。凄い額。月を跨ぐようならまた追加で出すという。

 多いです、と言ったら「あの子のやりたいようにさせてやって欲しいから」と押し付けるように渡してきた。

 どこか釈然としない気持ちで受け取り、帰る前に妹夫妻(仮)の顔を見に行くと、この二人も公爵と同じ内容の依頼を出してくる。


「アリスが街に出るって言うから……守ってやって欲しい……。ただでとは言わない。今、新しく、魔力で動く車を作っているところだから、完成したらこれを君に」


 そう言って設計図らしいものを見せてくる。

 ……面白そう。

 でも、もう公爵から貰ってるし……元々報酬なんて無くても、こっちから頼んでやらせて欲しいくらいの仕事なんだよな。


「もう公爵から貰っているので結構です。それに、頂かなくても護衛くらいやるつもりでおりますから。……せっかくの新しい魔道具なら、最初は公爵家の方々で使うのが良いと思いますよ。これは売り出したらその時に自分で買います」

「そう……? でもこれ、改良案もあるし色んなモデルが作れそうだから、実際に売り出す時には違う形になると思うんだけど……。アリスが原案を出してきたこれだけは"アリス"って名前を付けようと思ってて」

「やっぱり今買います」


 公爵から貰った金貨をその場で全部渡して、追加でもう百枚出した。

 妹が爆笑したけど、これくらい安いもんだ。


「ラヴ。お前はマナー教育中だろ。そんな笑い方、アリスお嬢様ならしないんじゃないのか」

「はっ……そうでした。ええと、お兄様? まるで人が変わったようですね」

「そうかな」


 そんな事よりラヴがお兄様なんて言うほうがよっぽど変な感じだけど。

 でも、必要な変化だろうからあえて何も言わないでおこう。


 約一ヶ月後、本当にお嬢様と同居生活が始まった。


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