19.まだ


 その後帰宅してすぐにバスルームに直行し、シャワーを浴びて砂ぼこりを落とした。

 姐さんのメイクも落ちたけど姐さんごめんね。

 練習しなさいと化粧品を持たされたので、この後自分でやってみるつもりだ。

 時刻はまだ十四時を少し回ったところで、夕食の支度を始めるにはまだ早い。


 さっきハヤトから教えてもらったのだけど、うちの近所にはギルドが運営する鍛練場があるらしい。

 鍛練場と言っても塀で囲まれた広い場所なだけなのだけど、それでも魔法を撃つも良し、剣を振り回しても良しのなかなか使い勝手のいい場所だそうだ。

 登録証を持っている人間なら誰でも利用できて、一時間につき銅貨十枚で貸し出しているらしい。

 夕方までの空き時間で少しでも剣の扱いを学びたいので、自室でお茶を一杯飲んでから、鍛練場に行くため買ったばかりの(普通の)女剣士の服に袖を通す。

 動きを妨げないためか、白いブラウスの合わせ部分がレースで飾られている以外には装飾がなく、全体的にシンプルで身体にフィットしていて、可愛いというよりはクールな印象。

 魔法使いのローブだと色もデザインも装飾も豊富にあって女の子らしくて可愛いんだけど、私はこっちのほうが新鮮みがあって好きだ。普段こういうの着ないからね。


 ブラウスの胸の部分が閉まらないので、こういうのは開き直りが大事だと全部留めるのは潔く諦め、黒いタイトなパンツを履き上から黒のコルセットベルトを締める。これならブラウスが抑えられて安心だ。あとは少しヒールのある膝上丈のブーツを履いたら着替えは完了。

 パンツスタイルなど、今生では乗馬服以外では初めて着るので何だか異様にテンションが上がる。女子にとって、身に着けるものを替えるというのはとても大きな意味があるのだ。

 それから、姐さんに言われた通り、ほんの少し化粧をしてみた。あまり変わった気はしないけど、それでいいらしいので良しとする。


 一階に降りると、バスルームから水音が聞こえた。彼もシャワーを浴びているらしい。こういう時に、生活を共にしている実感がひしひしと湧いてくる。

 冷たいお茶を用意しておこうと思い、カウンターキッチンに入りまずは魔道具のケトルでお湯を沸かした。これは水魔法の次に火魔法が発動するように設計されていて、魔力さえ流せば無限にお湯が出てくるまさに魔法の道具。

 でもハヤトなら、きっと水と火で二回に分けなくても一度でお湯を出すんだろうなぁ。

 あれは一体どういう事なのかしら……。


 お茶を淹れながらケトルと彼の違いについて取りとめなく考えを巡らせていると、かちゃりとバスルームの扉が開いて、中から上半身が裸のままのハヤトが出てきた。意識が遠くなった。

 後ろの食器棚に頭をぶつけてハッと意識が戻る。そんなに広くないキッチンで良かった。広かったら普通に卒倒していたかもしれない。


「どうしたの? 今ふらついたよね」

「いいいいえ、気のせいです」


 直視できない。チラッと見ただけで意識が飛んだのだ。まともに見たら死んでしまう。

 さっき一瞬見ただけで分かった。彼は理想の細マッチョだ。服越しでもわかってはいたが、実際に見ると殺傷力が違う。

 何で? 何で着ないで出てきちゃうの? 襟元を緩めた時の鎖骨をチラ見するセクハラの仕返しなの?

 目線を下に落とし見ないようにしているのに、彼はそのままカウンター越しに私の正面に立ち、何だかジッとこちらを見ているような気配を寄越す。


 ……な、なんですか。


「……アリス、服のボタンは全部留めなさい」


 お母さん!?


「し、閉まらないのです。だらしないのは承知ですが、これはもうこういうモノだと思って頂くしか」

「…………」


 長い無言が返ってきた。

 怒ってるの!? 自分なんて上だけとはいえ裸のくせに!?

 覚悟を決めておそるおそる視線を上げると、彼はカウンターに両手をついて深く項垂れていた。


「……聞くんじゃなかった……」

「な、何をですか」

「いや、何でもない。何でもないんだ」


 彼はどこか投げやりに言いながら自分のIDタグを首から外し、カウンターキッチンの中に入ってきた。

 まずい! 出口を塞がれてしまった! 唯一の逃走経路が!

 思わず後ずさると、倒れると勘違いしたのかハヤトの手が伸びてきて腕をがしっと掴まれる。


「大丈夫?」

「べ、別に倒れそうになった訳では……ないのですが」

「それならいいけど。……ねえアリス。これ、アリスが持ってて」


 するりと手が離れ、代わりにハヤトのIDが私の首に掛けられた。彼の体温が乗ったタグが胸の上で青白く光り、疑問符が頭に浮かぶ。

 

「これは……どういう意味が?」

「意味っていうか、そこに俺のIDがあれば、妙な事考える奴がいても牽制になると思って」

「牽制? でもこれ、他人に渡しても大丈夫なんですか? 記録とか……」


 魔道具としての役割もそうだけど、これ、無くしたら再発行出来ないのに。

 これは冒険者としての自分を丸ごと他人に預けるに等しい行為に思える。


「うん。たまに交換し合ってる奴らがいるんだけど、本人から離れなければ大丈夫なんだって」

「それはつまり……信頼や、離れない、という意志表示として……っえ?」


 何気なく口にした言葉の重大さに遅れて気付く。彼は何も言わないけど、否定もしない。つまりそういう事なのだ。

 これは、誓いを立てる時にする事。

 うちの場合に限って言えば、どちらかというと飼い犬の首輪に自分の名前を書いておく感覚に近いような気がするけれど、物理的に離れられなくなるのに変わりはない。


「……それを人に渡すのは初めてなんだよ。ちょっと気持ちが重いかも知れないけど……受け取ってほしい」

「重くなんて……」


 ない、と言おうとして、背中が壁についた事に気が付いた。知らず知らずのうちに後ろに下がってしまっていたらしい。

 あまりの展開に頭がついていかないのだけど、ハヤトは両手を私の顔の横につけて、見たことがないくらい張り詰めた表情をしている。


「アリスが俺をどう思っているのかわからないけど……きっと、アリスが考えている以上に、俺はアリスのことが好きだよ」

「うそ……」

「本当」


 彼は不安げな顔で少し笑って、額にキスして離れていった。

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