♪4 それは休符あるいは楽譜がめくられたということ
カチャ。
奏は玄関の錠を回した。ドアを引いてきちんとロックされているか確かめるのが習慣だが、今はやめた。無駄な音をたてて、親たちを起こしたくはない。鍵をパジャマにしているグレーのスェットのポケットにしまう。
時刻は深夜三時を少し回ったところ。公共放送のテレビはメンテナンスのために電波を停止し、民放各社はまるで紳士協定でもあるかのように揃って通販番組を流し始めた頃だ。
「どうしてもコピーが必要だったんだ。明日の朝だと忘れちゃいそうで」
用意した言い訳をつぶやきながら、一番近くのコンビニへ急いだ。
夜の町は音が少なかった。秋ではないので虫も鳴いてはいない。
桜の木の前で足を止めた。どうしてこんなところにと不思議に思ってしまうほど、唐突にその木は立っていた。街灯に照らされ、薄い薄い桃色の花びらが白く白く輝いている。
誰か花に見とれた風流なドライバーがいたのかもしれない。街灯の支柱は奏の腰ほどの高さのところで折れ曲がっていた。あるいは、ただのうっかりものの仕業なのかもしれない。
配線に不必要な負荷でもかかっているのか、ジーと街灯は音をたてる。おまけに接触が悪いのか電球が寿命なのか、時折、点滅し、パッパッと音を出す。
さすがにこれは拾わないだろうと思いながらも、奏は録音をした。その場で再生することはしなかった。うちに帰ってからでいい。
コンビニに着いた。血の気の失せた女の人が雑誌コーナーのあたりのガラスの壁を店の外からゴンゴンと叩いている。そのせいか、立ち読みをしている人も店の外で座り込んでいる人もいなかった。
フワァーと女が奇声を発した。教会の鐘の音と同じくらいの高さに思えた。福音というよく意味を理解していない二文字を奏は思い浮かべ、どんな音なのだろうと想像した。ハープかパイプオルガンのようなものが奏の脳内で荘厳に鳴り響く。
なにも買わないつもりだったが、申し訳ないので迷ったあげく、グミを持ってレジに向かった。スマホを近づけると、電子マネー決済のシャリーンという音が鳴る。これはのぼりがポストを叩く音と教会の鐘の間のような気がして、奏は録音しなかったことを悔やんだ。
店を出てしばらくすると、赤い光の点滅が見えた。振り返るとコンビニの駐車場にパトカーが一台停まるところだった。制服のお巡りさんの若いほうが、壁ゴンゴン女に優しい口調で話し始めた。大声なので、奏にも聞こえた。女は首を横に振るだけでなにも答えていなかった。
万が一のために持ってきた数学のプリントの入ったクリアファイルを見せびらかすようにして、奏はゆっくりと歩き出した。親に見つかったときを想定していたのだが、まさか警察とは。
音もなく、なにかが奏のおでこに当たった。なんだろうと右手の人差し指で触れる。指先が濡れた。
雨だ、とわかったときには、ポツポツと雨音がし始めた。奏は慌てて走り出した。
結局、夜の散歩はなんの収穫もなく終わった。
うちに戻り、布団にくるまれながら、奏は雨音を聞いていた。これはどの音に近いだろうかと思案しているうちに、奏は眠りについていた。
不思議な夢を見た。夢を見たこと、それがおかしな内容であったことだけは覚えているが、具体的にどんなものだったかはさっぱり覚えていなかった。
ただ、音のない夢だった。まぁ、夢というものはそういうものなのかもしれない。夢というものはリアリティだったり、物理法則だったり、なにかしらが欠けているものなのだから。
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