第五話 立つ鳥、雨に濁らず

「タテガキさ~ん! ちょっとい~い?」

 つま先立ちになりながら、人ごみの向こう側に声を飛ばす。ある日の昼下がり、曇り空の下、今日もこの青果店は盛況のようだ。

「はいよ~! ちょっと待っておくれ~!」

 予想通りの返答を受けとめ、軽く会釈。これでようやくかかとを下ろせる。私は背の高いのが自慢なのだが、流石にこうも人だかりが酷いとこの身長も全く役に立たなくて困る。右手にお使い用のカゴをぶら下げたまま、少しだけ下がる。通りはいつもより静かなようなので、これくらいはみ出していたって迷惑にはならないだろう。

「ん~……暇だねぇ……」

 今日の私はお仕事でここに来ていた。要件は急な買い出し。うっかり悪くしてしまった果物の代わりを大急ぎで仕入れてくるのが目的だ。私は果物の目利きはできない。なのでいつもタテガキさんに見てもらって買うものを決めているのだが、実は同じようにタテガキさんの目を頼りにしているお客さんは沢山いて。こんなふうに『順番待ち』をさせられることは珍しくないのだ。安いうえに、店主の目も確か。こんないいお店がある町なんてそうそうないだろう。本当にここの人たちは幸せ者だ。

「お待たせキハルちゃん。 今日はどうしたね」

「あっ、早かった。 ……実は買い出し頼まれちゃって」

 これを。思いのほか早く出てきた老人に紙切れを一枚差し出す。ここに女将さんの豪快な殴り書きでお使いの品目が記されている。私には読めない。いや、読み書き算術くらいは習っているので普通の文字なら問題なく読めるのだが、どうにも女将さんの書く文字だけは読める気がしないのだ。苦笑交じりにアサヒお嬢さんに相談したら「みんなそう言うよ。 そのうち慣れる」とのことで。未だその境地に至っていない私は仕方なく、紙ごとタテガキさんに渡すしかないのである。

「ふんふんなるほど……これくらいならすぐに用意できそうだ。 おいで」

「やった」

 人ごみを掻き分け青果の前へ。曇り空などお構いなしに元気な顔をした果物や野菜が列をなしている。いつ見ても壮観だ。思わず手近の野菜に指を伸ばしていると、すぐ隣から声が飛んできた。

「しかしこんな天気の時に大変だね……雨が降るんじゃないかって皆心配しちゃって……通りも空いてたろう? 今日は静かだよ。 いつもより」

「ンの割にここは盛況だよね。 ……いやホントに、ここにしか人集まってないけどサ」

 これぞ長年積み上げてきた人徳のなせる業よ。ガハハといつも通りに豪快な笑い声が上がる。いつもならこの声に「うるさいよ爺さん!」などとヤジが飛んできてさらに場は盛り上がるのだが、今日はその声もなし。確かに静かだ。圧倒的に人が少ない。

 これは私も寄り道しないで急いで帰った方が良いかなと空を仰ぎ見たそのとき。

「――さん! キ――、キハ――」

「……んむ?」

 何やら遠くの方から、聞き覚えのある声がした。

「何だろ……?」

 それを聞きつけたらしい他のお客さんたちも辺りを見回し、ざわざわと小声で騒ぎ始める。丁度人だかりの最奥にいる私だけが状況について行けず、取り残されていた。

「え、なに。 どうしたの……」

 近場の御婦人に話しかけた声は、すぐさま別の声にかき消された。

「――――キハルさん!」

「!」

 買い物かごはその場に置いてきた。そんなものよりもっと大事な、もっと重要なものがあったから。

「お嬢さん!?」

 人ごみを掻き分けるなんてまどろっこしいことはしない。文字通り何人か突き飛ばして最短距離で小さな闖入者の下へ走り寄る。人が少なくて本当に良かった。背後で不満を述べる声が聞こえた気がしたがどうでもいい。息を切らして立ち尽くすお嬢さんの前で片膝をつき、顔を見上げる。

「どうしたの」

 震える唇が、歪んだ瞳が。事の重要性を伝えてくる。まさか。脳裏に浮かんだ一つの思考を急いで振り払う。そんなまさか。まさか。

「お……っ、お店…………キハルさ……お店が…………ッ!」

 そんな私の動揺などお構いなしにお嬢さんは喋りだす。つたない言葉で、頼りない声量で。ゆっくりゆっくり。

「キハルさん……お店が……!」

「お店が、どうしたの」

 そっと促すこの声が彼女の中の何かを壊してしまった。堰を切って泣き出したお嬢さんは、私の肩に顔をうずめながらもはっきりと、その一言を口にした。

「…………お店が壊されちゃう! 地主さんに!!」

 背後で雷の音がした。


 見慣れたいつもの風景は、しかし確実にいつもとは違っていた。

「あ…………っ!」

 青果店から走りに走って、雨で体を濡らすに任せて戻ってきたところには、月餅亭だった建物があった。

 見たところ壁や屋根など店舗自体に何かしらの損害が与えられているわけではないようだ。外がこの分なら中もまだ無事か。ほっと胸をなでおろしたい気分だが、残念ながらそうはいかない。

「……暖簾が……」

 店の目の前、扉の正面にそれはあった。普段なら、開店と同時に扉の上に掲げられ、閉店と共に店の中に戻ってくるこの店の目印。藍染の生地に白く文字が抜かれた立派な暖簾だった。

「…………こんなに……」

 それが無惨にも引きちぎられ、折れた竹竿と共に店の前に放置されていた。

「…………」

 袴に泥が付くことも構わずしゃがみ込む。雨音がもたらす静寂が、暖簾の悲鳴も書き消してしまったようだ。何も聞こえない。何も感じない。これが『彼』の死でなくて何なのか。死んだのは、私の心の耳や目だとでも言うつもりなのか。

「やられたよ。 まったく」

 不意に、声。弾かれたように顔を上げれば、そこには苦笑交じりの女将さんが立っていた。

「いきなり来てさ……地主の使いって奴らがさ、言うんだ。 ……この店は深刻な契約違反を犯した。 もうこれ以上の商い行為を認めることはできない、ってサ…………。 納税はしてるし、悪いモン食わしてるわけでもないってのに…………。 一体あたしらが何したってんだよ……!」

「女将さん……」

 女将さんの肩は濡れていた。この雨なのに、手に持つばかりで傘をさしていないのだ。不審に思ったが理由はすぐにわかった。鼻水を啜る彼女の目元に、雨とは別の雫が見えたから。

 前にお嬢さんから聞いた。この店は亡くなった女将さんの旦那さんが遺してくれた形見なのだと。大切なお店だから、どんな辛いことや嫌なことがあっても、ここで暮らして、ここで働いて、ここを守って生きていく。それが自分たちの幸せであり誇りなのだと。

 そんなお店がこんな目に。女将さんにとってこれ以上の絶望なんてなかっただろう。それでもまだなお立っていられることが、どれほど彼女の強さを物語っているか。

 それがどれほど、彼女の脆さを物語っているか。

「店の中は無事だよ……権利書取られて、お勝手を使えないようにされただけだからさ…………。 すぐに荷物をまとめればいいよ。 遠くの町に親戚がいる。 そこでまた……また、店を…………っ!」

 そこまで言って女将さんは振り返ってしまった。震える肩がいつもより小さく、細く感じられてならない。痛々しいほどに。どこまでも無常に。泥の中に横たわる番傘が、ただただ空しく泣いていた。

「…………」

 ざあっ。一陣の強風がひときわ強い雨を呼ぶ。目を伏せるようにしてそれをやり過ごしたとき、気が付いた。

「………………」

 鉢植えが、割れていた。

 お嬢さんが大切に育てていた鉢植えが。

 花が咲く日が楽しみだと嬉しそうに私に紹介してくれた、あの鉢植えが。

「女将さん……」

「…………ん……?」

 帰ってきた短い言葉が、嫌にくぐもっていたのは雨のせいじゃない。

 そっと、立ち上がる。

「私……私、嬉しかったんだ。 こんな変な女を今まで世話してくれてさ。 ……お店でいっぱい迷惑かけたのに、それでもずっと、一緒にいてくれて」

「キハル……さん……?」

 まだ振り返らない。今だけは、それでよかったと思う。

「それにサ…………こないだの騒ぎのときもだよ……。 私、おっかなかったでしょう? いきなりあんなことして……気味悪かったでしょう……? ……でも、でも」

 歩き出したこの足を、止めずに済んだから。

「……でもみんな、女将さんもお嬢さんも、この町のみんなも……! 私のこと、変わらず仲間と思ってくれた……。 誰からも、怖がられなかった……。 みんな…………!」

「当たり前だろ」

 女将さんに、この顔を見せずに済んだから。

「あんたがどんな人か、みぃんな知ってるからだよ……! あんなことでキハルさんを嫌う奴なんて、この町にいるわけが――」

「だから、さ」

 雨音はもう、聞こえなくなっていた。

 鼓動が静かに、引いていくようだ。

「私に最後に、恩返しさせてよ」

「え…………?」

 口の端が、僅かに歪んだ。

「お店は、私が取り返す」

 遠くの方から足音がする。きっと、タテガキさんとアサヒお嬢さんだ。

 彼らがここにいなくて、本当に、本当に良かった。

「キハルさ――」

「傘、借りてくよ」

 こんなみっともない姿が、最後にお嬢さんの目に映る私にならずに済んだから。

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