第四話 隣の彼女は紅い
街道沿いの宿場町の朝は早い。まだ日も上がり切らない時間帯から人々がやって来るから、彼らを捕まえるためにはそうせざるを得ないのだ。朝っぱらから鉢に水をあげに起きだしていたアサヒ嬢はそう言っていた。
なるほど確かにその通りだ。この町も街道沿いにあるし、どう見ても元気満点だ。完璧である。
「ん~っ!」
早朝、とはいえ日も完全に上がり切った空を見上げながらそう思う。どこもかしこも、この町は元気だ。元気過ぎてこちらの気力まで吸い取られてしまいそうなくらいには、底なしに。
今朝の私は自由の身だった。この茶屋は朝から晩まで毎日働きっぱなしだが、流石に延々とそうやって走り続けるわけにもいかないらしい。女将さんにも休みは必要だし、アサヒ嬢には遊びの時間が必要だし、お店のお菓子には仕込みが必要だ。
ということで、居候の身でありながら私も何度か休日が与えられている。こちらとしては休みなしに毎日こき使われたとしても文句は言えない立場だったのでありがたいことこの上ない。曰く「あんたは良くやってくれてる。 たまには羽を伸ばして休むのも大事な仕事の一つだよ」とのことで。僅かだがお小遣いまで持たせてくれる親切ぶりだ。ますます頭の下がる思いである。
「ま、そ~いう女将さんはいつ休む気だいって話なんだけどサ」
休日でも女将さんの手を止めることは出来ない。掃除に仕込みに買い出しと、今日もきっと忙しく動き回るつもりなのだ。手伝おうかと言っても断られるし、休めと言ってもあしらわれるし。私だけこんなのじゃあ申しわけなくて仕方ないのだが、もうどうにもできないと割り切ることにした。その方が、女将さんも気が楽だろう。
「さァ~って……どこいっこっかなぁ~」
なので今日も私は、この町をブラブラ歩き回ることにする。
この町に住み始めて数週間程度の身だが、流石にそこらの旅の者よりはここのことを知っている自負はある。ここにその証明をしよう。
まずは町の名だ。
しかしここまでは誰でも知っていること。少なくとも、ここまでやって来る人間ならだれでも知り得る情報だろう。
だが、こういうのはどうだろうか
「こんちは~」
ユキメの町を訪れたなら外せない、地元民的オススメ店舗の紹介だ。
「いらっしゃいキハルちゃん。 今日は買い出しかい」
「いんや~今日はお休みよ~。 っていうかタテガキさん、毎日ウチ来てんだから休みの日ぐらい知ってるでしょうに」
それもそうだとガハハと笑うこの老人、タテガキさんの営む『タテガキ青果店』だ。
大通りの中ほどに構えられたこの店は、いつ来ても買い物中の主婦の方々でごった返している。それもそのはずこのお店、基本的にユキメの町で一番安く野菜や果物が売っているのだ。こんな良物件を逃す奥様方ではない。ここには何度もお店の買い出しでやって来ていたが、食料確保でこれほど緊張感と命の危機を覚えたことはそうそうない。ここに来るときは常に戦争。仁義なきお野菜争奪戦に挑む覚悟が無くてはならないのだ。
「……今日もすごいね~。いつもいつも」
「そうかい? ……今日はそんなでもないような気もするんだが……毎日同じようだからもうわかんねぇや」
え~。
「…………そんなんでいいの?」
思わず眉毛をひん曲げてしまった。しかし隣の店主はそんなもんだとガハハと笑うのみ。流石に豪快過ぎやしないだろうか。まあ、それがこのおじいさんの魅力でもあるのだが。
「まぁ、なんにしてもだ。 キハルちゃんにはあんまり関係ないことだろうよ。 そんなにのんびり大人しい癖して案外器用ですばしっこいもんね。 特売品なんてイチコロだ」
「……あはは……ま~ね……」
人ごみの中で思い通りに動くのは実は得意だったりする。あんまり大きな声では言えない特技なんだけど、流石にバレたか。
もう少しタケガキさんと世間話でもしていたいところだったが、生憎お客さんから呼び出されて店の奥に引っ込んでしまった。きっと値切りの交渉だ。こうなったら中々帰っては来れまい。仕方ないので私もここを離れることにした。美味しそうな甘夏蜜柑が売っていたのでぜひとも一つ頂きたかったのだが。
「ん~と、次は……」
頭の後ろで腕を組み、ひゅるりと口笛を吹いてみる。隙間風みたいなかすれた音しか出てこない。知ってた。私、口笛苦手だもん。
「……ふゥん……」
そぞろに足を進めながら、左右を見渡してみる。大通り沿いなこともあって、どこの店も活気にあふれている。道を行く人々を相手に甘味処の店員が大声で商品の宣伝をしていたり、貸本屋のおじさんが走り回る子供たちをハタキ片手に追い回していたり、はたまたあっちでは、朝から一杯ひっかけた様子の男性客が賭場への不平を無関係なはずの花屋の男にぶちまけていたり。本当に、どこもかしこも人々の活力で溢れ返っている。
「……へへっ」
不思議と笑みがこぼれた。こんな気分になるのなんて、何時ぶりだろうか。
「……っと、危ない危ない」
通りの観察に意識を向け過ぎた。危うく通る過ぎるところだった。
「……さァさ、どんな調子かなっと~」
訪れたのは本日二件目の目的地、着るもののことなら何でもござれの名店、呉服屋『アイちゃん』だ。本当の店名は『
「アイおばあちゃ~ん、いるぅ?」
「はいはいいますよ~、いらっしゃ~い」
暖簾をくぐって声を飛ばせば確かに、並べられたいくつかの布地や、服の形に仕立てられた見本品の向かい側に彼女はいた。土間から一段高くなった板張りのところに座布団を敷いて、湯呑を片手に微笑んでいる。いつも通りの光景だ。自然と零れる笑みをそのままに、私は早足におばあちゃんのもとへ駆け寄る。
「ねね、私の服、どうなった?」
「そろそろ来る頃と思ってね、仕上げといたよ」
一層穏やかな笑顔でそう答えると、よっこらせ、と立ち上がったアイおばあちゃんは一旦店の奥へと引っ込む。お年寄りの例に違わずおばあちゃんは背が低く、腰も曲がってはいるがまだまだ元気で活動的だ。耳も良く通るので会話に不自由したことがない。唯一、眼だけが大変悪いそうなのだが、その割に針に糸を通すのはアッサリとやってのけてしまう。曰くコツがあるそうなのだが、私には多分一生かかってもたどり着けない境地だろう。空になった座布団の隣に腰を下ろしながらそう考える。私にできることと言ったら、単純作業か口八丁の接客か、あとは――
「ほぅら、どうだい?」
「わっ!」
音もなくぬっと、おばあちゃんが現れた。思わず腰を浮かせてしまいつつ振り返れば、その手には鮮やかな紅色の着物が一つ、乗っかっていた。
「随分泥やら何やら汚れていたからねぇ。 ほつれも酷かったし……大変な旅だったんだね」
実はこの町に来たとき私の着ていた衣服はここに預けられていた。最初はキョウナの女将さんが洗濯してくれると言ってくれたのだが、あまりにしつこく汚れていたので仕方なしにアイおばあちゃんのところへ投げられてしまったのだ。最初に衣装の悲惨さを目の当たりにしたおばあちゃんはそれはもう驚いて。大きく見開かれた目玉なんてあのまま顔から転がり落ちてしまうんじゃないかとすら思われた。
そんな有様にも関わらずおばあちゃんは私の服の修繕を引き受けてくれて。そわそわしながら待っていた完成の時がとうとうやってきたというわけなのである。声にならない悲鳴を上げながらも赤い布を受け取る。おかえり我が一張羅。よくぞ御無事で。
「有り難うおばあちゃん! 大好きぃ!」
「ほっほっほっ、喜んでもらえたようで何よりだよ」
思わず飛びついてしまいそうになるのをすんでのところで我慢して、満面の笑みで衣装を抱きしめる。それをおばあちゃんも優しい笑顔で受け止めてくれて。すべてが幸福で満たされた、輝くような世界が広がっていくのを確かに感じた。
「……あ、そうだ、おばあちゃん」
そこで一つ、閃いた。
「これ、今ここで着ても良い?」
「いいけど……流石に早まり過ぎてないかい?」
苦笑交じりのおばあちゃんの言葉はまったくその通りだ。だが、これは今ここで実行しなければならない。
「すぐに見て欲しくって。 おばあちゃんと、それから――」
ニッコリ笑顔のまま、勢いよく振り返る。
「アサヒお嬢様にも、是非ね~!」
「ひゃっ!?」
ぴょこっ。お店の出入り口の辺りから、可愛らしい悲鳴とともに、可愛らしい少女が飛び出してきた。
「ほら、蜜柑だよ。 タテガキさんに良い奴見繕ってもらったよ」
「あ、ありがとうございます……」
太陽も高く、頭の上の辺りまで昇ってきた時刻。段々と気温も上がってくる頃に丁度いい穴場がある。そういうキハルさんに連れられてやってきたのがここ。川沿いの土手だ。曰く『見どころその三』らしいのだが意味はよく分からない。私は今、そこに生えている幹の太い樹木の影にいた。
大通りからわずかに離れたこの場所は、一休みするには丁度いいくらいに人通りがなく、静かだ。緩やかな傾斜の土手には背の低い草が生い茂り、さながら座布団か何かのように座る者のことを出迎えてくれる。
そして視界の先では、これまた緩やかな流れの川がゆったりと寝そべり、過ぎゆく時間と魚たちを見守っている。きれいな水だ。腰のあたりまでありそうな深さをしているが、川底を覗くのはいとも容易い。きらきら光る川面をぼんやり眺めていたら、不意に右から声が飛んできた。
「隣、良いかい?」
「へっ、あっ。 ……ハイ」
ありがとね。笑いながらキハルさんが私のすぐ横に腰かける。その装いは月餅亭を出た時とは異なる、鮮やかな紅の着物姿だった。初めて会ったときの服だ。泥だらけだったあの状態のときも思ったことだが、本当に何の飾り気もないただの赤い服でしかない。剣術家の人たちが着るものとよく似たそれは袖も短く、どこまでもそっけない。正直、キハルさんが着るには寂し過ぎる服のように感じられる。
でも。
「…………」
でも、この方が良いのかもしれないとも、同時に思った。この質素さがキハルさんの可愛らしさを存分に引き立ててくれているし、この赤がキハルさんの艶やかな黒髪と対比して――
「前から思ってたんだけどさ、お嬢さんって私のこと好きなの?」
「ふええっ!!?」
思わず声が出た。相当変なのが。
「あっ蜜柑! 危ないな~」
それと同時に手から転がりだした甘夏は見事キハルさんの手の中に。いやいやそうじゃない。空になった両手でほっぺたをぺちんと挟み込む。顔が痛い。痛いくらいに、熱い。
「んなっ、なな、なななんでそんっ、そんなこと…………っ!」
「ずっと見られてるような気がしてたから」
はいどうぞ。器用に皮を剥いた甘夏を再び差し出される。おずおずとそれを受け取りながら、そっと彼女の顔を覗き見てみれば、キハルさんは自分の分の甘夏に夢中で。放たれる言葉も他人事みたいに淡々としていた。
「お店で働いてるときも、夜中女将さんたちと一緒に遊んでるときも、ずうっとお嬢さん、私のこと見てるよね……。 今日だってそうでしょ? 月餅亭出たとこからずっと、私の後をつけてきてた。 ……もしかして、気づいてないと思った?」
う。痛いところを突かれた。慌てて手元の甘夏を一つ口に放り込む。私にはちょっと酸っぱいが、今は丁度良かった。
確かに私はずっと、キハルさんのことを見ている。彼女が一言喋る度、彼女が一つ歩みを進める度、キハルさんの中に封じ込められている美しさの欠片のようなものが辺りに飛び散っているような気がしてならないのだ。欠片の飛ぶ様をもっと見たくて、欠片で満たされたキハルさんにもっと近づきたくて。そう思っていたら、私の頭の中はキハルさんのことでいっぱいになっていた。今日だってそうだ。休みの日のキハルさんのことをもっと知りたくて、こっそりお店を抜け出して来てしまったのだ。何だか悪いことをしているような居心地悪さも感じたが、バレなければ大丈夫だと思っていた。それがこのありさまだ。もう心臓が口から飛び出してきてしまいそうで気が気でない。
「ま~私としてはどっちでもいいんだけどサ……お嬢さんが私のこと好いてくれてるならそれはとっても嬉しいし、そうじゃないならまぁ……仕方ないよね。 こんな変な女じゃね」
一拍の沈黙。ふっと蜜柑の甘い香りが漂う。
「でもさ……付き合う相手は考えた方が良いと思うよ。 お嬢さん優しいから、きっと誰でも仲良く出来るんだよね……。 でも、気を付けないと人生棒に振る羽目になる」
「えっ……?」
言っている意味が分からなくて、再びキハルさんのお顔を覗き込んでしまう。じっと川面を眺めるその横顔はやっぱり綺麗だった。
でもどこか、瞳の奥には言いしれない感情が渦巻いているように感じられて。あの目はどこか、こことは違う場所を見ているようにしか見えなくて。
「…………」
その目に映る黒い光は、あの日お店で見せた凍てつくような佇まいと重なって見えて。
「キハルさ……」
キハルさんが気にしてるのって、もしかして、あのときの騒ぎのことなの?
「何でもない。 深い意味もないよ」
口に出して問う前に、甘夏の皮を草の中に放り投げつつキハルさんは立ち上がる。ぱんぱんとお尻の辺りをはたいてから振り返ったお顔には、いつもの人懐っこいキハルさんの笑顔があった。
「そろそろ行きましょ~か。 ……お嬢さん、お腹空いてない? お蕎麦食べに行こうよ」
「あ……う、うん!」
慌てて立ち上がりつつそう答える。皮は流石に捨てる気にならなかったので袖に押し込んだ。あのキハルさんの言葉にはどんな意味があったのだろう。あの瞳には、何が見えていたのだろう。
分からないことだらけだったが、聞いてもきっと答えなんて教えてはくれないのだろうということだけは不思議とすぐにわかった。
「待ってよキハルさん!」
なのでひとまず今日だけは、この違和感は心の隅に押しやっておくことにする。
この幸せな時間の中でだけは、ひとまず。
土手から走り去る二人組を見送っていたのは、川のせせらぎだけではなかった。
「あいつか……。 ……あの馬鹿を吹っ飛ばしたっていう茶屋の女……。 俺に恥かかせたもう一人の馬鹿野郎は……」
川からすぐの所にはおでんの屋台がある。昼間は営業していないので道のわきにひっそり座り込んでいるのみだが。
男にはそれが好都合だった。調べ物などしている今は、特に。
「……どうしてくれようかねえ……!」
獰猛に歪む口元。低く漏れ出す笑い声。
それを見聞きしたものはただ一人、川のせせらぎだけだった。
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