第三話 赤子の首をひねるように

「なんだァ?……お前……」

「あんた……?」

「…………」

 何処からともなく突然現れた乱入者。彼女に向けられる瞳の色は三者三様だった。警戒の色を滲ませる者。驚愕に彩られる者。そして、一言も発することもできずにまじまじと目の前の状況を観察する者。

 私は最後の者たちに分類されるだろう。先ほどまでキハルさんと話をしていた場所から動くこともできずに、いつの間にやらお母様の前にまで飛び出していった彼女の横顔をただただ見守るのみ。

「キハルさん…………」

 その行動の意図も、目的も、何一つわからなかった。

「……まったく……」

 わかっているのはただ一つ。

「とんだ大馬鹿者ってぇのは、あんたのことじゃあないですかねぇ、お客さん?」

 キハルさんの表情には一片も恐怖が見えないということだけだ。

「あンだとぉ……!」

「…………」

 でも変だ。あの状況が怖くないはずがない。相手は大きな権力を盾にやりたい放題な乱暴男。そのことは伝えたはずだ。私が感じた恐怖も、すべて。

 しかもその手には刀が握られているのだ。ぎらりと鈍く輝く刃。あんなものを振り回されたらひとたまりもない。掠っただけでも大けがは免れないはずだ。

「…………」

 なのにあの余裕。おかしい。腕の動きでお母様たちを下がらせてから、ゆっくりと男の方に向き直るなんて、そんな。あれでは斬られに出向いたようなものではないか。

「……あんたの? その刀」

「はっ?」

 ゆらり。キハルさんの腕が伸び、男を指さした。

「いやだから、その刀。 お客さんの?」

 いったい何を聞いているんだ? ますますわけが分からなくなってくる。それはどうやら男の方も同じだったようで、怒りからか困惑からか、顔を真っ赤に染め上げながら腕を振り回し始めた。

「あ……当たり前ェだろそんなこと! こいつは正真正銘、この俺の愛刀よ! ふざけたこと抜かしてんじゃあねえぞコラ! ぶった切られてェか!」

 一言喋るごとに刀は一周宙を舞い。周りのお客さんが身をよじって距離を取ろうとざわついて。

「そう。 やっぱり」

 じゃあ安心だね。全く動じず冷静に、伸ばしっぱなしだった腕をひょいと動かしてキハルさんはそう言った。

 彼女の腕は、男の手首を掴んでいた。

「んな…………っ!?」

「え…………?」

 再びの驚愕。もう何が何だかわからない。いったい彼女は何をしたのだ。

 いや違う。何をしたのかはわかる。よく見ていた。キハルさんは伸ばした腕で男の刀を掴み取ったのだ。まるで蜻蛉でも捕まえるみたいに自然な動作で、闇雲に振り回されていた男の腕を掴んだのだ。

「うそだ……」

 そんなこと、どうやったら出来るようになるのだ。わからないのはそのことだった。普通に他人の腕を取るのとはわけが違う。触れたら最後、腕ごと斬られるかもしれない危険物を携えた男の腕を掴むなんて。しかもあんなにあっさりと。私たちと出会う前のキハルさんはもしや、危ない曲芸が得意な旅芸人だったのか?

「良い刀だね……値も張ったろ。 ……でもそれだけだ。 人を斬ったことなんてないし、その気概もない。 ……情けない刀だよ。 ガッカリだ」

 本当に本当に、心底残念そうな声がお店に響く。こんなにお客さんがいるのに。こんなに人々の目が集まっているのに。先のざわつきが嘘だったとでも言うように、誰一人として身じろぎすることもできなかったのだとようやく気付いた。今やこの空間を支配しているのは男ではなくキハルさんだった。その長身から滲み出る、冬の夜空のような冷気がこの場を完全に包み込んでいた。

「…………」

 息すらできなくなるような、それこそ抜き身の刀のような殺気によって、完全に。

「う……うるせェ! 離しやがれ!!」

 静寂を男の大声が上書きする。まるで海の向こうに向かって叫ぶような空虚さを含んだその声が消え去るより先に、男は強引にキハルさんの腕を振り払うと、大きく一歩後退った。

「あ……っ!」

「キハルさん!」

「ゆ……っ、許さねェ…………!」

 切っ先は、キハルさんの方を向いていた。とうとう男が刀を構えたのだ。大きく足を開き、青筋の浮かんだ額の下、両の瞳を激しく歪めながら。

「許さねェ! 絶対ェに許さねェぞこのアマ!! ……この俺をここまで侮辱しやがって……ただで済むと思うなよッ!!」

 開け放たれた扉から入り込む外の光が男を照らしている。さっきまで扉の辺りにいた人たちは既に退散したらしい。同じものを目にしているだろうキハルさんの表情は見えない。しかしなんとなく、感情は読み取ることが出来たような気がした。

「…………あのさ、もうやめときなよ。 恥かく前にサ」

 この期に及んでまだ恐怖していないということを。

「こ…………っ、のォ……!」

 むしろ逆に、男を見放しているということを。

「死んで詫びろやあああァッ!」

 奇声一閃。男の刀が空を走る。あの間合いに、この狭さ。丸腰のキハルさんには成す術もないことは明白だ。

 でも。でもなぜか。

「…………踏み込みが甘い」

 こうなることは、予想できた気がした。

「重心も高すぎ。 ……ついでに言うなら、切っ先も震えすぎだよ」

「んな…………そん、な…………バカな…………!」

 男の刀が、キハルさんを斬ることが出来ないということは。

「おお…………っ」

「すげぇ……!」

「キハルさん…………!」

 周囲のどよめきを意に介さず、僅かに姿勢を下げたキハルさんは、顔の前で交差させた腕の先を見やる。

 刀は動きを止めていた。降り下ろす寸前の姿のまま、キハルさんの手首に柄を支えられるようにして。

「恥かく前に帰れって、言ったのに」

「な――――!」

この先の男の言葉は聞こえないままだった。

 キハルさんが何やら踏ん張ったその瞬間に、男の体が店の外へと吹っ飛んで行ってしまったからだ。

「えっ…………」

 まるで御伽噺の神様が、大きく息を吐きだしたときみたいに。


 お日様が一日の業務を終えた頃、西の空からその身を沈めて消えた頃。空には別の輝きが現れる。

「…………」

 丸く大きく、鈍く体を光らせる月の輝きだ。決して太陽のような強い光も熱も持たないが、あの天体が人々にもたらす安らぎは本物だ。辺りを包む闇の深さと肩を組み、人びとの心と体に安寧をもたらしてくれる。

「……クソッ」

 しかし、誰もがその恩恵に与れているわけではなかった。月の良く見える静かな夜。晴れ渡る暗闇の空をもってしてもなお、彼の心の奥に煮えたぎるものを醒ますには足りなかった。

「クソッ、クソ……なんなんだ…………!」

 手元の御猪口を大きくあおる。天を仰いだその顔をぎゅっと歪めて喉の焼ける感触を味わいつつ、すぐさま次を注ぐ。

「おいオヤジ! 次持ってこい!」

 そして空になった白い徳利を乱暴に台に叩きつけ、怒鳴る。へいただいま。答える声が小さいのは距離が故か。それとも男の横暴に恐れをなしたからなのか。

 男がいるのは町はずれの川沿いだ。昼間でもそこそこ人の通る道ではあるが、大通りではないのでここが人でごった返すようなことは滅多にない。そして飲み屋街とも遠いので、夜でも静かに川のせせらぎを聞くことの出来る穴場。もっと季節が進めば虫の声なんかも聞こえて大変風流な場所である。

季節を問わず夜間のみこの道沿いに現れるおでん屋台。ここに入り浸るのが男の楽しみだった。冬には熱燗を啜りながら大根を齧り、夏には団扇を仰ぎながら冷酒をあおる。華やかさもなく、騒がしさもない。男の心が最も休まる場所こそが、この屋台にいるときだった。

 そんな憩いの場所にいながらも男の表情は晴れない。机に片肘付きながら、空になった御猪口をいたずらに転がす。かたん。小さな音を立てその場で円を描く器。その白い体に映るのは橙色の彩。提灯の輝きだ。そして。

「…………」

 男の着物の色合いだ。

 昼間のあのとき何が起きたのか。それは男も理解しているつもりだ。見慣れぬ若い女の店員が因縁をつけてきたあのとき、男は頭に血が上り、刀を抜いて女を脅そうとしたのだ。

男にとってはなんてことのない行為。今まで何度だって、気に食わない女どもには刀を見せつけてきた。あいつらは口は達者でも力がない。こうして一度、自分の力と言うものをその目に教え込んでやればすべて丸く収まる。今日もそう、いつも通りに上手くいくはずだったのだ。

だが、結果はそうはならなかった。

男はほんの一瞬で、店員の女に黙らされてしまったのだ。刀を防がれ、気が付いたときにはもう地面に倒れ伏していた。刀もそこらに転がっていた。

どうして自分が倒れているのか。理解するまでには数舜の時間を要した。店の外まであの女に突き飛ばされてしまったのだ。刀を抑えたあの姿勢から、体重移動と踏み込みの強さのみで。

あれは恐らく海を隔てた異国の武術『発勁』だ。腕力ではなく体の芯から放つ力で相手を押し出す高等技術。話には聞いたことがある。しかしまさか、あんな小娘が。あり得ない程なめらかで、信じられない程無駄のない一撃だった。反応できなかったことが今でも信じられない。

そして。

「…………クソ……ッ!」

 その事実は確実に、男の尊厳を破壊しつくした。

 この男にとって女とは、自分の欲を満たすための都合のいい存在以外の何物でもなかった。好きな時に声をかけ、好きなように連れまわし、好きなだけいたぶって良い相手。これまでずっとそうしてきた。それが彼の常識だった。

 それがこうだ。あの見知らぬ店員は。男を完全に出し抜いたばかりか、あまつさえ笑いものにまでしやがった。肩を震わせ刀を拾い上げ、がちがちと音を鳴らして鞘に収めたあの瞬間。男は前を向くことが出来なかった。周囲の者がどんな目をしているのかが分かったから。自分をあざ笑う人々の声を聞いてしまったから。

 あの女に完全に負けた。もうあの店には行けない。あの店の近くで女を連れ歩けない。

「おいジジイ! 遅せェぞ!」

 机を殴った衝撃で徳利が走り出した。構うものか。そのまま落ちてしまえ。そのまま、そのまま――

「おっと、危ない」

「!」

 机から飛び出した徳利を拾う者が居た。危なげなく、ひょいと白い陶器を拾い上げた者が居た。

「あ……っ」

「元気かい? ……ま、聞くまでもねえか」

 親父さん、これ。店主に徳利を返すこの男のことは知っている。知らないはずがなかった。

「あ、あなたは…………っ!」

 この男は、このお方は。

「ちょっと話、いいかな?」

 男の驚愕の顔を無視して、新たな客は隣の席に腰を下ろした。提灯だけが頼りの暗闇の中、口元だけが不気味に照らされ、艶やかに光る。

「聞いたよキミ……今日は災難だったんだって? ……俺の名を使っておきながら、随分恥かいたって言うじゃねえか。 え?」

 獰猛に歪むその顔が、よく見える。

「あ……っ、あの……それは…………っ!」

「手前に土つけた相手ってのは誰だ? ……近頃知らねえ女があの店の辺りをうろついてるって聞くが、まさかそいつじゃねえだろうな?」

「…………」

「……手前ェ」

 ここは大通りとも遠い静かな通り。

 男の悲鳴の一つなど、誰の耳にも届きはしない。

「……親父さん、なんか適当に見繕ってくれや」

 店主は小さく頷いた。否。

 頷くしかできなかった。

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