第一話 人を見たら行き倒れと思え
関所近くの茶屋の朝は早い。相手にするのは町の者だけではないからだ。町の門が開き、行商人や流浪人、旅芸人など流れ込んできた者達をもお客とするからだ。商売の好機は常に目の前を通り過ぎていく。それらを取りこぼすことなく捕まえるためには、どうしたって彼等より早く起きる必要があるのだ。
関所近くのうちの茶屋は忙しい。団子が旨いと評判だからだ。その噂は町の中だけにとどまらず、近隣の町や旅の者たちの間にも広く知れ渡っているからだ。看板商品『みたらし団子』を求めてはるばるこの町にやって来る者もいる。一見して何の変哲もないただの団子に見えるそれは、誤魔化しの利かない繊細な味わいの一品であり、職人の腕前の光る逸品なのだ。
関所近くのうちの茶屋、名前は『
「ふぁ……っ」
欠伸を噛み殺しながら通りに立つ。時刻はまだ朝と呼ぶには早すぎる頃。お母様に言わせれば『爽やかな朝』の時間帯。
空がようやく白んできたこの頃に、毎朝私はここに立っている。勿論何かの罰ではない。むしろ進んで私はここに来ている。別に何か楽しいことが起こるわけでもないのだが、私はここに立っている。
「…………」
手元を見やる。そこには水を一杯に湛えた手桶が一つ、柄杓を加えて揺れていた。これが私をここに立たせる理由。私は今から、これを持って店の前を歩き回らなくてはならない。
「よい……しょ……っ」
道具はこれだけとは言え、水を運ぶのは中々に力のいる作業だ。両手でもって桶を支えて、えっちらおっちら歩みを進める。力はいるが力任せではいけない。せっかく裏の井戸から組んできたのだ。ここでこぼしてしまっては労力の無駄遣いと言うものだろう。
「ふう……っ」
そのままもう数歩、何とか無事に歩き切る。そこで一旦桶は置いてしまって、一息。額に浮いた汗の赤ん坊を袖口でぬぐう。本当は手拭いか何かを使うべきなのだろうが、今朝は持ってくるのを忘れてしまった。寝間着を兼ねた浅黄色の浴衣には小さな染みが浮かぶ。そのうち乾くさ。鼻から小さく息を吐きだし、前を向く。
「……おはよう」
視界の先には、緑があった。足元の鉢植えから元気に伸びる、細いが逞しい緑の命。今年の春先にお母様と一緒に植えたお花の種が芽を出し、すくすくと伸びてきているのだ。お母様はこれが何のお花なのかは教えてくれなかった。でも夏になったら答えがわかると教えてくれた。それまで私がお世話するのだ。答えを知るために。お母様の喜ぶお顔を見るために。
「……うふふっ」
そのときが今から楽しみで仕方ない。高く高く登ったお日様の輝きで照らされたお花は元気にその花びらを空に向けるのだ。形も色も分からない。でもとってもきれいであることだけは分かった。
そしてそれを前にして、お母様は大きな大きな、お日様にも負けないきらきらした笑顔を私に向けてくれるのだ。よくがんばったね。きれいだね。そう笑うお母様の声はいつも通り、大きくてはきはきしていて、それでいて優しくて……
「……あ……あ……」
「?」
柄杓を傾け何度か鉢に水をやったとき、どこからか物音が聞こえた。さてそろそろお部屋に戻ろうかと、柄杓を手桶に戻した丁度そのときだ。弾かれたように背筋を伸ばす。そしてそのまま、左右をきょろきょろ。
「……あ……ああ……」
「……え……?」
左右には何もない。眉根を寄せつつ今度は背後をぐるり。向かいのお店も既に人が起きだしているはず。しかしここまで聞こえる大きな物音など聞こえてくるわけもない。それに初めて聞く音だ。朝の大通りからこんな音、聞いたことがない。
こんな物音なんて。まるで――
「あ……あの……ちが……」
まるで誰かのうめき声みたいな。
「……ッ!」
そう思うのと同時に、今度はもっとはっきり、明確に物音は耳に届いた。「うめき声みたい」だなんてとんでもない。間違いない。これは、そうだ。
「だれか……誰かの声……?」
人のうめき声だ。
理解すると同時にどっと汗が噴き出す。うめき声なんて、そんなものが聞こえてくる理由が分からなかったからだ。こんな平和な町に何で。こんな穏やかな時間帯に、何でそんなものが。
「……あのっ!」
「ひっ!?」
ひときわ大きな声。過敏になった神経はそれを大げさに脳に伝達する。思わずあげた悲鳴までもが怯えて縮こまっている。この声が聞こえた場所が理解できてしまったからだ。他でもない、この声が。
「あ……っ……!」
目の前の花壇のその向こう、お店の脇の暗がりから聞こえていると、分かってしまったからだ。
「あああ……っ、ああ……ああ……」
「あ……の、っ……それ……あの……」
ぎしり。音がしたのは何処からだったか。
「……その水っ、私にもくださあああああぁぁいッ!!!」
「ひぎゃあああああぁぁぁぁ……ッ!!!」
朝焼けの下、静かな町の大通りに、二人分の悲鳴が広がった。
「いやいや、ほぉんと助かりました!」
お花に水をやる時間から更に数刻の後。お日様ももうだいぶその姿勢を高く伸ばし始めたころ。いつもならお店が始まっているはずの時間帯に響く声は、一つのみ。
「あぁ……まともな食事なんてしたの何時ぶりだろぉ……幸せ……!」
声の主は、机を挟んだ私の真向かいに座っている人物だった。薄汚れた白い肌の顔に、嫌に艶やかな黒髪を垂らした女性。紅色をした泥だらけの袴装束と相まって、その姿は浮浪者か何かのようにしか見えない。先ほど私がお店の前で見つけた『うめき声』の正体だ。その風貌や地に這いつくばって進んでくる様から妖怪の類いにしか見えなかったのだが、どうやらその生態は普通の人間であると見て間違いなさそうだった。
私の足元まで這い進んできた彼女は、何を言う前に手桶に顔を突っ込むと、中の水をごくごくと飲みはじめた。呆気にとられて見守るしかできない私を尻目に中身をどんどん腹に収める謎の女。その姿から感じる狂気は計り知れないものがあった。実際私がまともに動けるようになったのは、お店の中から飛び出してきたお母様の足音を聞いてからだった。何があったのか。説明はいらなかった。水やり用の手桶に顔を突っ込む汚い女。その姿に情けを感じたか、或いはご近所さんの視線を警戒したか、お母様はすぐさま彼女をお店の中へ引きいれると、熱いお茶と握り飯を出してやった。今度はそれらを腹に詰め込み始めたのは最早言うまでもないことであろう。もっともっととせがむに任せて食事を出せば、次から次へと出した分だけ口に放り込んでしまうので、彼女の目にはすぐさま皿の塔が出来上がり。そこまでこなしてようやく、彼女はまともに人間の言葉を 、「いやいや、ほぉんと助かりました!」 を発音したのだった。
「あ……茶、もう一杯、淹れようかい……?」
「ん! お願いしまぁす!」
見た目に違わぬ豪快さに、流石のお母様もいつもの調子を失っている。土やら何やらで真っ黒な腕から空の湯呑をうけとって、藤色の小袖を着たお母様は急須を傾け始めた。その様子をぼんやり眺めつつ、私はそっと、口を開いた。
「あの……さっきはごめんなさい……。 あの、私、びっくりしちゃって……妖怪とか出たのかと……」
「そらそうでしょうよ。 こぉんな可笑しな輩がいきなり目の前飛び出して来たらそりゃあ、ね。 気にしなさんな。 ……と言うか、こっちこそゴメンネ」
指についた米粒を舐めとりながら女は首をすくませる。とても謝罪を口にする人物の行動には見えない。しかし同時に、この無礼極まる所作からは一切の嫌悪感を覚えない。それはあの人懐っこい笑みがなせる業なのか。それとも、この形容しがたい存在感、どことなく漂う大物じみた肝の据わり方から感じるものなのか。どちらにしても悪い気はしなかった。それはどうやら隣のお母様も同じだったようで。湯呑を女の前に差し出すお母様からは一切の警戒心は感じられなかった。
「それにしてもあんた、そのナリは一体どうしたのさ。 着の身着のまま、荷物も持たず。 まさか旅行者じゃあないだろう?」
ええ、まあ。湯気の立つ緑茶をずずっと飲みこみながら返す。熱くないのだろうか。
「その~、なんて言いましょうかね……。 ……あの男に、ハイ、捨てられまして……ネ。 ……このままいたら殺されるんじゃねぇかと命の危機を感じたもんで、大急ぎで逃げだしてきた次第です。 ハイ」
ダメですねぇまったく。恥ずかしそうに笑う彼女からはしかし、恐怖や後悔の色は見えない。元よりくよくよ考えない性格なのだろうか? それにしてもあんまりだとは思うが。
「……ん~で男の追っ手を巻きながら走って走って……。 宿なんて借りれないんで夜は野宿ですよ。 獣に襲われたりもしましたが、それはまぁ……お肉が食べられると思えば……。 とにかく生きた心地がしなくって。 いや~、ホントに助かりました! 感謝です!」
とうとう急須の中身まで腹にしまい込んでしまった。勢いよく湯呑を机に戻し、深々と一礼。その唐突な行動に再び面食らう私たちの様子などお構いないしに、下げたときと同じくらい勢いよく頭を持ち上げた彼女は。次にごそごそと懐を漁り始めた。
「え、っと……何を……?」
「何って、お勘定よお勘定」
けろりとした顔で言われると何だかおかしい。漫才でも聞いているかのようだ。こんな姿の行き倒れがまともに食べた分を払おうとしているからだろうか。ここで漫才なら女の方が「銭がない」などと言い出してもうひと悶着起こるところなのだが、流石に現実でそれはないだろう。
「そんな良いのに……とは、言えない食いっぷりだものねぇ……。 これは流石に、いくらか払ってもらわないと家が潰れちまう」
「ですよねぇ。 ……え~ちょっと、待って……もらえるとぉ…………」
苦笑交じりのお母様の声に促され、懐の奥深くを探る女。右になければ左に。ちょっと考えて、今度は袖に。しかし元からなのか千切れてしまったのか、あの袖に何か入れられる構造だとはとても思えない。
「…………」
「…………」
え、うそ。本当に?
「…………あ、れれぇ~……? ……おっかしいぞぅ…………?」
眉根を寄せつつ、瞳は空へ。真一文字に結ばれた唇は不安定に歪みだし、額にはそれとわかる大きな汗の雫が一つ。
「…………ないの……? ……おかね……?」
私の言葉が何かの引き金になってしまったらしい。わっと椅子から飛び出した女は、流れるような所作で地面に座り込み。
「ごっ、ごめんなさあああああぁぁぁぁぁいっ!!!」
ごちんと派手な音を響かせながら、頭を床に打ち付けた。
「えっ、ちょっ。 はっ!?」
それに慌てたのはお母様だ。今朝の再現のようにその場に固まってしまった私を放っておいて、お母様が椅子から立ち上がる。向かう先は無論、床の女。
「お金がないって本当に!? ……いや、正直そんなに持ち合わせ無いだろうと思ってたからそれはいいんだけど…………。 ……いや良くない! 良くないけど! それはそれとして、どうしたのさ!」
「ハイッ!! ……それがこの間ゴロツキ共に襲われたのをすっかり忘れてまして……! 逃げるとき唯一持ち出せた巾着袋をなくしちゃってたんです……! ……山吹色の可愛い巾着……! その中に、いくらかお金が入ってたんですけども……!」
今となっては行方知らずで。地面に向かって話しかけているものだから聞き辛くて仕方がないが話は分かった。これは一大事だ。どうしよう。
「お母様……!」
「うん。 わかった。 わかってる……。 ないものを幾らねだったって仕方ない……ここは即刻立ち去っていただいて、それでおしまいに…………」
「い~やダメですっ! 命の恩人にそんなっ!!」
がばりと顔を上げた女の顔は今までにも増して悲惨なありさまだった。本当に申しわけなくて仕方ないのだろう。瞳には涙をにじませ、鼻水など垂らしてしまっている。
「いやでも駄目ってったってねぇ……どうするつもりだい」
女と同じくらい困り果ててしまった様子のお母様のため息交じりの声。正直迷惑そうですらあるその態度に彼女が気づいていたのか否か。そんなことは私にはわからなかった。
「働かせてくださいっ! ここで! ……飲み食いした代金の分、払いきれるまで!」
「はあっ!?」
この女の口から出てきた、頓狂な提案を聞いてしまった今の私には、何も。
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