朱殷の椿

律華 須美寿

第一章 椿、現る

開幕

 都といえども夜は静かだ。特にこんな大通りから外れた道ならば余計に。

 左右を高い塀に塞がれた道を、男が一人歩いていた。身なりの良い男だ。仕立ての良い着物に身を包み、艶やかな黒の鞘に刀を収め悠々と歩いている。辺りを薄く照らす月明りの下、その表情には、どこか誇らしげな疲労の色が見て取れた。

「……ふぅ……」

 主人の屋敷からの帰り道だった。主人の言いつけ通りにことを運び、仕事を回し、金を生み出す算段を付けた帰り。すべてが滞りなく円滑に進行し、あとは実際、成果物が目の前に現れるのを待つのみ。そんな日の帰り道だった。

「……ふふ……っ」

 思わず笑みがこぼれる。これでまた自分の有能さを売り込むことが出来た。これでまた、出世に一歩足を進めることが出来た。

「ふふふ……っ、ふふ……!」

 これが喜びでなくて何だ。このときが、至福の瞬間でなくて何なのだ。こんなときに、幸福と絶頂感の滴る笑いを零さずにいられる人間などいるわけがないだろう。男の頭の中にはすでに、手に入れた金と地位でどんな褒美を自分に与えてやろうかと、下衆な妄想が隅々にまで広がっていた。

「ふふふふふ………んっ?」

 しかし誰にも止められそうになかったその笑みは、唐突に途切れることとなる。

「……これは……」

 足の裏に、違和感。

 まさか。

「嘘だろ」

 慌てて地面から片足を引っぺがしてみれば、なんてことはない、そこには一輪の枯れた花が張り付いているのみ。

「落ち椿……もうそんな時期か……」

 視線を傾けてみれば、隣の家屋に生垣代わりの椿の木が生えていた。そこから落ちた枯れ花か。驚かせやがって。

「まったく……」

 乱暴に花を振り払う。空しく土の上を跳ねて飛んで行く椿を見送ったそのとき、気づいた。

「誰だ……っ!」

 そこに誰かがいる。

 しかしそこまで。ついぞ男には、そこにいる何者かの正体は分からず仕舞いだった。

「…………」

 男の首が、その場に落っこちてしまったから。


 朝になって男の死体が発見されたとき、都の者たちは口をそろえてこう言ったらしい。

 椿の花を踏んだから、男は首を落とされたのだ。

 『首切くびき椿つばき』の怒りを買ってしまったのだ。都を騒がす妖の怒りを――

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