第12話 王子様
なんでしょう、この高揚感は。
なんでしょう、この不思議な安心感は。
なんでしょう、この盲目は。
彼の顔以外の全ての視覚情報が遮断される。
一度鳴った心臓がなかなか鳴りやんでくれない。
こんなの、ロマンス小説でしか見たことが無いです。
身体の揺れを感じる。
風を感じる。
空を感じる。
私は今、空を翔ける王子様に連れ去られています。
「すいません。こんなことになってしまって……というか、してしまって」
「あははっ! 私、楽しいですよ?」
本当はダメなことだってわかっているけど、こんな楽しいことは生まれて初めてです。
私は、屋根を足場とする空中散歩がどうか終わりませんように。なんてイケナイお願いをついしてしまったのだった。
――
「すいません! 本当にすいませんでした!」
街近郊の森の中、先ほどまでの威勢とは別に、イケナイ王子様は頭を下げる。
「本当はもっと問題にならない方法を取るべきでしたね。つい、その場の空気で流されてしまいました」
「いえいえ。私がこういうのは可笑しいかもしれませんが、本当に楽しかったです。生まれてから一番くらいに」
「で……でも――」
「それに、何か理由があるんでしょう? あなたはこんな事理由も無くする人じゃない。4年前も今も、そのくらいのことはわかっているつもりです」
そう、私を助けてくれたルーティさんは、少し掴みどころの無い誠実な方だ。
今もこうやって、真剣にこちらの目を見つめてくれている。
「……ロベリスさん。俺・は、今からあなたに嫌なことを聞くかもしれない。本気で、誰にも言いたくないくらいのことなら、諦めますが、できる限りちゃんと答えてほしい。こうして連れ出したのも、この話をしたかったからです」
「は、はい!」
ルーティさんは、少しだけ言い辛そうにしてから、もう一度こちらの目を見る。
「ロベリスさん。もしかして君・は、家で嫌がらせ……それも虐待を含むようなひどいことをされてるんじゃないですか?」
その質問に心臓が強く鼓動する。
動悸は不規則で不条理にリズムを刻む。
「……な、なぜそう思うのですか?」
「俺、昔から人間観察だけは、得意なんですよ。まぁ、別に特技とはそういうことじゃなくて、ただ生き抜くために身についた不可抗力の力なんですけど。まぁ、それは置いといて、ロベリスさんの『家』に対する忌避感が、話から伝わってきたんです。だから、もしかしたらと」
「……」
「それに、根拠はそれだけじゃなくて……」
そう言って彼は目線を下げる。
その目線を追うと、自分の左手が、あ・る・部・分・を抑えていることに気づいた。
お母さまに付けられた傷。
無意識に隠しちゃってたんですね……。ですが、これは知られるわけにはいけません。
私ひとりの為に、あ・の・子・の・リブロニア家に泥を塗るわけにはいけませんから。
「こ、これは私のドジで付けちゃったものです。私、おっちょこちょいでよく転んじゃうんですよ。笑ってしまいますよね。あはは……」
「そんな乾いた笑いはあなたには似合わない……」
「へ?」
よく、声が聞こえなかった。
しかし、彼は聞こえなかった言葉とは違う言葉を投げかける。
「すいません。叱りと罰ならあとで受けます」
そうして彼は、抑えていた私の左腕をやや強引に掴み取り、その下のドレスを捲る。
隠していた左腕と、そこにはっきりと残る傷痕が露わになってしまう。
あぁ、バレてしまいましたね。特にこの人には見られたく無かったのに。
私の憧れの騎士様……。この人だけにはこんな弱弱しいところを見せたくなかったです。
「この傷、転んでできるような傷じゃないですよね?」
「……」
沈黙以外の言葉が喉から上に上がってこない。それでも、なにか声を出そうと、開いた口は塞がらない。
八方ふさがりとはこういうことを言うのでしょう。
「……俺が……俺があなたを守ります」
「!?」
その言葉の意味を咀嚼できないうちに、彼は次の行動を起こしていた。
彼は、私の傷を覆うよう、布で傷部分を包んでくれた。
よく見ると、花柄で綺麗なハンカチだ。とても可愛らしい。
どうして?
そんな月並みすぎるほどの言葉すら出てくれない。
「これ、怪我が絶えない妹によくしてあげる奴なんです。一枚の柄絵布から何枚もできるからお得なんですよ。ちょっとロベリスさんには幼すぎるし、安っぽすぎるかもしれませんが、今この傷を隠すことぐらいならできるでしょう?」
彼は、こちらに優しい目を……本当に優しい目を向ける。
でも、不思議と、こちらを憐れむような、蔑むような感情は感じない。見えるのは、こちらへの心配と、悲しい表情だけだ。
「あなたが、この傷を知られたくないというのはわかりました。それは、俺だけじゃなく、他の誰にも……ですよね。だったら俺は待ちます。あなたがきちんと話してくれるまで。この4年間、どうやら俺はあなたを待たしてしまったらしい。今度は俺が待ってもいいですよね?」
私は、ゆっくりと頷いた。
どうやら、今日だけで終わらせたくないと思っているのは私だけではないらしい。
「やっとこっちの目を見てくれましたね。よし! 決まりです!」
ルーティさんは両手を取って笑ってくれた。
「じゃあ、そろそろ帰りますか?」
再びこくりと頷くと、それににこりと返す。
そして、来た道を見るように、後方の家の屋根を見上げる。
「さて……どう帰ったものかなっとその前に……」
すると、彼はポケットから一枚の紙きれを取り出し、さっと胸ポケットからペンを取り出す。
そして、何かを書いて、再びこっちに近づいてくる。
「さっきは『待つ』って言いましたが、少々行儀と手つきの悪い人間です。黙って待つなんて利口なことはできないですから、そこのところはちょっとだけ覚悟していてくださいね」
なんて小慣れたことを、口元に人差し指を充てながら囁きかける。
その後、こちらの手に先ほどの紙切れを渡す。
「……では、帰りますが、先に謝罪だけさせてください。俺が悪いように事を運ぶつもりですが、騎士さんには、多分、お叱りを受けることになると思います。そこはごめんなさい」
「……い、いえ。それにあなたは何も悪いことを――」
「では、失礼しますね」
ようやく出てくれた声は、残念ながら彼の声にかき消されてしまった。
彼の手は、再び私の身体を優しく抱え上げる。
帰り道の空中散歩は、行きとは違って、少し息の詰まるものでした。
でも、別れる際の、
「次は、何でも話せる酒の場で」
という彼の言葉が、少しだけ私に元気と力を与えてくれた。
この夜、ルーティが自分の言動の恥ずかしさに悶絶しながらベッドに転がりまわるのは、語るまでもない話である。
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