エピローグ
「橘先生」
呼ばれて橘は、手元のマグカップから蓮へと視線を移す。
「何でしょうか?」
教室に戻った吏津を見送ったあと、二人は再び向かい合う形でソファに腰掛けていた。二人の前には吏津が退室してすぐに、橘によって淹れられたコーヒーが置かれている。
「正直、これから先がどうなるか分からないのですが……柊と一緒に歩んでみます」
しっかり前を見据えている様子の蓮に、橘は小さく頷き笑みを見せた。
「お二人の未来が幸多き事をお祈り申し上げます」
そんな言葉を掛けてくれた橘に蓮は少し言い辛そうに話を続ける。
「亡くなってしまった生徒さんの分まで、柊を大切にしますから」
橘が掴めなかった道を歩むのだ。
蓮は応援や助言してくれた橘のためにも、出来る限りで吏津を大切にしたいと思った。
しかし、橘が遠慮がちに首を傾げる。
「どなたか、お亡くなりになったのですか?」
その言葉に、今度は蓮が首を傾げる番だった。
「橘先生が……もう居ないとおっしゃったのではないですか。後悔しか残らないとも」
そこまで聴いて、橘は小さく「あっ」と声を上げる。
「すみません。勘違い……させてしまったみたいですね」
「え……?」
「あの子は……生きてますよ」
「……それなら」
どうして居ないなんて……そう続けようとした蓮の言葉はすぐに橘に遮られた。
「ただ……彼には、記憶が無いんです」
瞠目した瞳に僅かに笑んで見せてから、橘は強く唇を噛み締めた。時間の経った今でさえ、油断したら泣いてしまいそうになる。
「事故、でした。当時私が勤めていた学校のすぐ近くの道路での自転車と車の接触事故」
彼を喪うかもしれない思ったあの恐怖は、今でも忘れられない。
居合わせたらしい生徒に呼ばれて、駆け付けた時にはすでに彼の意識は無く、出血の酷い身体が段々と冷たくなっていく様は橘に恐怖しか与えなかった。
それでも奇跡的に一命を取りとめ、何日かの昏睡のあとようやく目を覚ました。
助かってくれて本当に嬉しかったけれど、目覚めた彼の第一声に身体が震えた。彼は、ベッド脇に橘を見つけて不思議そうに首を傾ける。そして……
『アンタ、誰?』
そう口にした。
残酷だと思った。
好きだと囁いたその唇で、そんな言葉を口にするのか……と。
けれど、自覚した気持ちを今さら捨てられるはずが無い。
彼は……ちゃんと生きて此所に、己の目の前に存在している。
築き上げた記憶は抱えていないけれど、彼が彼である事は紛れも無い事実。
故に一層苦しかった。
目の前の現実が、この未消化な気持ちを諦めさせてくれない。
「お二人の恋が叶ったなら、何かが変わる気がしたんです」
それは単なる願望でしかないけれど。
ともすれば自分達と重ねてしまいそうな二人の恋が巧く行ったなら、己の恋にも何らかの変化をもたらしてくれる気がした。
「正直辛い事の方が多いんですよ。でも、それでも諦められない。だから、こんな想い貴方には味合わせたく無かった」
「橘先生……」
蓮は橘に何と声を掛ければ良いのか分からずに、 ただじっと見つめていた。
するとしばらくしてから橘が顔を上げる。
「しんみりさせてしまいましたね。もうすぐ次の授業が始まります。畑中先生も戻らないと」
ちらりと腕時計を覗いて、蓮は慌てて立ち上がる。
同じように立ち上がった橘が両手で蓮の手を包み込むと「お幸せに」と微笑んだ。
蓮はその手を握り返し、深々と頭を下げてから保健室を後にした。
蓮が居なくなってから、橘は深く息を吐く。二つ並んだカップを眼にすると、余計に独り取り残された気がしてくる。
不意に腕時計が振動して新着のメッセージを伝える。そのまま手元で内容を確認して小さく笑った。
「まだ、頑張れますよ?」
今でも好きだから……。
彼の記憶が戻るまで、決して諦めないと誓った。挫けないと心に決めた。
蓮と吏津の恋が巧く行った事は、少なからず橘に勇気を与えた。
「恋は、障害が多い程燃えるんですよね?」
以前彼の人が何度か口にした言葉を真似る。
橘は机に放置していたスマートフォンを手に取ると簡単な返信を送った。そして白衣のポケットにそれを突っ込み、札は不在のまま保健室を出て行った。
『先生、近くまで来てるけど、少し話せない?』
少しずつだけれど、自分達の恋も動き出しているのかもしれない。
- END -
外見など本文内にほとんど載せてなかったので……今さらですが、簡単な人物紹介。
柊 吏津(ひいらぎ りつ)
年齢:16
身長:175㎝
髪:栗色
目:茶味がかった黒
畑中 蓮(はたなか れん)
年齢:23
身長:175㎝
髪:黒
目:黒
橘 伊弦(たちばな いつる)
年齢:26
身長:172㎝
髪:黒
目:黒
伊弦と言う名前割と気に入ってるのですが、呼ぶ機会なかったです。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
a ray of hope 和泉 @kei_izumi
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