第15話
「蓮さんは、今までに誰かと付き合った事はある?」
優しく背中を撫でながら尋ねられ、蓮は俯けていた顔を上げた。
「え……?」
何を訊かれたのか良く分からないといった様子の蓮に、吏津はもう一度告げる。
「誰かと付き合った事、ある?」
「あ、あぁ」
僅かにこくんと頷いたのを確認して、言葉を続けた。
「その時も、別れる事まで考えてたの?」
「それは……」
言い淀んで逡巡したあと、躊躇い気味に「ほとんど強引に押し通されたから」と曖昧に笑う。
そういう意味で女性は強いななどと考えていると……つと吏津の手が蓮の脇腹を撫でた。
「……っ」
声にならない悲鳴を上げると、吏津が笑う。
「なら、俺も貴方を強引に手に入れようかな?」
「何を言って……」
狼狽した蓮の頬を撫で、吏津は泣きそうに歪めた瞳を向けた。
「多分でも何でも、好きなんて言われたら諦められない。俺は……蓮さんが好きなんだ。好きだから……そんな風に言われたら期待してしまう」
吏津の想いを、例えば表面上だけでも断ち切らせる言葉を、蓮は知っている。
それはとても簡単。
『嫌いだ』と伝えれば良い。
けれど誰が? 誰が彼を嫌っていると言える?
大切なのだ。
僅かに芽生えた気持ちも、目の前で泣きそうに笑う子供も。
視線を少し横に向けると橘と目が合った。彼はまるで空気の様に佇み自分達を見守っている。
いつか失ってしまうかもしれない恋を恐れて、いま柊を失ってしまったらどうなるのだろう?
それは、柊と過ごせたかもしれない時間すら失くしてしまう事になるのではないだろうか?
橘を見ていてそんな考えが過ぎる。
気持ちは……いつか離れてしまうかもしれない。
その不安は消えない。
正直、恐い。
もう……失いたくはない。
だから初めから手に入れなければ良いと思った。そうしたなら、失わないで済む。
けれど、吏津の笑顔が見れなくなった時に感じた喪失は何だったのか?
手にしなければ失わないと思っていたのに……あの時、確かに大切なモノを失くした気がした。
俺は……どうしたいんだ?
自問して吏津を見つめた瞬間、計った様に吏津が口を開いた。
「好きだよ」
耳元で優しく囁く。
「……っ」
無意識に溢れ出た涙を拭おうとしたが、先に吏津の指がそれを掬う。
「ねぇ蓮さん。俺がもっともっと貴方を好きになるから……だから、俺を好きになって? 多分じゃなくて好きになって」
諭す様な声音はどこまでも穏やかで優しい。
蓮はゆっくりと目を閉じた。
何て不確かな約束だろうと思う。
でも、この手を払うなんて……もう、無理だろう。
未来に、光が……見えた気がした。
それはとても弱くて、何かに覆われたなら消えてしまいそうなモノだけれど……。
この先に僅かでも希望があるのなら……この手を取っても良いだろうか?
「俺とでは幸せになれないかもしれない。それでも良いのか?」
不安気に問い掛ける蓮に、吏津はふうわりと笑う。
「構わないよ。それに言ったでしょ? 俺が、貴方を幸せにするよ?」
全く躊躇いを見せない強い想い。
脆く不安定な心だけれど、いつだって一途で曇りない。
だからこそ惹かれたのかもしれない。
蓮はようやく吹っ切った様に覚悟を決めた。
「俺は、柊が……好きだ」
そう告げた途端、吏津が破顔してぎゅっと抱き付いてくる。
「俺も……蓮さんが好き」
短く呟いてから蓮の首筋に唇が触れた。
「ひいらっ……ん」
口付けは首から顎、そして口へと移動する。
そのまま舌が差し入れられ、蓮が遠慮がちに舌をで触れるとすぐ様絡め取られた。
「ふ、ん……」
何度も貪る様に吸い上げられ、混ざりあった唾液が顎を伝う。そうしてやっと深い口付けから解放された。
「先生」
不意に呼ばれて蓮が口端を拭いながら顔を上げる。自分が呼ばれたのかと思ったが、吏津の視線は橘に向いていた。
そうして、今までの痴態を橘に晒していたのだと気付き恥ずかしさに俯く。
そんな蓮の横で吏津がとんでも無い事を口にした。
「ベッド借りても良いですか?」
「な……」
それが何を意味するかくらいすぐに分かる。言葉が続かずパクパクと口を動かしているだけの蓮の向かいで、橘がにっこりと笑った。
しかし、その答えは吏津がいつも聴く言葉とは違っていた。
「ダメです」
「えー」
非難の声を上げた吏津に、「後片付けを誰がやると思ってるんですか?」と少し怒った様子で告げる。
「俺がやるから」
「それでもダメです」
変わらない答えに吏津がぷぅっと頬を膨らませたのを見て、蓮は耐え兼ねたように声を上げて笑った。
こういう所は年相応で微笑ましい。
「ちょっ、蓮さん」
恨みがましく見つめた瞳に「諦めろ」と笑うと、
「蓮さんだってやりたいでしょ?」
と尋ねられた。
それに対して蓮はしばし考える。
男同士な訳だから、今まで経験した様な恋愛とは異なる。吏津は自分を抱きたいのだろうか?
抵抗があるかと訊かれればあるとしか答えられない。しかし、同性と知りながらも吏津を好きになったのも事実だ。
いつかは、そうなるのかもしれないなと思うけれど、それが今かと訊かれればそうでもない。何より教え子を相手にするのにはやはり抵抗があった。
「お前が卒業したら考えてやる」
ほとんど心は決まっていたけれど、それを吏津に告げるのは先送りにした。
「ええ!! 俺、それまでお預け?」
驚きに見開かれた瞳を見返しながら、蓮がさらにくすくすと笑う。
「ねぇ蓮さん。キスは? それもダメ?」
一転して真面目な表情を作った吏津に蓮は、もう散々しただろ。と内心で呟いた。しかし捨てられた子犬の様に己を見つめている吏津を見ているとどうにも放って置けなくて唇に触れるだけのキスを落とすと、吏津は瞠目したあとにっこりと笑った。
「俺が……幸せにするよ」
耳元で囁く何度か耳にした言葉に、小さく頷く。
未来は、どう変わって行くか分からないけれど、今この選択をした事を後悔したく無い。
もし別れの日が来るとしても、吏津を手に入れたこの瞬間は紛れも無く真実だ。それはほんの一時かもしれないが、確かに手にした幸せ。
同じ喪失なら、何も掴まずに失くしてしまうより手に入れてから失くす方がマシなのかもしれない。
失くした時は多分苦しむだろうけど、その幸せを知らずに失うのは、きっと今より辛いはずだから。
幸せに出来るかどうかはやはり不安だけれど、幸せにすると約束してくれるこの子のためにも、自分もそう在りたい。
そう思いながら蓮は、吏津の身体を抱き締める。
「蓮さん……永遠はね、きっとあるよ?」
抱き締め返しながら、吏津が小さく呟いた言葉に身体が震えた。
愛しいと、思った。
自分よりも年若いこの子供の、真っ直ぐで強かな心に向き合える強さが欲しい。
「あるなら、見せてくれ」
「うん。俺が見せてあげる」
小さく鼻を啜った蓮の背中を吏津が優しく撫てる。
泣いていても尚、この人の声は唄う様に澄んでいる。
吏津は暖かな身体を強く強く抱き締めた。
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