第12話

「畑中先生」

 あれから一度も声をかけてこなかった橘に呼び止められて、蓮はびくりと身体を強張らせた。

「何……ですか?」

 怖々と振り返ると射抜くような視線とぶつかる。

「お話したい事があります。お時間を頂けないでしょうか?」

 橘の言葉に、やはり……と思いながら逡巡した。

 話す事が、いや、話せる事が自分にあるだろうか?

「橘先生、もう放って置いて下……」

「本当にそれで良いんですか?」

 言葉を遮られて、蓮が少しだけ不機嫌そうに眉を寄せる。それに気付きながらも橘は構わず続けた。

「貴方は良いかもしれない。けれど、彼はどうなりますか?」

 これ以上は人目の付く廊下で話すべきではない、とでも言うように橘がちらちらと蓮を窺う。

「分かりました。空き時間にそちらに窺います」

 仕方ないとでも言いた気に折れた蓮に橘がほっと息を吐くと、続けて蓮は橘よりも深く息を吐き出した。





「先生、今日も……」

 ベッド借りて良い?

 そう尋ねようとしたが、橘の困った様な顔に吏津はベッドへと視線を移した。

 そしてすぐにその表情の理由を知る。

 いつもは閑散としているのに、今日は何故か4つあるベッドのカーテンが全て引かれている。

「あ……先客あり、なんですね」

 ちょっと意外そうに……それでも仕方ないか、と保健室から出て行こうと歩き出した途端、橘が吏津の名を呼ぶ。

「柊君、待って下さい」

 不思議そうに振り返った吏津に橘は衝立の奥を示した。

「奥に私が仮眠の時に使う折り畳みのベッドがあります。良かったらそれを使って下さい」

「え? でも……俺は具合が悪い訳じゃないし……」

 戸惑う吏津に橘は困った様に笑う。

「安物ベッドではイヤ……ですか?」

「え……いえ、そんな事は……無いです」

 吏津が慌てて否定すると、「それなら良かった」とほとんど無理矢理その身体を奥へと押しやった。

 なす術もなく追いやられて、吏津は仕方なく折り畳みベッドに腰を下ろす。

 簡単な構えのそれと、保健室のベッドを比べる事自体間違っているが、それでも予想していたよりはしっかりしていて、これなら眠れそうだな。とぼんやり思った。

 そのまま何をするでもなくベッドに腰掛けていた吏津に、橘がカフェオレを差し出す。

 お礼を言いながらカップを受け取ると、養護教諭はすぐに衝立の向こうへ戻って行ってしまった。その後ろ姿を見ながら、カップを口元に運ぶ。

 最近ではほぼ毎回というほど橘がカフェオレを淹れてくれるので、今では深く考えずに受け取っていた。

 黄褐色の液体を一口流し込み、カップを置こうとしたところで吏津は手を止める。いつものベッドと違い、近くに物を置けそうな場所が無い。少しだけ悩んで再び口元に運んだのとほぼ同時に、橘が戻って来た。

 その手にはタオルケットと小さな台座がある。

 橘はタオルケットを吏津に渡し、台座をベッドの横に置いた。

「ごめんね、此所には物を置ける場所がないから、良かったらこれを使って」

 至れり尽くせりだな、と微かに笑い、吏津は会釈と共に礼を述べた。

 吏津に微笑みを返すと、橘はやはりすぐに衝立の向こうに消える。

 先生、忙しいんだ。悪かったかな。

 そんな風に思いながら、吏津は残りを一気に飲み干し、台座の上にカップを置いた。

 そして、折角用意してくれたのだからとベッドに横になってタオルケットを被る。

 古典の授業で緊張していた身体には、多少なりとも負荷がかかっていたらしく、本格的に寝入るつもりはなかったはずの吏津の意識はうつらうつらとまどろんでいった。






 組んだ手に顎を乗せ、蓮はじっと机を眺める。

 つい先程まで、吏津のクラスで授業をしていた。

 やはり吏津はいつもと変わらない覇気の無い瞳で微笑んだ。

 このままで良いなんて到底思いはしない。けれど、どうしろと言うのだろう? 受け入れてやるなど、何度考えてみても無理なのだ。

 本当は控え室に籠もっていたいのだが、今日の授業が入っていないのはこの時間しかなくて、約束した以上これから保健室に向かわなければならない。

 けれど、どうにも足が重い。

 蓮は、組んでいた手で顔を覆うと数回頭を振った。

 それから深く息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。

 そして、仕方ないというように歩き始めた。



 静かに、ドアが叩かれる。

 先程ちらりと覗いた衝立の後ろでは、吏津が眉間に皺を寄せて少し苦し気な表情で眠っていた。

 4台あるベッドは全て空で、今はカーテンも開かれている。

 この学校は、ある程度のレベルを備えた進学校なためか、保健室に来る生徒は比較的少ない。そんな環境で、4つのベッドが全て埋まるなどほぼ有り得ないのだが、今日はどうしてもそれを埋めなければならない理由があった。

――例えそれが見せかけだけでも……。

 故に橘は一芝居打った。これから来る客に吏津の存在を知られたくなかった。

 そして、出来れば吏津にも聞いてもらいたかった……。

 吏津がこの時間に保健室に来るかは賭けだったが、古典の授業の後には高確率で訪れていたので、来る可能性は高かった。

 合図があってからしばらく経つが、誰も入って来ない。いつもは自らドアを開けて中に入る蓮が今日はそうしなかった。

 あくまで仕方なく来たという意思の主張だろうか? そう考えながら、橘はドアを開けた。

 出迎えた橘に、蓮が僅かに会釈する。

「どうぞ、中へ」

 促されてのそのそと足を踏み入れる蓮を見ながら、橘は普段は例え留守にする時でも大抵放置したままの札を不在に変え、鍵を掛けた。

 その様子に蓮が怪訝そうに眉を寄せる。

「俺には……貴方とお話するような事はありませんよ、橘先生」

 一通り室内を見渡しいつもと変わらない事を確認した後、蓮は静かに口を開いた。

 自分より少しだけ目線の高い相手を見つめて、橘がそっと息を吐く。

「コーヒーでも淹れますね」

「要りません」

 コーヒーメーカーへと歩き出そうとした背中に、蓮がキツい口調で言い放つ。

 長居をするつもりなど無いとでも言いた気なその態度に、橘は小さく笑った。

「それではせめて座って下さい」

 ソファを勧める掌をしばらく睨んでから、蓮がどかっと勢い良く腰掛けると、その向かいに橘も静かに腰を下ろした。

「畑中先生」

 呼び掛けると、蓮は眼だけで続きを問うた。

「あの子を、このまま放って置くつもりですか?」

 その言葉にそっと地面に視線を落とす。

「俺に……何が出来ると言うんですか?」

「貴方にしか出来ないでしょう?」

 橘を見据えて、蓮は下唇を噛んだ。

「俺には……あの子の気持ちを受け入れるつもりはありません」

「……突き放して……終わりですか?」

 はっと息を呑んだ蓮を橘は見つめる。

 その瞳はいつもの優しさを称えたものでは無く、悲しげで、どこか蓮を責めている様に感じた。

「……だけど、柊の気持ちを受け入れるなんて……俺には……出来ない」

 震える声で橘を窺う様に告げると、橘が頷く。

「ええ……。畑中先生が柊君をきっぱり切り捨てて……未練なんか全く無いと言うなら私は何も言えません。でも貴方は中途半端だ」

「え……?」

 僅かに揺らいだ瞳を橘は真っ直ぐに見据えた。

「何とも想って無いのなら切り捨てるのは当たり前です。けれど貴方は完全に柊君を切り捨てられずにいる。違いますか?」

「そんな事は……」

 キッと睨まれて、蓮は口を噤む。

「それなら、何故普通に接してやらないのですか? 貴方が悲しい眼をする度に、視線を逸らせる度に柊君がどれほど傷付くか、考えた事がありますか? それでも尚、笑顔を向ける彼の気持ちを考えた事がありますか?」

 橘は一度目を伏せて、ぎゅっと拳を握る。吏津の気持ちを代弁している様で実は己の過去を悔いているだけの卑怯な自分になんだか涙が出そうになる。

「彼は……貴方に……迷惑を掛けたくないから笑うのだと、言っていました」

 ひたすら真っ直ぐな……そのひたむきさに憧れるけれど、同時に馬鹿だなとも思う。どうしてもっと巧く生きられないのかと。彼はもっと我侭になっても良い筈なのに……。

 だけど、だからこそ愛しい。自分の失くしてしまったものを持っている彼の幸せを純粋に願う。

「貴方が逃げたら……彼は永遠に捉われたままだ」

「なら……どうしろって言うんですか?」

 不意に蓮が低く呟く。

「俺はちゃんと言いました。応えてやれないって伝えました。これ以上は俺にはどうする事も出来ない」

 泣きそうに息を吐いて、じっと床を見つめる蓮に、橘は先程とは打って変わり優しく話し掛けた。

「なら……貴方の気持ちは何処にありますか?」

 急に変わった声音とその言葉に、蓮が顔を上げる。

「俺の……気持ち?」

 不思議そうに見上げた瞳に、橘がゆっくりと頷いた。

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