第13話

 話し声が聞こえて、吏津は薄く眼を開けた。

 どのくらいの時間が経ったのだろう?

 上体を起こして大きく伸びをし、教室に戻ろうと立ち上がりかけた――その刹那。

 耳に届いた声に、金縛りにでもあったかのように、その場から動けなくなった。

「俺の……気持ち?」

 己がこの声の主を間違うはずが無い。

 ――蓮……さん。

 どうして?

 何で、此所に居るの?

 タオルケットに添えていた指が小刻みに震えた。





「何を……言ってるんですか? 俺の答えは変わりません。柊の気持ちを受け入れる事など……出来ない」

「では教えて下さい。貴方の心は何処に在るのですか? 少しも柊君に傾いていないと断言出来ますか?」

 震える唇を噛んで、蓮は橘を睨め付ける。

「橘先生こそ、どうされたいのですか? 俺と柊がくっつけば満足なんですか?」

 そこで一度言葉を切って、蓮は深く息を吐いた。

「貴方は、俺達に苦難の道を自ら選んで歩めと、そうおっしゃるのですか? 俺は……貴方の贖罪に巻き込まれるなんて真っ平だ」

 眼を見開いて蓮を見つめたあと、橘は溢れそうになる涙をギリギリで堪える。知らずに握った拳に力が入った。

「なら、畑中先生は決して後悔しないと言い切れるのですか? あんな状態の柊君を見て、何も感じないのですか?」

 しばらく沈黙が流れる。蓮は睨むように己を見つめる橘からつと視線を逸らせた。

「感じるも感じないも……関係ないでしょう? 受け入れて、例え今は巧くいったとしても、いずれ壊れてしまう関係なら俺はイラナイ。俺では柊を幸せになどしてやれない。そんなもの……背負えない」

 そのまま自分には無理だとでも言う様に、緩く首を横に振る。

「橘先生は、受け入れられなかった御自身に後悔していらっしゃいますよね? だけど俺は……受け入れた方が今よりもっと後悔する。いつか離れてしまう時、何より後悔するんだ」

 何故、壊れてしまう事しか考えられないのですか?

 そう橘が尋ねようとした時、ガタっと音がし、それとほぼ同時にガチャンとガラスの派手な音が響いた。

 反射的に音のした方向へと顔を向けた二人の眼に衝立に寄り添う様に立つ吏津が映る。

 刹那、その存在を知らなかった蓮の瞳が大きく見開かれた。

 その様を見つめながら、吏津がゆっくり歩み寄る。

 一歩一歩、蓮の側へと。

「蓮さん……」

 吏津の指が腕に触れると蓮はびくりと身体を引いた。そのため吏津の瞳が僅かに伏せられる。

「蓮さんは、俺が嫌い? だから笑ってくれないの?」

 そうするのが嫌なくらい、嫌いだから。

「ひい……らぎ?」

「ごめん、なさい」

 謝罪と共に完全に俯いた顔に、蓮の手が伸びる。しかし触れる手前でそれは引き戻された。

 その様子を見ながら橘がそっと息を吐く。

 もう何度目になるだろう?

 吏津が謝罪の言葉を口にしたのは。

「何で、謝る?」

 ちらりと蓮を見つめて、吏津はまたすぐに俯く。

「ごめんなさい。俺はまだ……貴方が好きです。だけど……いつか、いつか普通に……」

 そこまで言うと吏津は眼を閉じて、唇を噛んだ。

「お願いだから、笑って。貴方が笑ってくれなかったら、俺は自分を許せない」

 貴方から笑顔を奪ってしまった自分を許せない。

 そうして吏津は、蓮を見つめて無理矢理に笑んで見せた。

「ね、笑って?」

 ともすれば、吏津の方が泣いてしまいそうな顔で。

「ひい、らぎ」

 笑うな。そんな瞳で笑うな。

 吏津から眼を逸らせられずに、蓮がぎゅっと拳を握った。

「俺は……お前を幸せになんてしてやれない。俺を選んでも、いずれ後悔するのは柊なんだ」

 どうか分かってくれ。

 そう祈りを込めながら諭す様に話し掛ける瞳に、吏津は緩く左右に首を振る。

「どうして?」

「え?」

 問い返されて蓮が首を傾げた。

「俺は……貴方に幸せにしてもらいたいなんて思わない」

 見開かれた瞳に吏津は困った様に笑う。

「俺が蓮さんを幸せにするよ?」

 なんて陳腐な台詞だろうと思いながらも、それは紛れもなく吏津の本心だった。

「何を……言ってるんだ。年上をからかうな」

「ねぇ蓮さん……。蓮さんは俺を幸せに出来ないのが恐い?」

 唐突な質問に戸惑いながら吏津の顔を見やると、到底高校生とは思えない表情の青年がそこには居た。

「さっき言ってたよね?」

「あ、あぁ」

 頷いて見せると、吏津の手が蓮の頬を撫でる。

「なら、ソレは違う。俺は……蓮さんと一緒に居られるだけで幸せになれるんだ。貴方が隣りに居て話し掛けてくれるだけで、俺は幸せなんだ」

「…………何を……言って……?」

 たっぷり間を置いて訊き返した瞳に吏津は小さく笑った。

「貴方にしか、出来ないんだよ? 他の誰でも無い、貴方にしか」

 あまりに真っ直ぐに見つめるから、吏津の瞳に惹き込まれてしまいそうな錯覚に陥る。その呪縛から逃れようと蓮は払う様に小さく首を振った。

「だ、けど……いつか、いつか俺なんか選ばなければ良かったと思う日が来るかもしれない。今は良くても、いつかそんな日が来たら……柊はそれを後悔するだろ?」

 そうなった時、自分には責任が取れない。

 それが、恐い。

 俯むいて震える肩に吏津が両手を添える。

 驚いて顔を上げると、額に口付けられた。

「後悔なんてしない。好きな人と付き合えて、例えば蓮さんが心配してる様にいつか別れる日が来たとしても、一緒に過ごした時間に後悔したりしない」

「何で……言い切れるんだよっ。そんなの分から……」

「分かるよっ」

 半ば怒鳴る様に遮られて、蓮は驚きに言葉を呑んだ。

「俺は……貴方が好きだから、貴方と過ごせる時間に後悔なんかしたりしない。分かってよ、俺がどれほど貴方を好きなのか……せめてそれだけでも分かって」

 真っ直ぐに見つめる瞳は、微かに濡れていて、蓮はその視線から逃れられなかった。

 そしてふと気付く。

 今眼にしているのが、生きている人間の瞳だと。

 久しぶりに見る、本来の吏津の瞳だと。

 生気の宿った、何よりも望んだ視線。

 思わず腕を伸ばし栗色の髪を梳くと、驚きに見開かれた瞳がふんわりと笑った。

 その笑みに笑い返してしまいそうになった時、吏津の顔がさらに近付いて来て……。

 ちょんと触れるだけのキスが落とされた。



「柊っ」

 すぐに離れようとした身体を吏津が抱き締める。

「もう少し……このままで居て」

 掠れた声に、震える身体に……蓮が抵抗するのをやめた。

 そんな蓮の身体をさらにぎゅっと抱き寄せて、吏津が耳元に唇を近付ける。微かに息がかかり、蓮が身を竦ませた。

「俺が……絶対幸せにするよ? だから、だから俺を選んで」

 鼓膜に直接吹き込まれるような擦れた声に、蓮はびくりと身体を震わせながら、それでも首を横に振る。

「絶対なんて有り得ない。柊、想いに不変は有り得ないんだ」

 もう、離してくれ。

 そう続けた蓮を解放する事が出来なくて、吏津は蓮の背中に回した手でぎゅっとその服を掴んだ。

「俺の気持ち……どうやったら分かってくれるの?」

「分かってるよ」

 宥める様に背中を撫でた蓮を吏津が軽く押しやる。

「分かって……無い。蓮さん、何にも分かって無い」

「柊が何と言おうとも、俺は……お前とは付き合えない」

 蓮の言葉に吏津が眼を瞠った。しかしすぐに眉を顰めじっと見つめる。

「俺の気持ちが変わるかもしれないから? だから付き合えない?」

「あぁ」

 吏津は頷いた蓮の襟元を若干乱暴に掴み、引き寄せた。唇が触れそうな程近付いた吏津の顔に蓮が息を詰める。

「そんな事ばかり考えて、全てを拒絶して、諦めて……そうやって貴方はこれからも生きていくの?」

「柊、ちょっと離……」

「絶対に気持ちが変わらないなんて確かに誓えない。蓮さんの言う通り変わらない気持ちなんて無いのかもしれない。でもどうしてこうは考えないの?」

 そこまで一気にしゃべったところで、吏津は深く息を吸う。

「俺がもっと貴方を好きになるかもしれない。そんな気持ちの変化もあるんだって……どうして考えないの?」

「……え?」

 ぽかんと口を開けて蓮が吏津を見つめた。

「始まる前から全てを諦めてしまわないで。恋愛は一人じゃ出来ないんだ。だから俺は……それを蓮さんと育みたい」

「だけど……」

 尚も首を振って否定する蓮に吏津が低く呟く。

「嫌なら……俺の全部を拒絶してみせて」

 驚いたように見返した瞳に、吏津が悲しげに笑った。

「ねぇ蓮さん。俺を拒絶して嫌いだって言えば、全部終わるよ? 簡単でしょ?」

「そんな事は……」

「しないなら、もう一回キスするよ」

 実際に拒絶出来る間があったのかは蓮には分からない。

 けれど、もしそんな時間があったとしても、そのキスを拒めなかったかもしれない。

 気付いた時には、吏津の唇が蓮のそれに触れていた。

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