第11話
見つめた先にあるのはいつもと変わらない笑顔。
あまりに見慣れてしまい、これが彼の本当の笑顔なのだと脳が新たに記憶してしまいそうだ。
泣きたい様な……否、むしろ己の愚かさを笑ってしまいそうな……そんな感情に蓮は小さく息を吐く。
……あれから、どのくらい経っただろう?
あの日以来、この件で橘が話しかけて来る事はなくなった。それでも時折何か言いたそうに見つめている事にも気付いている。
蓮自身、吏津が以前見せてくれていた笑顔を再び見たいと思っている。
作られたそれを見る度に胸が苦しくなる。
けれどこんな顔をさせているのは自分で……そう思う事自体許されないのだろう。
一体どこから間違ったのか?
もっと早く……吏津が初めて好きだと伝えてくれた時に、ちゃんと突き放しておくべきだった。
深く……関わりすぎた。
不意に思い出すのは橘の言葉。
『柊君はまだ手の届く場所に居るのですから』
この言葉に時折決意が揺らぎそうになる。けれどあの手を取ったとしても、どうせいつかは離れてしまうのなら……初めから触れない方が良い。
蓮は、自分の弱さが吏津だけでなく橘をも傷付けているのかもしれないと感じながらも、吏津の手を取る選択は出来ないでいた。
あの手を取るのが恐かった。
未来は誰にも分からない。だからこそ……怖い。
なるべく吏津の顔を見ない様にと、手に持っている教科書を食い入る様に見つめる。
もう長い間吏津とは話をしていない。
あと、どのくらいこの状態が続くのだろう?
視線が重なるのはほんの一瞬。そして……いつもすぐに逸らされる。
その事実に胸を痛めながらも、吏津はそれを顔に出さない様に無理矢理に笑んだ。
……そうしていれば、いつかは本当に笑える日が来る様な気がした。
今は辛いけれど、きっと永遠には続かない。
もう少し先の未来で、蓮に普通に笑いかける事が出来たなら……そしたら蓮も前の様に笑い返してくれる。
最近の蓮は……眼が合ってもすぐに逸らせるか、悲しそうな顔をするばかりだけど、きっといつの日か笑い返してくれる。
言い聞かせる様に、何度も繰り返す。
そうしなければ、この笑顔が崩れてしまいそうだった。
縋ってでも、好きになって欲しいと願ってしまいそうになる。
でもそれは蓮を困らせるだけ。だからそんな想いを抱いてはならない。
吏津はゆっくりと瞼を閉じて蓮の声に耳を澄ませる。
今でさえ、耳に届く声は優しい。
大好きな、大好きな声。
……大好きな……人。
――どうして俺は貴方じゃなきゃダメで、貴方は俺じゃダメなのだろう。
いつになったら、この想いは消えてくれる?
ぎゅっと拳に力を込める。
あと少しで授業が終わるから……だからせめて、それまでは笑っていよう。
せめて……貴方の瞳に俺が映っている間は……笑っていよう――
「先生……」
橘が顔を上げると、入口で所在無さ気に立ち尽くしている吏津と眼が合った。
「どうか、しましたか?」
危うげな雰囲気すらあって、心配になりながら尋ねると、吏津がちらりとベッドを見る。
「ベッド……借りて良いですか?」
不安そうに首を傾げる吏津に、橘はほぼ吏津の特等席と化した左端のベッドへと吏津を促した。
古典の授業全てを受けていなかった時ほどでは無いが、吏津の保健室通いがまた増えている。
そして来るのは決まって古典の授業のあと。
それだけ吏津が気を張って蓮の授業を受けているのかと思うと、橘は堪らなく切ない気持ちになった。
吏津は頑張り過ぎている。
けれど頑くなな意思は、橘の言葉では揺るがない。
無理して笑う必要など無いのだと……蓮の授業に出なくても良いのだと……、何回か伝えたが、その度に吏津は笑いながら首を左右に振った。覇気の無い瞳はそのままに……。
橘の想い人である彼の生徒は、強引で、吏津の様な弱い一面は見た事が無かった。だが、もしかしたら自分の知らないところでこんな風に無理をして過ごしていたのだろうか?
ふと浮かんだ考えに、橘は唇を噛んだ。
こんな時ですら自分の事ばかりで本当に呆れる。
願いを履き違えてはならない。
いくら重ねても、二人は自分達とは違う。
考え方も、感情も……そしておそらく運命でさえ……。
未来を選ぶのは蓮と吏津だ。
それでも想う事はやめられない。
幸せになって欲しい……。
それは、ある種の希望でもある気がする。
もし二人が旨く行ったなら……もう一度やり直せる様な気がした。
全く根拠の無い希望的観測でしか無いのだけれど。
例えあの日に還れなくても……どこかで再び交われたなら……。
今度こそ、本当の気持ちを伝えられるのに……。
「橘せんせ?」
はっと意識を目の前に戻すと、吏津が不思議そうに首を傾げている。じっと吏津を見つめたまま動かなかったため、吏津もどうしたら良いのか分からなかったのだろう。困ったように笑っている。
「……お休みなさい」
それだけ伝えてベッドから離れようとした橘に、吏津が小さく呟いた。
「ごめんなさい」
「え?」
「……ごめん、なさい」
驚いて振り返った橘に吏津は同じ言葉を繰り返す。
「どうして……謝るのですか? 貴方は私に謝らなければならない事などしていないでしょう?」
吏津が左右に首を振った。
「だって……俺、ここに逃げ込んで……先生に迷惑かけてる。分かってるんだ、諦めなきゃいけない。分かってるんだけど……」
俯いた吏津の頭に軽く手を乗せると、橘はその髪を数回撫でた。
「私は、そのために居るのですから、迷惑だって何だって掛けていいんです」
……それに自分の想いはそんな綺麗なものじゃなくて、とても自分勝手なもの。
それでもその理由をこの子供に伝える事は……やはり出来なくて。
ただ見守る事が今の精一杯で……。
「ありがと、先生」
そう言うと、吏津は布団を被って寝転んだ。それを見て、橘がベッドを離れる。
閉めきられたカーテンを見つめて、橘は一人小さく息を吐いた。
勘違いでないなら、蓮の想いは吏津に傾いている。
それでも彼が頑なに拒む理由が分からない。
教師と生徒だから?
ふと浮かんだ考えに橘は自嘲する。
それが何だというのだろう。今の橘には、そう思えてならない。
そんな間柄は長くてもせいぜい3年。二人の場合なら、2年すらない。
たかだかそんな年月が、諦めなきゃならない理由だとでも言うのか?
それとも男同士だから?
それなら初めから気持ちが吏津に傾くはずなどない。
「失ってからでは……遅いんですよ?」
それに……蓮はすでにひとつ失った。
吏津の本当の笑顔は……今はもう見れない。
けれど、取り戻そうと思えば取り戻せる。
それは橘にとって羨ましくて堪らない。
もう一度あの笑顔を取り戻せるなら、自分ならどんな事だってやるのに……。
「……み……や」
思わず呟いてしまった名に、目頭が熱くなって橘は唇を噛んだ。
二人と出会って、よくよく昔を思い出すようになってしまった。
数回頭を振って、深く深く息を吐く。
お節介だ。
けれど、二人の為にしてやれる事があるなら、それがただの自己満足だとしても……やはりやれるだけはやってみたい。
橘はそっと、両の掌を見つめた。
失っていく体温を、コワいと思った。手を染める紅は今でも鮮明で……本当に失くしてしまったのは自分か、彼か?
あの日を思い起こさせる掌を、ぎゅっと握る。
(掴み直せるなら……私は……)
それは、今以上に吏津を傷付けるかもしれない。
それでも……それでも。
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