第10話

「失礼します」

 数回ドアを叩く音が聞こえ、橘が入口を見るのとほぼ同時に蓮が中へと入って来た。

「お待ちしてました。こちらへどうぞ」

 橘に勧められるままソファに腰を下ろすと、前もって準備していたのか、湯気の立つコーヒーがカップに注がれテーブルに置かれる。

 礼を述べてカップを手に取った蓮の向かいに、橘が座った。

 それを視界の端に捉えながら、蓮は保健室のベッドを確認する。4つのベッドは全て空で、今から話す内容を考えると、都合が良いのかもなとぼんやり思った。それから手元のコーヒーを一口流し込む。

 コンッと音を立てながら手にしていたカップをテーブルに置いたところで、向かいの橘が口を開いた。

「まず確認なのですが……」

 その声に、蓮が橘へと視線を戻す。

「柊君は最近、畑中先生の授業に参加してますか?」

 唐突な質問に蓮は僅かに眉を寄せたが、特に何を言い返すでもなく質問に答えた。

「はい……ここ最近はちゃんと参加しています」

 眼が合わないとか、瞳に覇気が無いとか……気になる事は沢山あるけれど、吏津はちゃんと授業に出ている。

「では次に、畑中先生は柊君が嫌いですか?」

 蓮が驚きに眼を見開いたまま橘を見つめた。

 それからつと視線を逸らす。

「教え子を嫌いだなんて思う訳ないじゃないですか?」

「畑中先生」

 逸らせていた瞳を合わせると、橘が射抜く様に見ていた。

「では……好きですか?」

 瞬間、小さく息を呑む。

 直球過ぎる質問だった。

 これに答えるのは難しい。

 吏津を……好きだと思う。けれどその意味は蓮自身あやふやだ。

 そして何より、受け入れてはいけないもの。

「生徒としては……好きですよ」

 どうにか搾り出した声に、橘は悲しそうに眼を伏せた。

「それが……どうかしたんですか?」

 何故自分が質問責めにあっているのか分からずに、蓮は少し荒く問い掛けた。しかし橘はそれには答えず、ただ「昔話になりますが……少しお付き合い下さい」と告げる。

 全く脈略の無い展開を訝しむ蓮に、橘は小さく笑い掛けた。

 傷跡を抉る行為でしかないと橘自身分かっている。それでも同じ傷を増やしたくは無いから……まだ間に合うのなら、せめて二人には幸せになって欲しいと思った。例えそれが自己中心的な贖罪なのだとしても……。

「昔……といっても三年前くらいですが、私の事を好きだと言ってくれた男子生徒が居ました」

「え?」

 思わず声を上げた蓮を橘はただ見つめ返す。

「私は彼を……彼の想いを受け入れてあげる事が出来なかった」

「……そりゃそうでしょう」

 ぽつりと呟いた蓮に橘が首を傾げる。

「何故ですか?」

「何故って……そんなの決まってます。同性同士の恋愛に未来なんて無いし……教師と生徒だ。無理に決まってる」

「……どうして?」

 淡々とした橘の問い掛けに、蓮はふつふつと感じ始めていた苛立ちを押さえられなくなった。

「どうしてって、橘先生もそう思われたから、受け入れてやらなかったのでしょう? 俺と同じじゃないですか!!」

 怒鳴った蓮に橘は微かに笑う。それはどこか自嘲する様に……。

「えぇ同じです。未来なんてない。幸せになどなれない。だから、受け入れられない、そう思いました。何より私は……若い彼らと同じように理想を信じられるほど純粋ではありませんでした」

「それならっ」

「でもね畑中先生」

 それなら、俺の気持ちは分かるでしょ? そう続けようとした蓮を橘が遮る。

「どうしたって、気持ちに蓋なんて出来ないのです」

 蓋という言葉に一瞬蓮の身体が強張る。

「蓋……なんて……」

 自分はしていない。

 始めから、そんなものを必要とする気持ちなど持ち合わせてはいない。

 そうでなければならない。

「常識だけに捉われないで下さい。心をそれで縛らないで下さい」

「そんな事言ったって……付き合って旨くいかなかったら……どうするんですか?」

 怒っていると言うより、泣きそうな顔の蓮に橘は優しく笑う。

「誰にも、未来なんて分からないんです。それなら、最初から諦めてしまうより、やれるだけの事はした方がすっきりしますよ?」

 微かに蓮の唇が戦慄いた。

「貴方に……何が分かると言うんですか?」

 結局、生徒を切り捨てた貴方に言われたくは無い。

 そう瞳が語っている様な気がして橘は反射的に息を呑んだ。

 そのまま蓮に全てをぶつけてしまいたい衝動に刈られたが、どうにか気持ちを落ち着ける。

 ぎゅっと拳を握って蓮を見つめた。

「畑中先生。……私の愛した彼は……もう居ないんです」

「……え?」

 困惑と驚きを隠せない蓮の瞳を見返したあと、橘は震える瞼を手の平で覆う。

「どんなに悔やんだってもう遅い。私は間に合わなかった。……でも貴方は違う。まだ……間に合う。柊君は、貴方の手の届く場所に居るじゃないですか?」

 悔やんでも戻らない過去。

 気持ちを受け入れようと決意した時には遅かった。

 愛した彼は居ないのに、行き場を失った気持ちはどこにも辿り着けずに胸の中でぐるぐると回り続けている。

 諦めようにも、目の前にある現実がそうさせてくれない。

 苦しいばかりの恋だけど……どうしても諦められない。

 だからこそ、そんな想いを、もう他の誰にも味あわせたくない。

 自分の場合が特殊なのは分かっている。けれど、誰にも未来は分からない。

 二人が、同じ道を辿らないとは言い切れない。

 吏津に……愛した生徒を重ねた。だからこそ、吏津の想いが叶う様に……今はただひたすらに願う。

「俺は……それでも……」

 受け入れられない……そう続いた言葉に、橘は悲しそうに眼を閉じた。

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