第9話


 また吏津の居ない授業が続くのかと思いながらドアを開け……視界に入った予想外の光景に、蓮はその場に立ち尽くした。

 空席だろうと思っていた場所に、吏津が座っている。

 入口に佇む蓮に気付くと、吏津は小さく笑ってすぐに眼を逸らせた。

 蓮自身、眼を逸らされるのは仕方が無いと思っていた。

 けれど、今のは……?

 蓮が惚けている間に授業開始の挨拶が済み、生徒は出入口から動こうとしない教師を不思議そうに見ている。

 その視線に気付き、どうにか教壇に移動して震える指で出席簿を捲った。

 出席番号の若い順に名前を読み上げ、出欠を記していると、いよいよ吏津の番になる。

 「柊」と名を呼ぶと、吏津はやはり小さく笑んで「はい」と答えた。

 その瞬間、鳥肌が立った。それは蓮の身体全体を覆う。

 次の生徒の名を呼ぼうとしたはずの喉からは声が出なかった。

 息だけがひゅっと抜ける。

 吏津はただ笑っただけ。

 柊吏津という人間を知らないままだったなら気付かなかっただろう。

 でも蓮は知っている。

 吏津の本当の笑顔も、困った様な笑みも……泣き出しそうな顔ですら。

 けれども、コレは違う。そのどれでもない。

 口元は笑っているのに、その瞳は虚ろに開かれているだけ。

 蓮はゆっくりと瞼を閉じた。

 これが、己が出した答えなのか?

 望んだのは決してこんな結末では無かったはずだ。

 涙が込み上げそうになり強く唇を噛む。

 どうして、こんな道しか選べなかったんだろう?

 吏津を見るのが恐い。

 想いに答えられなくて辛かったあの時とは比べられない程、心が苦しい。

 こんな結果を招いたのは自分。

 己の弱さがもたらした結末。

 蓮は冷たくなった指先を数回擦り合わせて、ぎゅっと握り締めた。

 今……顔を上げたなら……彼はまたあの瞳で笑うのだろうか?

 体温を失っていく指先が、小刻みに震える。



 この時間の蓮の記憶は酷く曖昧で、蓮自身どうやって過ごしたのか良く覚えていなかった。



 寝転んだまま、吏津はぼんやりと真っ白な天井を眺めていた。

 養護教諭の橘が、微動だにしない吏津にマグカップを差し出す。

「飲みませんか?」

 自分と天井の間に、突如カップが割り込んで、吏津はゆっくりと上体を起こしながら橘からそれを受け取った。

 小さく礼を述べて、黄褐色の液体を一口流し込む。ほろ苦い味が、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。

 一息ついて、吏津は向かいのベッドに腰掛けた橘を見やる。

「俺……ちゃんと笑えたかな?」

 蓮と対峙した時の吏津の顔を知らない橘には返答しようのない質問だった。

 けれども、今の吏津の表情を見る限り、それは難しいのではないかと思う。

「無理して笑わなくても良いのでは無いですか?」

 橘の言葉に吏津は不思議そうに頭を傾けた。

「ダメだよ」

「どうしてですか?」

「だって……俺が落ち込んだら、また先生に迷惑を掛ける」

 微かに笑った顔に、橘は言葉を失う。

 真っ直ぐで、ひたすらに純粋であるが故に気付かないのだろうか?

 こんな瞳を見る方が何倍も辛い。

 第三者の橘ですらそうなのだから、当事者である蓮は尚更だろう。

 橘は吏津に気付かれない様、そっと息を吐いた。

 蓮と吏津を見ていると昔を思い出す。

 まだそれほど年月は経っていないけれど、もうかなり昔の出来事の様な気さえしてくる。

 吏津に、一人の生徒を重ねてしまった。

 同じ結末は二度と見たくない。

 けれども、この子供に、頑張れなどとはもう言えない。

 ……それでも諦めて欲しくない。

 矛盾ばかりだ。

 せめて二人には幸せになって欲しいと思った。

 その願いの難しさに橘は自嘲する。

 身勝手な願い。

 だけど二人が幸せになれたなら、赦される気がした。

 例えそれが一時の気休めでしかないのだとしても……。

 戻らない過去を幾度も悔いた。

 しかし、悔いても悔いても所詮戻れはしない。

 それなら、導きたかった。

 あの時の自分達と同じ結末にはならない様に……彼らがこの先笑っていられるように……。

 まだ……望みは捨てられない。

 おそらく、自分自身ですら。





「畑中先生」

 朝礼の後、職員室から出て行こうとしたところで名を呼ばれて振り返ると、真正面に神妙な面持ちで立っている橘を認めて、蓮は僅かに眉を寄せる。

「何でしょうか?」

 尋ねると、

「今日、何時でもかまわないので、少しお話出来ませんか?」

と訊かれた。

 すぐに何の話か想像がついて、蓮が小さく頷く。

「では2限目に窺います」

 それに対して、橘は浅く頭を下げてから保健室へと向けて歩き出した。



 橘自身、これが全くのお節介だと分かっている。

 否、正確には身勝手なだけなのだろう。

 他人の目にはお節介にしか映らないかもしれないけれど、実際には呆れるほど身勝手な願い。

 橘は静かに眼を閉じた。

 今でも鮮明に覚えている……自分に向けられた微笑み。

 あの頃感じていた気持ちは、多分愛とか恋とか……そんな想いとは少し違っていた気がする。

 でも……大切だった。

 『好き』だと何度も繰り返し囁いてくれた彼に、同じ言葉を返す事は一度もしてやらなかった。

 若さ故の、一時的な気の迷いだと思っていた。

 それどころか、正してやるのが大人の務めだとさえ。

 彼を失って初めて気付いた想いの深さ。

 戻れない過去に何度も焦がれた。

 届かない想いを何度も呟いた。

 悔やんで、悔やんで……それでも何かが変わるはずは無く……。

 見つめる先に、求めた彼だけが居ない……。

 諦めた方が楽なのだろう。

 それでも簡単には諦められない。

 人間は愚かだ。

 どこまでも、どこまでも愚かだ。

 失ってからしか本当に大切なものに気付けなかった。

 己が何よりも愚かだ……。

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