第8話


 気付いたら保健室のドアの前に立っていた。

 吏津は教室へ戻らなければと振り返って歩き始めたが、走っていた時にチャイムが鳴っていた事を思い出し立ち止まる。

 今から戻っても遅刻だ。

 少し悩んで、それならいっそサボってしまおうと思い直し、保健室のドアを開けた。

 本当は……静かな場所に居たかったのかもしれない。

「橘先生?」

 中に入って養護教諭を探したがその姿はなく、いつも使っている入口から向かって左端のベッドに無断で腰掛けた。

 そして膝下をだらりと垂らしたまま、ぼふっと背中をベッドに預けて天井を見つめる。

 視界に映る真っ白い色に、何故か虚しさが込み上げた。

 何が悪かったのかと考えてみても分からない。

 いや、逆に有り過ぎたというのが本当の理由なのかもしれない。

 蓮が教師で有る事、吏津が生徒で有る事、二人が同性である事、蓮が真面目だった事。

 どちらが悪かったのかと問われればおそらくどちらも悪くない。

 吏津はただ人を好きになっただけで、蓮はその想いに答えられなかった。

 ただそれだけ。

 ふぅと息を吐いてから両腕を瞼に乗せる。

「ダメだ……か。完全に拒否られちゃった」

 笑いが込み上げた。しかし同時に鼻の奥がつーんと痛み、目頭が熱くなる。

 蓮の声が好きだった。

 真面目で少し天然っぽい性格が好きだった。

 初めて好きだと伝えた時に見せてくれた、照れた様な困った様な……はにかんだ笑顔が好きだった。

 いつだって、目を閉じれば鮮やかに蓮の顔が思い浮かぶ。

 少し前までは思い出すのは笑った顔が多かったのに、最近は悲しそうな顔ばかりだ。

 そして、そうさせたのは自分。

「他の人だったら……違っていたかな?」

 好きになったのが蓮でなかったなら……蓮を好きになったのが吏津でなかったなら……そうしたら結果は違っていたかもしれない。

 でもその仮定は意味を持たない。

 あの声を心地良いと感じた瞬間に、気持ちは動き始めていた。

 蓮がもしキスをさせてくれていたなら、いつまでも気持ちを引きずってしまったかもしれない。

 だからこれで良かったんだ。

 そう言い聞かせて微かに笑った時だった。

 音が聞こえて吏津は眼を覆っていた腕を退かし入口を見る。

「柊君!?」

 吏津と眼が合い、戻ってきた橘が驚きに声を上げた。

「え? 今は……」

 古典の時間では無いのにと言いかけて慌てて口を噤む。

 今は月曜の四限。古典が終わったばかりだ。

 結果を報告に来てくれたのだろうかという考えが浮かんだが、吏津の表情を見て、それを訊く事は出来なかった。

「休んで……いきますか?」

 優しく問うと、吏津は微かに頷く。

「はい…………ごめんなさい」

「謝る必要は無いですよ。疲れた時は休む事も大切ですから」

「そう……じゃなくて……」

 吏津の小さな声に橘が首を傾げる。

「折角応援してくれたのに……俺、もう頑張れないから」

 頑張ってはいけないから……。

「柊君?」

「だから、ごめんなさい」

 下を俯いた吏津の頭に、橘はポンッと手を乗せる。

「それこそ、謝る事では無いでしょう。今は何も考えないでお休みなさい」

 橘に促されて、吏津は靴を脱いでベッドに寝転んだ。そして橘が掛けてくれた布団をさらに引き上げ、顔まで覆う。

 そんな吏津の様子を眺めていた橘は、肩に掛かった布が時折びくんっと跳ねるのを見て、カーテンを閉めるとその場を離れた。

――泣いている。

 それはすぐに分かった。

 しかも声を一切出さずに。

 何か慰めるような言葉を掛けるべきだろうかと一瞬考えたが、それを吏津が望んでいるとは思えない。

 橘は浅く息を吐いて普段執務をこなす時に使う椅子に腰掛けた。

 今一番吏津に必要な言葉は自分が掛けるべきものではない。

 吏津の眠るベッドのカーテンを見つめて唇を真一文字に結ぶ。

 自分が余計な口を挟まなければ、吏津は傷つかないですんだかもしれない。

 今はそれが悔やまれてならない。

 だけど、諦めて欲しくなかった。

 橘はかなり長い時間、カーテンを見つめ続けていた。






 どのくらいの時間が経ったのだろうか?

 授業中なためか、一般教室から離れた此処はしんと静まり返っている。

 もう……涙は出てこなかったが、頭が酷く痛む。

 蓮は己の愚かさに小さく笑った。

 笑いは虚しく虚しく心に響く。

「授業行かなきゃ」

 立ち上がって教科書を取りに戻りながら、ふと視界に入った女性教諭の机から手鏡を手に取った。

 鏡を覗く腫れた眼は、泣いていた事をはっきり示唆していて誤魔化しようが無い。

「顔洗ってからしか行けない……か」

 そう呟いてトイレに向かった。



 どうにか瞼の腫れが目立たなくなってからその時間の担当教室に行くと、教師が居なかった為に騒いでいた生徒達が蓮が入ってきた事に気付き各々の席に座る。

「遅れてすまない、授業を開始します」

 半分程時間が過ぎていたためか何人かの生徒から、もうやらなくても良いんじゃないかとの声が上がったが、蓮は何事も無かった様に授業を開始した。

 そしてその時間が終わると、隣りの教室で授業をしていた年配の教師に叱られた。それに何度も謝罪していたが、実際はその教師の小言は蓮の耳にはほとんど届いていなかった。

 思い出すのは、ただ吏津の言葉だけ。

『貴方じゃ無ければ良かった』

 重く心に響いた。

 傷付けて傷付けて、最後には突き放した。

 今の今まで自分の気持ちに全く気付かなかったとは言わない。

 それでも受け入れられないのは変わらないから、突き放すしか無かった。

 幸せになれないのが恐いんじゃない。

 幸せに出来ないのが恐い。

 もしあの手を取って、どこかで気持ちがすれ違い、最後には出会わなければ良かったと後悔されるのが恐い。

 弱いのは自分。

 愛を信じられない。

 永遠を知らない。

 それを誰も教えてくれなかった。

 両親も今まで付き合った恋人も。

 だから、信じられない。

 吏津の言葉が信じられないのではない。

 不変を信じられない。

 だから、あの手を取る事は出来ない。

 絶対に……。

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