第7話

 また泣きそうな顔をさせてしまった……。

 吏津の顔を思い出し、蓮は国語科控え室の個人用の椅子に腰掛けたまま嘆息した。

 他の国語教師が辺鄙な位置にあるここよりも職員室を好んで使っている事が、今は少し有り難い。

 何となく……独りになりたかった。

 傷つけないで、切り離す事など出来はしない。

 それでも吏津を悲しませたくは無い。

 どうしてこんなにも矛盾した想いを抱いてしまうのか?

 蓮はそっと息を吐いてから立ち上がった。

 そろそろ次の授業の準備をしなければならない。仕方なく教科書と要点を纏めたノートを手にした時、ドアが二度、コンコンと鳴る。

「はい」

 蓮は手にしていた物を再び机に置いて、ドアを開けた。

 横にスライドさせたドアから現れた人物と眼が合って息を呑む。

「ひい……らぎ」

 若干震えた声に、吏津はすぐに床へと視線を落とした。

 そして怖々といった様子で「中に……入っても良いですか?」と呟く。

「あ、あぁ」

 蓮がどうにか答えると、顔を上げて蓮を見つめた吏津が、後ろ手にドアを閉めながら悲しそうに微笑んだ。

「蓮さん……」

 目の前までやって来た吏津の両手が蓮の頬を包み込むように触れる。

「柊……?」

 驚きに動けないでいる蓮に吏津はやはり悲しそうに笑んだ。それに居心地の悪さを感じた時だった。

「キスして良い?」

「え?」

 瞠目した蓮を吏津は真っ直ぐに見つめる。

「これで最後にするから……だからキスして良い?」

 励ましてくれた橘に申し訳なく思いながらも、蓮を苦しめているのが自分だという事実が吏津には辛かった。

 初めは蓮の声が聞きたかっただけ。けれど今は笑っていて欲しい。本当は一緒に歩むのは自分でありたかったけれど、それが叶わないならせめて蓮には笑っていて欲しいと思う。

 好きになる事が相手の負担にしかならない事もあるのだと吏津は知らなかった。

 でももう以前とは違う。

 蓮の悲しそうな顔を何度も見てしまった。だから、このままでは居られない。そしておそらくこのままではいけないのだろう。だけど……どうした方が良いかなんて分からない。

 今、この選択をした事を後悔する日が来るのかもしれない。現にすでに取り消したい自分が居る。

 それでも……蓮のためには蓮を諦めるしか思い付かなかった。ふんぎりをつけるために何かキッカケを作ってでも諦める事しか……思い付かなかった。

 好きだから、蓮の負担になりたくなかった。

 沈黙が流れる。

 『柊』と口を開きかけたが、蓮は結局一言も発さぬまますぐに口を閉ざした。

 額や頬ではない。吏津が望んでいる場所が分からないはずも無い。

 嫌だ――と思った。

 けれどそれは、吏津とキスをしたく無いのではない。

 それをしてしまったらこの関係が終わってしまうだろう事が嫌だった。

 軽薄で自分勝手で吏津をいつも苦しめている。

 それなのに想いに応えてやる事は出来ない。

「……ダメだ……」

 蚊の鳴く様な声だった。

 けれども吏津の耳にはちゃんと届いていて、泣きそうに顔を歪めた後、それでも蓮の顔をしっかり見据える。

 そうして吏津は……



 笑った――――



 一連を見ていた蓮は何て顔で笑うのだろうと、目を瞠る。

 これが高校生が見せる表情なのだろうか?

 今まで見てきた泣きそうな顔とは少し違う。

 年よりも大人びた……感じたままに答えるなら……全てを諦めた笑顔。

「柊……」

 思わず呼んだ。

 すると、今度は泣きそうな顔で笑う。まるで自嘲するように。

「貴方じゃ無ければ良かった」

 消え入る様な声で呟いて、吏津が後退る。

「柊っ」

 離れていく吏津の腕に辛うじて触れた蓮の手は、すぐに振り払われた。



 角を曲がる吏津の背中を追っていた視線を手元に落とす。蓮は払われた手を引き寄せて、胸元の服を手繰り寄せた。

 苦しい。

 息が詰まりそうだ。

 まるで発作でも起こしたかのように不規則に息が洩れて、嗚咽が込み上げる。

 震えだした躰を両手で抱き締めた。

 ……終わった。

 今度こそ、本当に終わってしまった。



「どうせ壊れるのなら……キスしとくんだった」

 呟いた瞬間、頬を熱い液体が伝う。


 彼を好きになっているのだと思う。


 もう何もかもが手遅れだけれど……。

 どうやったって、あの子を受け入れることなんて出来ないけれど……それでも……。

「好きだ……」



 鳴り響くチャイムを聴きながら、蓮は床に膝から崩れ落ちる。

 目頭を押さえた蓮の指を液体が伝い、床に点々と斑点を描いた。

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