第6話
吏津は決まって授業の終わる十分前くらいに保健室を出て行く。
だからその存在を知らなかった。
「橘先生」
走って来たらしく、息を切らしながら扉を開けた蓮に橘は今日もいつもと同じ言葉を返した。
「もう戻りましたよ」
どうかしたのか、とはもう訊かない。
訊かなくても蓮が何をしに、そして誰を探しているのかを知っているから。
「そう……ですか」
そのまま去って行こうとする蓮を橘が呼び止める。
「畑中先生!」
「はいっ」
まさか呼び止められるとは思っていなかった蓮は驚いて反射的に振り返った。
「次は授業入ってますか?」
「いえ……空いてます……」
不思議そうに見つめる蓮に橘はにっこりと笑う。
「では少しお時間を頂けませんか? コーヒーを淹れますので是非飲んでいって下さい」
口調こそ柔らかいが、有無を言わさぬ瞳に蓮は「はぁ」と曖昧に答えた。
特に断る理由は無かったが、誘われる理由も分からずに、訝しみながら橘を見つめた。
コーヒーメーカーから香ばしい匂いが漂う。若干固めのソファに腰掛けながら、保健室にこんな香りを充満させてて良いのだろうかと考えていたところで、注がれたコーヒーが蓮の前に置かれた。同時にミルクと褐色の砂糖を差し出されたが、その両方を断り、礼を言いながらカップを受け取ると、黒茶色の液体を一口流し込む。
一息ついてふぅと息を漏らすと、向いに腰掛けた橘が笑った。
それに妙な居心地の悪さを感じて、蓮は居住まいを正しながらカップを木製のテーブルに置く。
「あの……何でしょうか?」
蓮が窺い見ると、橘は先程まで吏津が腰掛けていたベッドを見やった。それからゆっくり蓮へと視線を合わせる。
「畑中先生が柊君を探しているのは何故ですか?」
一瞬返答に詰まったが、蓮はすぐに笑顔を作った。
「前にも言ったじゃないですか? 柊と授業に関して話がしたいだけだと」
前に訪れた時と同じ質問をした橘に、蓮もやはり同じ答えを返す。
「本当にそれだけですか?」
「橘先生?」
いつもならこんな風に食らいついたりはしないはずだが……と蓮は思わず橘を凝視した。
「畑中先生」
「はい」
呼ばれて返事をした蓮を橘が寂しそうに見つめる。
「失った物の大きさを知った時、それがまだ掴める場所にあるなら良い。けれど、どうやっても掴み直せなくなったら、後悔したってしきれない。あとにはただ痛みしか残らないんです」
蓮は僅かに眉を寄せた。はっきりと理解した訳では無いが、気になる言い回しをされた気がする。
「どういう意味でしょうか?」
尋ねた蓮に橘は小さく肩を竦めた。
そしてそれ以上はその事については何も語ろうとせず、ただ
「教師である事を逃げる理由にだけはしないで下さい」
そう告げた。
そのまましばらく沈黙が流れる。その間、蓮は橘から眼を逸らせなかった。
まるで吏津に言われたかの様な錯覚に陥る。
「橘先生……貴方は……」
ようやく口に出した言葉は、橘の悲しそうな笑みに、それ以上続けられなかった。
仕方なく残ったコーヒーを飲み干し、立ち上がる。
「ご馳走様でした」
去っていく蓮に橘もそれ以上は何も言わなかった。
橘はどうした方が良いとは言わない。それは蓮が決めることだから……。
扉を開けると同時に吏津の席を確認するのが、すでに癖になってしまっていた。
いつもの様に空席を見て終わるのだろうと思っていた蓮は、はっと息を呑む。
視線こそ重ならなかったが、いつも空席だったそこには吏津が座っていた。
固まったのは数秒。
蓮がどうにか教室に足を踏み入れ教壇に立つと「起立」という号令がかかり生徒達が頭を下げる。
その間も、蓮は吏津から眼を逸らせられなかった。
「柊吏津」
いつもは返事を得られないのだが、今日は吏津がいる。どうするのだろうかと怖々名を呼ぶと、当然といえば当然だが「はい」と返事があった。
出席簿に丸印を付ける手が震えている。
何故震えているのかは蓮自身分からなかった。
嬉しいのか恐いのか……。
どうして今日は居るのだろう?
許してくれたのだろうか?
そこまで考えて、はたと気付く。
何を許すのか?
自分は吏津に許しを請わなければならない様な事はしていない。
では、何だろう?
諦めてくれたのだろうか?
二人にとってそれが最良の選択である事は変わらない。
それなのに少しだけ胸をちくりと何かが刺した。
『教師である事を逃げる理由にだけはしないで下さい』
ふと橘の言葉が蘇る。
そんな事を言われてもどうしようも無い。
そう思って蓮は強く下唇を噛んだ。
不幸にすると分かっていて、どうして受け入れられると言うのか?
己が臆病なのだとは分かっている。
けれども過去を忘れることなど出来ない。
蓮は何度も見てしまった。
目の前で本当に疲れ切った顔で笑う母を。
たまに帰宅しても酒ばかり飲んで会話など一切しようとしない父を。
そして二人の人生が二度と重ならない事を告げた瞬間を。
男女間でさえ旨くいくかなど分からないのに、背徳を背負うと知っていてどうやって吏津の手を取る事が出来る?
両親の間に最初から愛が無かったとは思わない。
けれど、想いに不変は有り得ない。いつか気持ちがなくなるかもしれない。それが……恐い。
唐突に吏津が顔を上げた。
視線が重なったのは、瞬きほどの一瞬間。反射的に眼を逸らしてしまって、蓮は居た堪れなさに教科書を握る手に力を込めた。
吏津とちゃんと話し合わなければいけない。
そのために探していたのだから……。
けれど、何を話すつもりなのだろうか?
授業をサボる吏津にその理由を問うのが普通だが、それは多分必要無い。
どう考えてみても原因は蓮だろうから。
では何を……。
もう一度諦めろと言うのか?
あの泣きそうに顔を歪めた子供に……?
教台に置いた手が白くなるほど強く握り締めている事に気付いて、蓮はふぅと息を吐いた。
近付けても遠ざけても心は苦しいままな気がする。
吏津は机の上で祈る様に手を組んだ。
橘に励まされて授業に出てはみたが、吏津の思い違いでなければ蓮は吏津から眼を背けた。
恐い。
拒絶されるのがとても恐い。
好きなままでいるのは嫌いになるより簡単なのかもしれない。けれど諦めないのは諦めるより苦しい。
(もう一度……俺の名前を呼んで……)
吏津はゆっくりと机に俯せた。
どのくらいの時間が流れたのだろう?
「柊、起きろ」
声を掛けてもらえた事に安心して顔を上げ、吏津はひゅっと息を止めた。
悲しそうな、辛そうな瞳。
どうして?
口に出してしまいそうになって慌てて眼を逸らす。
――――俺が悪いの?
俺が蓮さんを好きになったのが悪いの?
だから貴方はそんな眼で俺を見るの?――――
蓮の視線が恐かったんじゃない。
悲しそうな、その眼に心が悲鳴を上げた。
どうして好きな人を傷付けてしまっているのだろうか?
結局その時間の二人は、互いにちらちらと窺い見ながらも決して眼を合わせようとはしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます