第5話

 もう見慣れてしまった空席に、蓮はそっと息を吐いた。回数にしてみればまだ3回目。しかし、あからさますぎる態度に吏津のクラスメイトが気づかないはずも無い。返事など無いと分かっていながら呼んだ名前に、何名かの生徒から憐憫の眼差しを向けられた。

 吏津は優等生かと言えば否だ。しかし決して問題児でも無い。授業をサボるような事は無かった。そして付け加えるなら、今でも古典の授業以外をサボったりはしない。

 また、授業不参加の理由が毎回体調不良で、きっちり保健室に行ってるものだから、蓮自身どうしたら良いのか分からずにいた。

 もう何日顔を見ていないのだろう。

 同じ学校に居るのに、顔すら見れないことを不思議に思う。

 けれども、もしかしたら授業以外で顔を見るのなんて実際にはほとんど無いのかもしれない。

 何より以前吏津と話が出来たのは、吏津が蓮の居る場所まで訪ねて来てくれていたからだ。

 廊下ですれ違った事があったかと考えてみると、その回数は皆無に等しい事を思い出した。

 蓮は、空席を眺めてから、もう一度保健室に行ってみようと決心した。


 しかし、授業が終わって急ぎ保健室を訪れてみたが、すでに吏津の姿は無かった。



 数日後の古典の授業の後。

 今日こそは、と意気込んで保健室のドアをノックして中を覗くと、ベッドは全て空で奥で執務をしているらしい養護教諭が一人座っているだけだった。橘は一瞬だけ入口に視線を寄越したが、蓮の姿を認めて机に向き直る。

「あの……橘先生」

 しかし名を呼ばれた為、作業を中断し椅子ごと振り返ると蓮が橘へと近付いてきた。

「どうかされましたか?」

 手にしていたペンを置き、蓮と向き合って問い返した橘に、気まずそうにしながらも「二年の柊吏津が来ませんでしたか?」と尋ねる。

「柊君?」

「はい」

「彼なら先程まで居ましたよ」

「あの、それで今は?」

 急に声を荒らげた蓮に驚いた様に目を瞬かせてから、橘は「教室に戻ったんじゃないですか?」と答えた。

 実際、吏津からこれからどこに行くのかを聴いていた訳では無いので、橘には吏津がどこに居るのかは分からない。

 それにそこまで把握する必要性も感じてはいなかった。

 最近よく顔を出す様にはなったが、毎日来る訳ではないし、何より彼はベッドに寝転ぶだけなので、ほとんど会話が成立しない。

 一応気になってこっそり出席簿を覗いてみたが、基本的には授業に参加しているらしい。

 だから保健室通いの理由は教室にいたくないとか、クラスメイトと何かあったとかでは無いのだろう。

 ただ気になる事が全く無い訳では無い。彼が此処に来る時間には共通点がある。

「畑中先生が柊君を探しているのは何故ですか?」

 唐突な質問に蓮は一瞬返答に詰まったが、すぐに笑顔を作った。

「授業の事で柊と少し話がしたいだけですよ」

「そう……ですか」

「ええ。すみません、お邪魔しました」

 そのまま去って行こうとする後ろ姿に橘が声を掛ける。

「何でしたら、それとなく私から話してみましょうか?」

「結構です!」

 大声で返され、橘は驚いた表情のまま蓮を見つめた。

「あ……すみません」

 思っていたより強めの口調になってしまった事に慌てて、蓮はすぐに謝り頭を下げる。

「俺がやらなければならない事なので、自分で探してみます」

 そう言って保健室を出たところでチャイムが鳴る。

 この時間も授業が入っている蓮は、これ以上吏津を探す事は出来ないな、と嘆息した。






 古典の時間を保健室で過ごすのは、もう何回目になるのか?

 決まった曜日の決まった時間にやってくる吏津を、橘は変わらず受け入れていた。

 しかし同時にこのままではいけないとも考え始めていた。

「柊君」

 呼ぶとベッドに腰掛けていた吏津が顔を上げる。

「貴方が此処に来る理由は、畑中先生……ですか?」

 途端に吏津が眼を見開いた。

「どう……して?」

 本当に驚いた様子の吏津に橘は困った様に笑む。

「月曜日の三限と木曜日の二限。柊君が来る時間は決まってます。だから調べるのは簡単でした」

 そして何より明確な理由が別にあったのだが、橘はその事には一切触れずに一度言葉を区切って吏津を見つめた。

 そんな橘を吏津は怖々と窺う様に見やる。

「貴方が避けているのは、畑中先生ですね?」

 核心を突かれて吏津は反射的に眼を逸らした。何もかもを見透かす様な瞳を見返すのが恐かった。

「柊君は畑中先生が嫌いですか?」

 見るともなしに保健室の薬品棚を眺めながら、橘の質問に何と答えたものかと考えを巡らす。

 本心を告げるなら、蓮が好きだ。

 だから、会いたくない理由は別にある。

 あの時された様に……もう一度でも無視されたなら、きっと耐えられない。

 しばらく考えた後、吏津は橘を呼んだ。

「先生」

「はい?」

 返事をしながら、橘は吏津の顔が良く見える向いのベッドに腰掛ける。

 その様子を一通り眺めてから、吏津がゆっくり口を開いた。

「好きになっちゃいけない人っているんですね」

 泣きそうに笑った吏津に、橘はすぐには掛ける言葉を見つけられなかった。同時に何となく感づいていた吏津が蓮を避けていた理由と想いを確信する。

「私が思うには……」

 短い沈黙の後、不意に話し始めた橘を吏津はじっと眺めた。

「想いは誰かに決められたり、強制されたりするものじゃないから、この世に好きになってはいけない人なんていないと思います」

「でも……それなら俺がもし先生を……」

 好きだって言ったら、先生は俺を好きになってくれますか?

 そう口に出してしまいそうになって吏津は慌てて口を噤んだ。

 馬鹿げてるという思いと……何より、あの人以外に……例え仮定の話だとしても、『好きだ』とは言いたくなかった。

 馬鹿だと思う。

 いつの間にこんなに好きになっていたのだろう。

「道徳とか秩序は確かに大切なんだろうけど、私は気持ちをもっと大切にして欲しいと思ってます」

「え?」

 吏津が首を傾けると、橘は柔らかく笑う。

「大人になればなるほど色々な事に捉われて心を殺してしまう。君達の様な真っ直ぐさに憧れていながらも大切な物を見失う。大人は卑怯なのかもしれない。でもね柊君。それでも失って気付かない程、愚かでは無いとも私は信じています」

「先生?」

 どういう意味かと問う様に吏津は数回瞬きを繰り返した。

「まだ終わりじゃない。生きてる限りは終わらない。好きなら、逃げてはダメだ」

 橘の言葉に吏津が息を呑む。そのまましばらく橘の顔を見つめてから、唐突に声をあげて笑った。

「参るなぁ。橘先生鋭すぎ」

「私も……卑怯な大人の一人ですから」

 その言葉に吏津は首を横に振った。

「俺……橘先生を好きになれば良かった」

 そうしたらもっと楽だったかもしれない。

 橘は考える素振りを見せた後「ある人が言ってました。恋愛は障害がある程燃える……のだそうです」と悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 それに対して吏津は、有り過ぎては困ると本気で愚痴りそうになったが、優しく見つめる瞳に小さく息を吐く。

 来週は……もしかしたら此処には来ないかもしれない。

 そんな思いを胸に、吏津は立ち上がった。

「ありがとう先生。まだ……頑張れる」

「えぇ」

 優しい笑みに、吏津もようやく笑い返す事が出来た。

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