第4話

 あと五分程で授業が始まるという頃、吏津は黒板の上に設置されている時計と手元の教科書を比べ見る。

 落ち着かない。

 さわさわ、さわさわとまるで木の葉が風で擦れ合う様な……そんな感覚が消えない。

 もうすぐチャイムが鳴る。

 それは大好きな人に会える大切な時間の始まりを告げる音。

 でも今は何処か恐かった。

 蓮に会いたい。……けれども恐い。

 何が恐いのかは分からないが、ヒドく落ち着かない。

 もうすぐ開始の合図が鳴る。

 どうしよう。と思った。

 吏津には長い時間に感じたが、決断は実際には早かった。

 椅子から立ち上がり、後ろを振り返る。

 突然振り返った吏津に驚いているクラスメイトに、

「悪いけど、体調不良で保健室行ったって先生に伝えて」

 そう告げて席を立った。

 鬼気迫るほどの迫力に押されて、クラスメイトは深く考える間もなく頷いていた。




 教室に入ってすぐ、蓮はいつもの席に吏津が居ない事に気付いた。

 席替えかとも考えて室内を見渡したが、その何処にも姿は無い。机の上に置かれた古典の教科書だけが、彼が先程までここに居た事を示している。

 けれど、出席を取る前に「柊はどうしたのか」と尋ねるのは、まるで吏津の事ばかり気にしているかのようで、教師という立場上憚られて出来なかった。

 実際そう告げたとしても、気にするような生徒は居ないという事すら気付かない。そう気付けないほどに捉われている事を自覚していなかった。


 出席簿を開き一人ずつ名を呼んで、簿に出欠を記す。そしてついに吏津の名前が眼に入った。

「柊吏津」

 当然だが返事は無い。

 やはり休んでいる訳では無いらしく、前の時間には居た事を示す丸印が記されている。それでどうしたのかと尋ねようとすると、吏津の後ろの席の生徒が、 「吏津は体調が悪いみたいで保健室です」と答えた。

「……そうか。分かった、ありがとう」

 そうして蓮は何事も無かった様に次の名前を呼ぶ。

 しかし返事をする生徒の声を、どこか遠くに聞いていた。





 保健室のドアを開くと、生憎養護教諭は居なかった。

 利用記録に時間とクラス、氏名、それから頭痛という嘘の理由を記入する。

 そしてベッドを眺めた。

 4つあるベッドは全て空いているらしく、カーテンが開かれている。

 吏津は入口から一番奥、左端のベッドのカーテンを閉めて靴を脱いだ。それからのそっと寝転ぶ。

 今はただ……何も考えないで眠りたかった。

 布団の端を掴み、ぎゅっと引き寄せる。

 もう……ダメなのかな?

 諦めないといけないのかな?

 ぐるぐると余計な事ばかり考えてしまい、頭まで布団を被った。

 その時、ドアの開く音がした。

「……あ」

 小さく呟き、入って来た白衣姿の男性が利用記録を覗く。

「2年2組、柊吏津……」

 唯一閉じられているカーテンを眺めてから、保健室の管理者であるたちばな伊弦いつるはベッドへ近付いた。その微かに聞こえる足音に、吏津が布団から顔を出す。

「柊君、起きてますか?」

 もし寝ていたら……と気遣ってくれているのか小さい声で話し掛けられた。少し遅れて吏津が「はい」と返事をする。

「具合はどうですか? カーテンを開けても構いませんか?」

「……体調は問題ありませんから、放っておいて下さい。少しベッド借りてて良いですか?」

 吏津の言葉に橘が声には出さずに笑う。

「おかしな日本語ですね。体調が悪くないなら追い出したいところですが、今日は空いているので大目にみましょう」

 その言葉に今度は、吏津が布団の中で微かに笑った。

「ありがとう先生」

「ゆっくりお休みなさい」

「はい」

 答えながら、ぎゅっと枕を抱き締める。

 蓮に会いたいと思った。

 声が聞きたいと。

 だけど恐い。会うのが……恐い。

 嫌いだと告げられるよりも、存在を無視される事の方が辛い。

 あの時、蓮は吏津の名前を呼ばなかった。俯ぶせた吏津に気付いたはずなのに、名を呼ばなかった。

 それはもう……吏津という存在に興味が無い。そう示唆しているように思えて……苦しい。

 吏津は唇を強く噛んで、眼を閉じた。


――蓮さん……。好きでいることも……ダメなんですか?





「先生……先生っ‼」

 はっと顔を上げると、直立したままの女生徒が困った様に蓮を見つめていた。

「……終わりましたが、次も読むんですか?」

 訊かれて、慌てて教科書を見る。

「あ、ここまでで大丈夫です、ありがとう。次、倉橋くん。今の所の訳はどうなりますか?」

 指名された男生徒が、立ち上がって途切れ途切れにどうにか訳している声をぼんやりと聴きながら、蓮は吏津の席を眺めた。

 仮病なのか、本当に具合が悪くなったのかは蓮には分からない。

 ただ、吏津の居ない教室は何となく殺風景に感じた。

 もし吏津が故意に蓮を避けたのだとしたら、蓮には思い当たる原因がある。

 前回、俯せになった吏津の名を呼ばなかった。彼を起こそうとしなかった。

 本当に寝ていたのなら、呼んだか呼んでいないかまでは分からないだろうが、今までの吏津が実際に寝ていたのかどうかは甚だ怪しい。名を呼べばすぐに顔を上げた。まるで呼ばれるのを待っている様に……。

 吏津が俯せた事に気付いた時、どうしようかと悩んだ。

 一瞬、名を呼びかけた。

 けれども、もしいつもの様に微笑まれたら……いや、それ以上にその状況下で眼を逸らされたなら……。そこまで考えると、どうにも言葉が出てこなかった。だからわざと気付かなかったフリをして、授業を続けた。

 それでも気になってちらりと吏津を見ると、彼は両手でぎゅっと服を握っていた。

 その意味を……なんとなく分かっていながら、それ以上深く考えるのが恐かった。

 どうして名を呼んでやらなかったのかと、今更ながらに思う。

 いつもいつも吏津の事では後悔してばかりだ。

「先生?」

 ふと見上げると、訳していた倉橋が「ちゃんと聴いてた?」と首を傾げる。

 蓮は「あ……」と小さく呟いて、己を叱責した。

 授業中に何をやっているんだか……。

 教師としてあるまじき事だ。

 一度瞑目して、倉橋を席に着かせると、二人の生徒にさせた文章の要点と説明を黒板に書き出した。




 授業を終えて蓮が保健室を訪れた時には、吏津はそこには居なかった。代わりに養護教諭の橘に「どうかしましたか?」と尋ねられ、「いえ……」と適当に濁す。

 会って……どうしたかったのか、蓮自身分かっていなかった。

 具合の悪い生徒を見舞う、それは教師として別段不思議なことではないが、蓮は吏津の担任ではない。ただの一教科を担当する教師が、ただその時間授業に出なかったからといってその生徒を訪れるのは普通はないだろうと考え、蓮はそのまま保健室を後にした。

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